国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧大國家住宅(岡山県和気郡和気町尺所)
ふりがな
:
おおくにけじゅうたく
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
しゅおく
旧大國家住宅 主屋
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/民家
時代
:
江戸後期
年代
:
宝暦10
西暦
:
1760
構造及び形式等
:
正面18.6m、側面18.8m、2階建、工字形側面入母屋造、茅及び本瓦葺、四面庇付、本瓦葺、北面門、塀、便所及び南面風呂附属
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02450
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2004.07.06(平成16.07.06)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
岡山県
所在地
:
岡山県和気郡和気町尺所38番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
一般財団法人大国家
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
旧大國家住宅 主屋
解説文:
詳細解説
旧大國家住宅は,岡山県東部の和気町中心にあり,ほぼ方形の屋敷を構える。
北を正面として主屋が建ち,その西に蔵座敷,中蔵,乾蔵,酉蔵が並ぶ。主屋は宝暦10年(1760)に建てられ,江戸末期頃に現在の姿になったと考えられる。蔵座敷は享和元年(1801)の完成で,江戸末期頃に内部の御成の間などが整えられた。中蔵,乾蔵,酉蔵はともに文化5年(1808)の建設と判明する。
旧大國家住宅は,中国地方東部を代表する大庄屋格の住居のひとつで,江戸後期から末期にかけての屋敷構成をよく残し,高い価値がある。特異な屋根形状を持つ大規模な主屋や,洗練された数寄屋風意匠になる蔵座敷は,江戸後期から末期にかけて行われた普請の結実であり,民家の変遷過程を知る上でも,重要である。蔵などの附属施設や宅地も併せて保存を図る。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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旧大國家住宅 主屋
旧大國家住宅 主屋
旧大國家住宅 主屋 内部
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旧大國家住宅 主屋
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旧大國家住宅 主屋 内部
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解説文
旧大國家住宅は,岡山県東部の和気町中心にあり,ほぼ方形の屋敷を構える。 北を正面として主屋が建ち,その西に蔵座敷,中蔵,乾蔵,酉蔵が並ぶ。主屋は宝暦10年(1760)に建てられ,江戸末期頃に現在の姿になったと考えられる。蔵座敷は享和元年(1801)の完成で,江戸末期頃に内部の御成の間などが整えられた。中蔵,乾蔵,酉蔵はともに文化5年(1808)の建設と判明する。 旧大國家住宅は,中国地方東部を代表する大庄屋格の住居のひとつで,江戸後期から末期にかけての屋敷構成をよく残し,高い価値がある。特異な屋根形状を持つ大規模な主屋や,洗練された数寄屋風意匠になる蔵座敷は,江戸後期から末期にかけて行われた普請の結実であり,民家の変遷過程を知る上でも,重要である。蔵などの附属施設や宅地も併せて保存を図る。
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詳細解説
旧大國家住宅(岡山県和気郡和気町尺所)六棟 主屋、蔵座敷、中蔵、乾蔵、酉蔵、井戸場、宅地 大國家は、戦国武将の大森新四郎道明の末裔と伝え、近世に入って和気の地に移り、大森姓を名乗っていた。現在の地に屋敷を構えたのは、一八世紀中頃の大森満體の時で、以後、酒造業や運送業を営んで財をなすとともに、尺所村の大庄屋格を務め、一九世紀中頃からは鉱山業も営んだ。しかし、明治中期頃には各事業を止め、以後は土地経営を主とした。 旧大國家住宅は、和気町の中心部を流れる金剛川の東岸平地にある。北が街路に面したほぼ方形の屋敷を構え、北面する主屋が建ち、その西に蔵座敷、中蔵、乾蔵、酉蔵が並ぶ。主屋の南には井戸場があり、中蔵と乾蔵の北側には土塀を設ける。主屋正面には門と塀が延び、庭との境を形成する。主屋と蔵座敷は、平成一二年三月二八日に岡山県重要文化財に指定された。建物と土地は平成一四年に和気町の所有となり、和気町では年数回公開し、活用を図っている。 主屋は、酉蔵の二階柱南面に「宝暦十年庚辰之春、父武助五十一歳之時、新木以珍隆之峯弐ツ之本宅仕候/殿様同年和意谷へ御越被遊候、勝衛九歳之時也、家仕五十ヶ年月、屋敷之地□仕候、□□□」と墨書があり、宝暦一〇年(一七六〇)に建てられたことがわかる。このほかの墨書などから、数度の増改築を経て、現在の姿になったのは江戸末期頃と考えられる。 蔵座敷は、棟札等がないが、二階柱に「享和元年辛酉十一月冬至/庚寅日 大森満宣/十六歳書之」の墨書がある。前身建物を一部に再用しながら、享和元年(一八〇一)に完成し、江戸末期頃に内部の御成の間などが整えられた。 中蔵、乾蔵、酉蔵は、ともに柱の墨書から文化五年(一八〇八)の建設と判明する。土塀は天保年間頃、井戸場は江戸末期頃と考えられる。 主屋は、正面一八・六メートル、側面一八・八メートルで、屋根は、東西棟で入母屋造、茅葺の二棟を南と北に平行に配し、その中央部を直交する本瓦葺で連結して煙出を設け、全体として工字型の棟を架けた独特の形状になる。 大國家所蔵文書の中に、大森文助勝衛(文化一三年没)が、有吉喜次郎に宛てた文書の控えがあり、次のような文言がある(前後略)。 一 本宅ハ棟弐ツニ而 中にとい/御座候事 一 地しやくハ本宅之真中ニ/置 座敷東西 相改申候尤/本家棟弐ツ御座候ニ付 南 之/家中ニじしゃく立申候 日付は、「午四月十一日」とあるので、文化七年のものと考えられる。当時、勝衛は主屋の改造、蔵座敷等の新築を行っており、この文書は家相等の意見を伺うためのものと判断される。ここにある「棟弐ツ」は北と南の棟と考えられ、「中とい」は東側の谷にあったのかもしれない。なお、酉蔵二階柱南面の墨書の「珍隆之峯弐ツ之本宅」も同じく特徴ある屋根形式を指しているものと考えられ、現在の正面と東側面はほぼ当初に近い形状と考えられる。 一階は、東半を広い土間部、西半を床上部とする。正面東寄りに大戸口を設け、土間が背面まで通り、東妻側に小部屋やヒロシキなどを設ける。床上部は正面から奥へ四室を二列に並べた構成で、正面側にミセとザシキがあり、奥にオクノマ、ブツマ、ダイドコロなどを配している。二階は、中央部に階段室があり、北棟と南棟にそれぞれ小部屋を並べ、北棟西端で蔵座敷の二階に通じている。 構造は一階軸部に二階をのせた構成で、一部に通柱を配している。小屋組は北棟、南棟の入母屋造を叉首組とし、その間に和小屋を組んで、巧みに繋いでいる。 一階各室の天井は、北西隅のザシキを棹縁天井とし、他は根太天井が基本であるが、土間南半は吹抜で漆喰塗の梁組をあらわす。二階は、各室とも簡素な棹縁天井を張る。 蔵座敷は、桁行一四・九メートル、梁間九・九メートル、土蔵造二階建で、屋根は南北棟の切妻造、本瓦葺、四面に銅板葺の庇を設ける。床・棚を備えた北側の座敷を御成の間と称し、この南に茶室を配し、南側に座敷二室を配する。二階は広い一室空間とする。漆喰塗で要所に瓦を張った重厚な外観は享和の状態であるが、内部は江戸末期の数寄屋風意匠に改められている。 中蔵は、桁行三・九メートル、梁間三・〇メートル、土蔵造二階建で、屋根は切妻造、本瓦葺、小屋組は登梁式である。外壁は漆喰塗で、一階南面に戸口を設け、内部は一・二階とも一室である。 乾蔵は、桁行四・九メートル、梁間四・〇メートル、土蔵造二階建で、屋根は切妻造、本瓦葺、小屋組は登梁式である。外壁は漆喰塗で、一部に平瓦を張る。一階東面に戸口を設け、内部は一・二階とも一室である。 酉蔵は、桁行一一・八メートル、梁間五・〇メートル、土蔵造二階建で、屋根は切妻造、桟瓦葺、小屋組は登梁式とし、東面に庇を付ける。外壁は漆喰塗で、北面が乾蔵と接し、一階東面には二箇所の戸口を設ける。内部は一階を二室に分けるが、二階は広い一室にする。 井戸場は、桁行五・九メートル、梁間五・九メートルで、屋根は切妻造、桟瓦葺、西面に庇を付け、主屋との間に門が附属する。一階は土間で北東隅に井戸があり、二階は物置になる。 宅地内には、蔵座敷北側の池、北面の石橋、周囲の石垣、井戸などがあり、中心部の建物や土蔵群などの附属施設と一体となって屋敷の構えをよく伝えている。 旧大國家住宅は、中国地方東部を代表する大庄屋格の住居のひとつで、江戸後期から末期にかけての屋敷構成をよく保持しており、高い価値がある。特異な屋根形状を持つ大規模な主屋や、洗練された数寄屋風意匠になる蔵座敷は、江戸後期から末期にかけて行われた普請の結実であり、民家の変遷過程を知る上で、貴重である。蔵などの附属施設や宅地も保存を図る。 【参考文献】 『大国家資料図録』(大国家資料保存会 二〇〇二年) 『旧大国家住宅調査報告書』(和気町 二〇〇四年)
関連情報
附指定
土塀(中蔵及び乾蔵北方延長8.6m、本瓦葺)
関連情報
附指定
附名称
:
土塀(中蔵及び乾蔵北方延長8.6m、本瓦葺)
附員数
:
1棟