国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
百済寺本堂
ふりがな
:
ひゃくさいじほんどう
棟名
:
棟名ふりがな
:
百済寺本堂
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/寺院
時代
:
江戸前期
年代
:
慶安3
西暦
:
1650
構造及び形式等
:
桁行五間、梁間五間、背面庇付、一重、入母屋造、正面軒唐破風付、檜皮葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02457
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2004.12.10(平成16.12.10)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
滋賀県
所在地
:
滋賀県東近江市百済寺町
保管施設の名称
:
所有者名
:
百済寺
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
百済寺本堂
解説文:
詳細解説
百済寺は,鈴鹿山脈の西山腹に位置する天台宗寺院で,湖東三山の一つとして知られている。
本堂は,天海の高弟亮算が再建に着手,慶安3年(1650)に完成した。桁行5間,梁間5間,背面張出付で,屋根は入母屋造,檜皮葺,正面軒唐破風付である。平面は梁間方向に前方から外陣,内陣,後陣に三分割されている。
百済寺本堂は,中世以来の伝統的な仏堂形式に則って,内陣と外陣の対比的な空間秩序を保持しながら,平面的にも造形的にも近世らしい平明な構成を創りあげており,価値が高い。
中世以来の仏堂形式が変容する過程で,近世的な特質を顕現した代表的な遺構として,貴重である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
百済寺本堂
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百済寺本堂
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解説文
百済寺は,鈴鹿山脈の西山腹に位置する天台宗寺院で,湖東三山の一つとして知られている。 本堂は,天海の高弟亮算が再建に着手,慶安3年(1650)に完成した。桁行5間,梁間5間,背面張出付で,屋根は入母屋造,檜皮葺,正面軒唐破風付である。平面は梁間方向に前方から外陣,内陣,後陣に三分割されている。 百済寺本堂は,中世以来の伝統的な仏堂形式に則って,内陣と外陣の対比的な空間秩序を保持しながら,平面的にも造形的にも近世らしい平明な構成を創りあげており,価値が高い。 中世以来の仏堂形式が変容する過程で,近世的な特質を顕現した代表的な遺構として,貴重である。
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詳細解説
百済寺本堂 一棟 百済寺は、琵琶湖の東方、鈴鹿山脈の西山腹に位置する天台宗寺院で、近在の金剛輪寺、西明寺とと共に湖東三山として知られている。傾斜地を登る参道両側には石垣を築いた坊跡が連なり、伽藍中心部は本坊喜見院から石段を登り、仁王門を過ぎた高台にある。ここは斜面を削り、西方に石垣を築いた南北に長い平坦地で、中央に本堂、北に鐘楼、南には三所権現社が建つ。 創建は推古天皇の時代で、聖徳太子によると伝えられるが、史料上の初見は寛治三年(一〇八九)で、平安後期には比叡山を中心とする天台仏教圏で、寺勢を保持していたことが知られる。中世には数度の火災にあい、明応七年(一四九八)、文亀三年(一五〇三)の火災後には天皇の綸旨を得て再興が図られた。しかし、織田信長により全山焼失させられ、天正一二年(一五八四)には佐和山城主羽柴(堀)秀政が本堂を再建したとされるが、詳らかではない。 近世に入り、慶長一七年(一六一二)に徳川家康から朱印状を得た。寛永一一年(一六三四)には天海が山門三院執行として法度などを寄せ、天海の高弟亮算が本堂再建に着手した。寛永一四年(一六三七)には明正天皇の綸旨を得て、甲良豊後を大旦那として、本堂、仁王門、山門などの落慶供養が慶安三年(一六五〇)に行われた。『近江愛智郡誌』第五巻(滋賀県愛智郡教育会 昭和四年一二月)には、再建経緯を詳しく記した棟札写が所載されている。これが現在の本堂で、高欄親柱の擬宝珠金物に「百済寺本堂/慶安五年/壬辰/三月吉日」の刻銘があり、造作の完成まではさらに数年を要した。 本堂は西面し、桁行五間、梁間五間で、背面に張出を付ける。屋根は、入母屋造、檜皮葺で正面中央に軒唐破風を設ける。正面と両側面には擬宝珠高欄付の切目縁を廻す。 平面は梁間方向に三分割され、前方二間を外陣、その奥二間を内陣、背面寄りを後陣とする。外陣と内陣の広さは同規模となり、後陣は背面側柱筋から四尺五寸程後方に設けた張出を取り込んで一室とし、内・外陣の七割程となる。内陣には、内・後陣境柱筋の中央間前方に須弥壇を置き、柱筋に桟唐戸を建て込んで後陣側に造り付けの厨子を張り出し、本尊十一面観音立像を安置する。その両脇間も後陣に張り出し、奥行中程に引き分け格子戸を建て込んだ張出仏壇とする。 軸部は、円柱を立て、足固貫、内法貫、頭貫、縁長押、内法長押で固める。組物は三斗で、内部では天井桁を受け、中備は正面中央間を蟇股、他を間斗束とする。軒は二軒疎垂木、妻飾は虹梁大瓶束である。側廻りの柱間装置は、正面中央が双折桟唐戸、両側面前端間が板戸、正面左右各二間及び両側面前二間目が内開きの蔀、両側面前三間目が花頭窓とし、他は片引板戸や漆喰壁とする。内陣・外陣境は五間とも中敷居に引違い格子戸、内陣・後陣境は両端間を片引板戸とする。床はすべて拭板敷とするが、内陣床高はほかより一段高くする。天井は、背面張出部を化粧屋根裏とするほかは一面に同高の棹縁天井とし、棹縁の向きが外陣と後陣は桁行、内陣は梁間方向とする。 こうした形式の本堂が中世以来数多く残る滋賀県内において、百済寺本堂は、桁行中央間を広くとるが他の柱間は同じとすること、脇陣をもたないこと、架構を見せずに棹縁天井とすること、後陣で張出部を一体とすること、内・外陣境の結界を中敷居とすること、厨子が後陣に張出すことなどに、近世的な建築的特質が窺える。後世には、内陣の厨子廻りが宝永二年(一七〇五)、須弥壇廻りが弘化二年(一八四五)に改造され、痕跡から側面の前方一間目と二間目の柱間装置が入れ替えられたことがわかる。屋根の小屋組は当初で、軒廻りも軒唐破風や背面に当初材がよく残る。全体としては、良好に建立時の形式を伝えている。 百済寺本堂は、中世以来の伝統的な仏堂の形式に則って、厳重な内陣と開放的な外陣の対比的な空間秩序を保持しながら、平面的にも造形的にも平明な構成を達成した近世前期の建築として価値が高い。中世以来の仏堂形式が近世に変容していく過程で、近世的な特質を端的に顕現した代表的な遺構として、貴重である。 【参考文献】 山岸常人「中世仏堂の近世的変容―百済寺本 堂を中心として―」(『佛教藝術』二六一号 二〇〇二年三月)