国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
古谿荘
ふりがな
:
こけいそう
棟名
:
玄関棟
棟名ふりがな
:
古谿荘(静岡県庵原郡富士川町) 玄関棟
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員数
:
1棟
種別
:
近代/住居
時代
:
明治
年代
:
明治43
西暦
:
1910
構造及び形式等
:
木造、建築面積55.89平方メートル、スレート葺、南面廊下附属
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02476
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2005.12.27(平成17.12.27)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
(三)歴史的価値の高いもの
所在都道府県
:
静岡県
所在地
:
静岡県富士市岩淵233番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
財団法人野間文化財団
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
古谿荘(静岡県庵原郡富士川町) 玄関棟
解説文:
詳細解説
古谿荘は,富士山と駿河湾をのぞむ富士川西岸の高台にある。宮内大臣を務めた田中光顕が別邸として建てたもので,明治43年に竣工した。
大規模な貴顕住宅で,表向きの広間棟,大広間棟をはじめ,居間棟,応接棟,八角堂などの居住部分から,管理棟や板蔵などの家政部分まで全体が完存している。
大広間は延べ 104畳と広壮で,六畳大の大床を左右対称に配した特徴的な構成をみせる。また,全体は伝統的な和風意匠をとるが洋小屋の採用で木割を細くし,高い天井高を確保する等,近代的な技術も巧みにとりいれている。
上質の材を使用し,先駆的な設備を導入するなど明治後期の貴顕住宅として規模,意匠,技術,材料とも最高級のもので,近代和風住宅建築の頂点をしめす遺構のひとつとして重要である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
写真一覧
古谿荘(静岡県庵原郡富士川町) 玄関棟
古谿荘玄関棟外観
古谿荘玄関棟内部
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古谿荘(静岡県庵原郡富士川町) 玄関棟
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古谿荘玄関棟外観
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古谿荘玄関棟内部
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解説文
古谿荘は,富士山と駿河湾をのぞむ富士川西岸の高台にある。宮内大臣を務めた田中光顕が別邸として建てたもので,明治43年に竣工した。 大規模な貴顕住宅で,表向きの広間棟,大広間棟をはじめ,居間棟,応接棟,八角堂などの居住部分から,管理棟や板蔵などの家政部分まで全体が完存している。 大広間は延べ 104畳と広壮で,六畳大の大床を左右対称に配した特徴的な構成をみせる。また,全体は伝統的な和風意匠をとるが洋小屋の採用で木割を細くし,高い天井高を確保する等,近代的な技術も巧みにとりいれている。 上質の材を使用し,先駆的な設備を導入するなど明治後期の貴顕住宅として規模,意匠,技術,材料とも最高級のもので,近代和風住宅建築の頂点をしめす遺構のひとつとして重要である。
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詳細解説
古谿荘 九棟 玄関棟、応接棟、広間棟、大広間棟、居間棟、八角堂、管理棟、内蔵、板蔵、土地 古谿荘は、富士川の西岸、富士山と駿河湾をのぞむ富士川町岩淵の高台に建つ。宮内大臣を長く務めた田中光顕(みつあき)(一八四三~一九三九)が別邸として建てたもので、敷地は富士川町の古谿、下屋敷、塘内の三つの字にまたがり、字名の一つをとって古谿荘と称される。田中光顕は、土佐国(現在の高知県)高岡郡佐川郷の生まれで、武市瑞山(半平太)に師事して勤王党に加わり、脱藩。高杉晋作、中岡慎太郎らと討幕運動に加わる。明治維新後は明治政府に仕え、明治四年~六年には岩倉具視使節団に加わって欧米諸国を視察した。明治一八年第一次伊藤博文内閣で内閣書記官長を務めたのをはじめ、宮内大臣、会計検査院長、警視総監、学習院長等の要職を歴任。明治四〇年に伯爵の爵位を得た。 敷地の総面積は約五二八〇〇平方メートルに及び、南半を富士山、富士川、駿河湾を借景にした回遊式庭園とし、北西に建物が建つ。なお、隣接の果樹園などの農地等を除いた宅地の面積は約一九〇〇〇平方メートルである。 建物は、大正八年の年紀がある「古谿荘平面図」(附指定)より、明治四〇年一月に起工し、同四三年九月に竣工した。北端の玄関棟は他よりも低い位置に建ち、畳廊下、階段を介して南の応接棟へと続く。以下、応接棟を中心に、東面北寄から東に広間棟、大広間棟、東南隅から東南に居間棟、内蔵、八角堂、西面北寄りから西に管理棟、板蔵が続き、三つの中庭を介して全ての棟が廊下で連結される複雑な構成をとる。なお、棟札や普請文書等、造営に関する直接的な資料はみつかっておらず、設計者も明らかではないが、田中は、建築の意匠にも造詣が深く、田中自身が設計の指図をした可能性が指摘されている。 内蔵と板蔵を除く各棟とも平屋建で、屋根は玄関棟を入母屋造、八角堂を宝形造とする他は寄棟造で、大広間棟、広間棟を鉄板葺、応接棟、管理棟を桟瓦葺、その他をスレート葺とする。小屋組は、多くは和小屋とするが、応接棟、大広間棟、居間棟は洋小屋である。外壁は漆喰塗で、腰に麻幹や竹を張る。内蔵は二階建、板蔵は三階建で、各蔵とも寄棟造桟瓦葺、小屋組は洋小屋で、外壁は内蔵は漆喰塗で腰を石張、板蔵は鉄板張とする。 玄関棟は、桁行七・七メートル、梁間四・一メートルで西半は車寄とする。玄関は正面に地袋棚をつけた四畳で、壁は漆喰塗とし、正側面に格狭間型の窓を開け、棹縁天井を張る。 応接棟は、桁行二三・六メートル、梁間一二・七メートルで、南西に矩折平面の台所棟を突出させる。表側(東面)の応接間は各八畳で、意匠の異なる床を構えた三室と次の間二室がならぶ。背面側は八畳三室と六畳、五畳とし、南端に配膳室を配して台所棟の床上部と接続する。床上部の西は西南隅を欠いた土間、南は四畳半、三畳、浴室とする。それぞれ壁は漆喰塗とし、棹縁天井を張る。 広間棟は、桁行一三・六メートル、梁間一〇・九メートルで、それぞれ八畳の「鶴之間」と「亀之間」に次の間がつき、正側面に一間幅の入側を廻す。「鶴之間」と「亀之間」の床は中央寄りに袋棚、廊下側に平書院を備えた左右対称の意匠をとる。壁は紙張とし、棹縁天井を張る。なお、室名は配電室の配電盤に付された各室の名札によることとし、室名に「」を付した。以下同様とする。 大広間棟は、桁行一八・二メートル、梁間一二・七メートルで、三二畳の「大廣間」の正側面に二間幅の入側を廻し、延べ七二畳を数える。中央に袋棚、その両側に付書院を備えた六畳大の床を構える左右対称の意匠をとる。壁は紙張とし、棹縁天井を張る。入側境は腰付障子を建て、欄間は麻の葉柄の組子とする。入側は三方全て開口として壁がなく、戸袋を南北の隅に設けて回転式の雨戸とする。 「大廣間」は、各室のなかで最も格の高い部屋で、六間の柱間に約三・五メートルと高い天井高をもつにもかかわらず、柱や長押の木割を極端に細くしているのが特色であり、用材についても柱が檜の四方柾、長押・敷鴨居が檜で最大長さ一〇・九メートルを一本ものとするなど豪奢なものである。 居間棟は、桁行二一・七メートル、梁間五・九メートルで、中央東西に廊下を通し、北半を浴室、南半を居間とする。居間は南から四畳半台目、四畳半、十畳の三室からなり、壁は土壁とし、棹縁天井を張る。浴室は八畳大の浴室と四畳の脱衣場に八畳の更衣室がつく。浴室床の簀子は檜の漆塗、浴槽と腰壁は人造石研出し仕上げとする。 八角堂は、最も南に位置する。中央に一辺二・三メートルの八角形平面の応接室をおき、周囲に廊下を廻し、四方に入母屋造の四室を突出させる特異な平面をもつ。床は寄木張り、壁は葉紋を押し出した壁紙を張り、天井を紙張とする。廊下および各室の窓は特徴的な円窓で、引き込みのガラス戸を建てる。 管理棟は、桁行一三・六メートル、梁間八・二メートルで、南西に内玄関を付す。中央東西に廊下を通し、北に六畳、八畳の二室、南に四畳半、六畳、六畳、八畳の四室をとる。壁は漆喰塗とし、棹縁天井を張る。 内蔵は、桁行一〇・九メートル、梁間七・三メートルで、正面中央に出入口を開き、中央に階段を設ける。 板蔵は、桁行一二・七メートル、梁間九・一メートルで、二階東面中央に管理棟からの廊下がつながり出入口を開ける。一階を土間、二階、三階を板間とし、中央に階段を設け、越屋根を上げる。 各棟に接続する廊下は応接棟から台所棟、管理棟に続く床は板張とするが、その他は畳廊下とし、各棟の畳廊下部分の天井は棹縁天井、渡廊下部分は化粧垂木に麻幹張とし、壁は漆喰塗で各所に円窓を開ける。 設備にも贅を尽くし、便所は建築当初から水洗式とされ、主要な居室に付随した便所は便器、床とも漆塗とする。水洗や飲料水の引水は敷地の北西方、赤岩に水源地を築造し、庭園への引水は敷地の北方、吉津にやはり水源地を築造して、それぞれ鋳鉄管で導水したものであった。また、建築当初から電気が敷設され、配電盤や電灯等の器具類も現存している。電気は明治四二年七月頃、芝川町の四日市製紙から送電されたもので、静岡県内でも最初期に電気を導入した建物であった。配電盤や配線器具類や照明器具も多くが輸入製品とされる。 古谿荘は、大規模な貴顕住宅で、表向きの広間棟、大広間棟をはじめ、居住部分、家政部分まで全体が完存し貴重である。大広間は延べ一〇四畳と広壮で、六畳大の大床を左右対称に配した特徴的な構成をみせる。また、全体は伝統的な和風意匠をとるが洋小屋の採用で木割を細くし、高い天井高を確保する等、近代的な技術も巧みにとりいれる。上質の材を使用し、先駆的な設備を導入するなど明治後期の貴顕住宅として規模、意匠、技術、材料とも最高級のもので、近代和風住宅建築の頂点をしめす遺構のひとつとして重要である。旧国道一号に開いた門から玄関棟へのアプローチや庭園も良好に残っており、宅地もあわせて保存を図る。 【参考文献】 『静岡県近代和風建築総合調査報告書』(静 岡県教育委員会 二〇〇二年) 建部恭宣『古谿荘(旧田中光顕岩淵別荘)の建築について』(二〇〇五年)
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附指定
平面図(大正5年及び大正8年)
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附指定
附名称
:
平面図(大正5年及び大正8年)
附員数
:
2枚