国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
赤木家住宅(宮崎県児湯郡都農町)
ふりがな
:
あかぎけじゅうたく
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
おもや
赤木家住宅(宮崎県児湯郡都農町) 主屋
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/民家
時代
:
江戸末期
年代
:
天保15
西暦
:
1844
構造及び形式等
:
桁行13.5m、梁間14.2m、切妻造、四面庇付、西面突出部 桁行3.7m、梁間5.9m、寄棟造、北面突出部 桁行7.4m、梁間5.9m、切妻造、西面浴室及び便所附属、桟瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02462
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2004.12.10(平成16.12.10)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
宮崎県
所在地
:
宮崎県児湯郡都農町大字川北4942番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
都農町
赤木家住宅(宮崎県児湯郡都農町) 主屋
解説文:
詳細解説
赤木家は,在郷町として栄えた都農町にある商家で,住宅は豊後街道に面して建ち,本陣としても利用された。天保15年(1844)に完成した主屋を中心に,江戸末期の蔵や納屋などが残る。
主屋は,西面に角屋,北面に突出部をもつ規模の大きい複雑な構成をもち,座敷には端正な床・棚・付書院を構えている。
蔵は2階建の大型の建物で,納屋は腰を高い石積とするのが特色である。
赤木家住宅は,本格的な座敷飾りを構えた接客空間を備え,全体に質も高く,豊後街道筋に残る本陣の機能を兼ね備えた民家建築として,高い価値がある。
附属屋や宅地外周に重厚な石垣が残り,江戸末期の屋敷構えをよく伝えている点も貴重である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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赤木家住宅(宮崎県児湯郡都農町) 主屋
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赤木家住宅(宮崎県児湯郡都農町) 主屋
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解説文
赤木家は,在郷町として栄えた都農町にある商家で,住宅は豊後街道に面して建ち,本陣としても利用された。天保15年(1844)に完成した主屋を中心に,江戸末期の蔵や納屋などが残る。 主屋は,西面に角屋,北面に突出部をもつ規模の大きい複雑な構成をもち,座敷には端正な床・棚・付書院を構えている。 蔵は2階建の大型の建物で,納屋は腰を高い石積とするのが特色である。 赤木家住宅は,本格的な座敷飾りを構えた接客空間を備え,全体に質も高く,豊後街道筋に残る本陣の機能を兼ね備えた民家建築として,高い価値がある。 附属屋や宅地外周に重厚な石垣が残り,江戸末期の屋敷構えをよく伝えている点も貴重である。
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詳細解説
赤木家住宅(宮崎県児湯郡都農町) 三棟 主屋、蔵、納屋、宅地 赤木家住宅は、宮崎県中部、東に日向灘が広がる都農町の中心部に所在する。都農は、古来より街道交通の要衝の地で、郊外に延喜式内社で日向国一宮の都農神社がある。近世には高鍋藩の支配のもと、高鍋城下と日向にある藩港美々津を結ぶ中間点にあり、在郷町として栄えた。 都農の町割は、南北に通る豊後街道沿いに、ほぼ中央東側に構えた御仮屋を境として、南町と北町が形成されていた。都農では、緒方家が部当として長く町の支配役を勤めた。緒方家に残る江戸中期から明治前期までの役務記録『御用帳』(個人蔵)によると、町の規模は寛政一〇年(一七九八)が一〇六軒、天保九年(一八三八)が一二五軒・五三三人であった。 赤木家は、一八世紀後期には豊後街道西側の現在地に居住した商家で、屋号を「万屋」と称し、山林業などで財をなした。都農では、主に御仮屋が藩主や幕府役人等の本陣とされていたが、一八世紀末には有力町人に本陣が許可され、『永代諸日記』(所有者蔵)によると、赤木家は天保八年(一八三七)に本陣の許可を得て、中門や練塀を整え、翌九年に本陣を勤めた。現存する主屋は、天保一五年(一八四四)六月に火災で類焼し、同年一〇月より再建に着手、年内には従前の形式で建てられたもので、蔵と納屋は江戸末期と考えられる。安政五年(一八五八)には勝手口木戸修理に藩の許可を得ており、天保一五年の再建後も本陣を継続したことが知られる。文久三年(一八六三)と元治元年(一八六四)年に島津久光が宿泊しており、その時の板札も残る。 赤木家住宅は、東側の豊後街道に面し、東西に長い屋敷を構える。主屋は前庭を挟んで街道に東面して建ち、敷地奥に蔵、納屋等がある。敷地は、北辺と西辺に石垣が築かれ、ほぼ中央に井戸、北西隅に屋敷神の祠社がある。また、(九) 万延二年(一八六一)に家相師本多一馬が描いた家相図(附指定)があり、これと現状を比べると、明治以降に一部の建物の撤去や外構の変更などがあるが、屋敷の規模、主屋の位置や規模、井戸や祠社の位置などは変化しておらず、屋敷全体としては江戸末期の構成を保持している。 主屋は桁行一三・五メートル、梁間一四・二メートル、南北棟の切妻造、平入で、四面に庇を付け、西面南端に寄棟造の角屋を突出する。北面の突出部は桁行七・四メートル、梁間五・九メートル、切妻造で、西面北端に浴室・便所を附属する。屋根は桟瓦葺で、南の妻壁は簓子下見板張とする。 平面は南端を土間部、北側を床上部とする。土間部は、正面より玄関、隠居部屋と続き、奥に台所と茶の間がある。床上部は、正面が北よりオクザシキ、ヒカエノマ、オミセで、奥にナンドとナカノマ、背面にザシキとオクノマを配する。オクザシキは北側に端正な床・棚・付書院を構え、前庭側の東と中庭側の西には縁を廻して上部小壁に無双窓を設け、中庭側に接客用の浴室と便所がつく。オクザシキ・ヒカエノマ境には、波涛に鶴を彫った板欄間を飾る。ヒカエノマ・オミセ境は幅二尺の棚や通路、ヒカエノマ・ナンド境はもと土壁になり、接客空間と日常空間は厳重に区分されていた。 軸部は面取角柱を立てて、貫や差物で固め、背面のザシキとオクノマを除いて内法長押を廻す。居室部は棹縁天井で、オミセは一段高く張り、ナンドは根太天井とする。小屋組は主要部、突出部とも和小屋を組み、北面突出部東側の軒は出桁造とする。 後世の改造は、主に内部の間仕切りの設置と玄関廻りの部材の取替である。当初はナカノマとオクノマが九畳の一室、玄関とオミセは二〇畳の一室になる。ツギノマと玄関の各東側は式台付の玄関であった。玄関奥の隠居部屋は増築で、後方の茶の間や台所と ともに当初は土間になる。ただし、全体としては、平面構成、軸部、小屋組に至るまで当初の形式がよく保持されている。 蔵は、東西棟の切妻造、本瓦葺、二階建で、南面に桟瓦葺の庇をつける。構造は真壁造で、外壁を横板で覆う。内部は桁行方向を三区分し、東室が什器類、中央室が穀物、西室が材木の収納に用いられていた。東室と西室は二階建で、中央室は前半に二階を設け、一階も床を張るが、もとは二階のない一室であった。小屋組は登梁式とし、屋根下地には竹簀の子を用いる。 納屋は、木造、平屋建、切妻造、桟瓦葺である。外壁は横板張で、小屋組は梁に束立で棟木等を受ける。内部は土間の一室になり、腰を高い石積とするのが特色である。 赤木家住宅は、本格的な座敷飾りを構えた接客空間を備え、全体に普請の質も高く、豊後街道筋に残る本陣の機能を兼ね備えた民家建築として、高い価値がある。主屋後方には蔵や納屋が建ち、また敷地外周に重厚な石垣が残り、地方における江戸末期の屋敷構えをよく伝えており、宅地と併せて保存を図る。 【参考文献】 『宮崎県の民家 民家緊急調査報告書』(宮崎県教育委員会 一九七三年) 『本陣赤木家住宅調査報告書』(鹿児島大学土田充義 一九九九年)
関連情報
附指定
家相図(万延2年冬旬6日)
関連情報
附指定
附名称
:
家相図(万延2年冬旬6日)
附員数
:
1枚