国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
荏柄天神社本殿
ふりがな
:
えがらてんじんしゃほんでん
棟名
:
棟名ふりがな
:
荏柄天神社本殿
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/神社
時代
:
鎌倉後期
年代
:
正和5
西暦
:
1316
構造及び形式等
:
三間社流造、銅板葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02463
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2005.07.22(平成17.07.22)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
神奈川県
所在地
:
神奈川県鎌倉市二階堂
保管施設の名称
:
所有者名
:
荏柄天神社
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
荏柄天神社本殿
解説文:
詳細解説
荏柄天神社は,鶴岡八幡宮の東方に位置している。長治元年(1104)に菅原道真を勧請し,創立されたとされ,鎌倉時代初期より幕府との関わりが記録に見える。
現存する本殿は,寛永元年(1624)の鶴岡八幡宮若宮の社殿造営に伴い,若宮の旧本殿を移築して再興されたものである。若宮は,正和5年(1315)再建後,中世を通じて維持されていることから,この本殿は14世紀に遡る可能性がある。
形式は三間社流 造 ,屋根は銅板葺である。内部は小組格天井とし,内法長押上の小壁に横連子を入れる。
荏柄天神社本殿は,江戸時代初頭に鶴岡八幡宮の若宮本殿を移築したもので,
鶴岡八幡宮の室町時代に遡る主要社殿を伝える唯一の例として重要である。
三間社としては大型で,内外ともに細部の意匠も優れ,中世鎌倉における社殿の様式を知る上で欠くことのできない貴重な遺構である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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荏柄天神社本殿
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荏柄天神社本殿
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解説文
荏柄天神社は,鶴岡八幡宮の東方に位置している。長治元年(1104)に菅原道真を勧請し,創立されたとされ,鎌倉時代初期より幕府との関わりが記録に見える。 現存する本殿は,寛永元年(1624)の鶴岡八幡宮若宮の社殿造営に伴い,若宮の旧本殿を移築して再興されたものである。若宮は,正和5年(1315)再建後,中世を通じて維持されていることから,この本殿は14世紀に遡る可能性がある。 形式は三間社流 造 ,屋根は銅板葺である。内部は小組格天井とし,内法長押上の小壁に横連子を入れる。 荏柄天神社本殿は,江戸時代初頭に鶴岡八幡宮の若宮本殿を移築したもので, 鶴岡八幡宮の室町時代に遡る主要社殿を伝える唯一の例として重要である。 三間社としては大型で,内外ともに細部の意匠も優れ,中世鎌倉における社殿の様式を知る上で欠くことのできない貴重な遺構である。
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詳細解説
荏柄天神社本殿 一棟 荏柄天神社は、鶴岡八幡宮の東方に位置し、鎌倉と六浦を結ぶ金沢街道に面して参道を開き、これを北に三〇〇メートルほど入った小台地にある。 社伝によれば、長治元年(一一〇四)、菅原道真を勧請し創立されたと伝える。鎌倉時代初期より幕府との関わりが記録に見え、室町時代は鎌倉府足利氏の援助などにより維持され、降って天正年間には豊臣秀吉、徳川家康による修営を受けた。近世は教王護国寺支配下の一乗院が別当としておさめ、明治の神仏分離によって村社となり、この間、鶴岡八幡宮造営の際には古材、残材を拝領し修理が行われた。荏柄天神社所蔵文書によれば、江戸時代には寛永三年(一六二六)、寛文八年(一六六八)、元禄一〇年(一六九七)、元文元年(一七三六)、宝暦三年(一七五三)、安永八年(一七七九)、天明元年(一七八一)、文政一一年(一八二八)、及び明治一九年に鶴岡八幡宮より残材や古材を拝領して修理が行われた。 江戸時代初頭には社殿の毀損が進んだ模様で、また元和年間には落雷で社殿が焼失したため、寛永元年(一六二四)、鶴岡八幡宮若宮社殿が造営されるにともなって、若宮の旧本殿を移築して再興された。 鶴岡八幡宮若宮は、正和四年(一三一五)の鎌倉大火で焼失後、翌五年再建され、中世を通じて維持された。記録によれば若宮は正和五年再建後、次のような毀損、修理の記録がある。 ・康永三年(一三四四)一二月から貞和三年 (一三四七)一一月まで上下両宮修理 ・明徳三年(一三九二)から応永元年(一三九 四)まで上下両宮修理 ・寛正四年(一四六三)閏六月二四日、鎌倉大 風雨、若宮宝殿壊れる ・永正一七年(一五二〇)七月以前、下の廻廊、 拝殿、幣殿、赤橋以下転倒 ・天文二年(一五三三)から同九年まで、上下 両宮修理 ・天正二〇年(一五九二)若宮修理 このようにたびたび毀損を受け、また修理を繰り返すことが知られるが、造替の記録はない。したがって現存する荏柄天神社本殿は創建が一四世紀に遡る可能性のある遺構である。 社殿は、急斜面の中途を削平した狭い平地に、急峻な懸崖を背にして配される。本殿は、拝殿、幣殿の奥に南面して建つ。大正一二年九月の関東大震災で本殿は前方に大きく傾き、昭和一一年に本格的な修理が行われた。拝殿、幣殿は、大江新太郎の設計によりこのとき新築されたものである。 本殿は、桁行三間、梁間二間の身舎(もや)正面に庇を葺きおろした三間社流造で、屋根を銅板葺とする。身舎は四周に刎高欄(はねこうらん)付切目縁(きれめえん)を廻し、正面中央に七級の木階(もっかい)を備え、庇は幣殿境を除き周囲を囲って屋内に取り込む。身舎は亀腹(かめばら)上に土台を廻し円柱を立て、足固貫(あしがためぬき)、縁(えん)長押(なげし)、同半長押、腰長押(正面を除く)、内法(うちのり)長押、頭貫(かしらぬき)で固める。正背面は通り肘木付(ひじきつき)出三斗(でみつど)、中備(なかぞなえ)蟇股(かえるまた)で、両端柱上は頭貫(かしらぬき)木鼻(きばな)を肘木に造り出して連三斗(つれみつど)として桁を受ける。両妻面は虹梁(こうりょう)を平の側桁より一段高く架けるため、組物及び中備蟇股上にせいの高い絵様(えよう)実肘木(さねひじき)を置き、妻飾(つまかざり)は豕(いのこ)叉首(さす)で、その上に実肘木付三斗を上げて化粧(けしょう)棟木(むなぎ)を受ける。庇も円柱で、身舎と虹梁で繋ぎ、正面中央間を広く取って虹梁を架け、木階両脇に浜床(はまゆか)を張る。軒は二軒(ふたのき)繁垂木(しげだるき)だが、庇の屋内部分は打越(うちこし)垂木一軒(ひとのき)に変更されている。地垂木(じだるき)の反りは大きく、正面打越垂木は大面(おおめん)取りとする。 身舎内部は前後に二分し前半を外陣、後半は床を一段高く張って内陣とし、いずれも唐戸(からと)面(めん)を取った格縁(ごうぶち)を用いた小組(こぐみ)格天井(ごうてんじょう)で、内法長押上小壁(こかべ)に横(よこ)連子(れんじ)を入れる。柱間装置は、内陣正面三間及び外陣正面中央間を幣軸(へいじく)付外開板扉、その他を横板壁とする。 荏柄天神社本殿は、江戸時代初頭に鶴岡八幡宮の若宮本殿を移築したもので、室町時代に遡る鶴岡八幡宮主要社殿を伝える唯一の例として重要である。三間社としては大型で、内外ともに細部の意匠も優れ、中世鎌倉における社殿の様式を知る上で欠くことのできない貴重な遺構である。 【参考文献】 『神奈川県近世社寺建築報告書』(神奈川県 教育庁 一九九三年) 鈴木亘「荏柄天神社の社殿建築」(『御鎮座 九百年 荏柄天神社』論考編 荏柄天神社 二〇〇四 年所収) 浪川幹夫「荏柄天神社の御用材について」(『鎌倉』第九六号・平成一五年六月所収)
関連情報
附指定
扉板
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附指定
附名称
:
扉板
附員数
:
6枚