国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧松坂御城番長屋
ふりがな
:
まつさかごじょうばんながや
棟名
:
東棟
棟名ふりがな
:
とうとう
旧松坂御城番長屋 東棟(左)、西棟(右)
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/住宅
時代
:
江戸末期
年代
:
文久3
西暦
:
1863
構造及び形式等
:
桁行90.9m、梁間9.4m、一重、切妻造、桟瓦葺、東面角屋12所附属
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02456
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2004.12.10(平成16.12.10)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
三重県
所在地
:
三重県松阪市殿町1384番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
合同会社苗秀社
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
旧松坂御城番長屋 東棟(左)、西棟(右)
解説文:
詳細解説
旧松坂御城番長屋は,松坂城南東の三の丸に位置する。文久3年(1863),松坂城警護のため,新たに松坂御城番職が設けられ,城内三の丸に御城番武士20家の居宅として建てられた。
東と西の2棟からなり,小路を挟んで南北に相対して建つ。東棟は桁行90.9m,西棟は桁行83.6mで,ともに平屋建,桟瓦葺,背面に角屋を附属する。
各棟とも1戸あたり間口5間を基準として,東棟10戸,西棟9戸が残る。
旧松坂御城番長屋は,建築年代や由緒が明確で,近世武士の長屋建築として,全体規模,各戸の規模ともに最大級で,高い価値がある。他に類を見ない小路を挟んで2棟からなる構成も貴重である。
外周を槙の生垣で囲われた宅地も,建物と一体となってよく維持されている。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧松坂御城番長屋 東棟(左)、西棟(右)
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旧松坂御城番長屋 東棟(左)、西棟(右)
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解説文
旧松坂御城番長屋は,松坂城南東の三の丸に位置する。文久3年(1863),松坂城警護のため,新たに松坂御城番職が設けられ,城内三の丸に御城番武士20家の居宅として建てられた。 東と西の2棟からなり,小路を挟んで南北に相対して建つ。東棟は桁行90.9m,西棟は桁行83.6mで,ともに平屋建,桟瓦葺,背面に角屋を附属する。 各棟とも1戸あたり間口5間を基準として,東棟10戸,西棟9戸が残る。 旧松坂御城番長屋は,建築年代や由緒が明確で,近世武士の長屋建築として,全体規模,各戸の規模ともに最大級で,高い価値がある。他に類を見ない小路を挟んで2棟からなる構成も貴重である。 外周を槙の生垣で囲われた宅地も,建物と一体となってよく維持されている。
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詳細解説
旧松坂御城番長屋 二棟 東棟、西棟、宅地 旧松坂御城番長屋は、松阪市街の中心部に築かれた松坂城址の南東に位置している。この東には、外堀を隔てて同心町と称した武家屋敷地が広がっていた。 松坂の近世城下町としての成立は、蒲生氏郷による天正一六年(一五八八)の松坂城築城に始まる。蒲生氏の転封後、元和五年(一六一九)からは紀州藩の支配となり、明暦三年(一六五七)に松坂城代を配して伊勢領を治めた。松坂城の警護は、紀州藩から年々松坂加番として派遣されていたが、文久三年(一八六三)に新たに松坂御城番の職が設けられた。このとき、御城番武士二〇家の居宅として、松坂城三の丸の地に建てられたのが御城番長屋である。 明治以降、松坂御城番の旧武士は、相互扶助のための苗秀社を結成した。松坂御城番長屋は、苗秀社が所有・維持管理を行い、各居住者に賃貸する形態で、現在も住居として用いられている。なお、苗秀社は明治維新後、御城番の武士一五名が相互扶助を目的として結成した結社で、明治一一年に認可された。業務内容は、払下げを受けた土地を元に農業や貸地、貸家経営で、大正一五年には合資会社に改組し、今日に至っている。 旧松坂御城番長屋は、東と西の二棟からなり、南北に通る幅五メートルの市道を挟んで、東西の敷地に相対して建つ。各敷地は周囲に低い石垣を築き、市道に面した前側は槙の生垣で囲んで前庭を設ける。裏側は各戸毎に板塀等で区切り、裏庭を畑地などとし、背面敷地境を槙の生垣で囲っている。 東棟は、桁行九〇・九メートル、梁間九・四メートル、平屋建、切妻造、桟瓦葺で、西を正面とし、背面には一二所の角屋を附属する。西棟は、桁行八三・六メートル、梁間九・四メートル、平屋建、南面切妻造、北面入母屋造の桟瓦葺で、東を正面とし、背面には一〇所の角屋を附属する。 各棟とも、一戸あたり間口九・一メートル(五間)を基準として、東棟が一〇戸、西棟が九戸を連ね、背面に延ばした角屋を便所や炊事場とする。各戸の平面は、正面向って右手が一間幅の通り土間、左手が床上部で整形四間取りの四室とする。土間側の二室が六畳、上手の二室が八畳で、これらの居室の前後には縁を設けるが、表側六畳前面には式台を構え、表側八畳には床・棚を設ける。床上部の四室は畳敷で、天井は表側二室と奥の八畳が棹縁天井、奥の六畳と土間は小屋組を現す。 小屋組は和小屋で、梁行方向の小屋梁上に半間間隔で束を立てて母屋を受け、棟通りの束は貫で繋いでいる。 現在の各戸は、床上部の四室がほぼ当初の形式を保っているが、土間廻りや背面の角屋は後世に改変されている。しかし、軸組や小屋組などは保存状態が良好で、基本的な構成はよく保持している。 武家屋敷の長屋建築の類例には、天保一三年(一八四二)の旧新発田藩足軽長屋(新潟県新発田市)、安政三年(一八五六)の旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(山口県萩市)、元治年間(一八六四)頃の旧山内家下屋敷長屋(高知県高知市)などがある。 これらはいずれも一棟で現存している。旧松坂御城番長屋は、旧新発田藩足軽長屋と類するが、規模や形式に格段の違いがある。旧厚狭毛利家萩屋敷長屋と旧山内家下屋敷長屋は、大規模な武家屋敷の一部であって、形式や意匠の点でも大きく異なっている。 旧松坂御城番長屋は、建築年代や由緒が明確で、近世の武家の長屋建築として、全体規模、各戸の規模ともに最大級で、価値が高い。また、他に類を見ない小路を挟んで二棟からなる構成も貴重で、建物と一体となってよく維持されている宅地とともに保存を図る。 【参考文献】 『御城番屋敷 建物調査報告書』(松阪市教育委員会 二〇〇二年)