国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
江藤家住宅(熊本県菊池郡大津町)
ふりがな
:
えとうけじゅうたく
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
しゅおく
江藤家住宅 主屋
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/民家
時代
:
江戸末期
年代
:
文政13
西暦
:
1830
構造及び形式等
:
広間及び土間 桁行13.8m、梁間17.9m、一部2階、東面切妻造、西面入母屋造、南面千鳥破風、西面及び南面庇付、北面突出部 桁行3.6m、梁間3.9m、切妻造
座敷部 桁行13.1m、梁間7.2m、東面寄棟造、西面広間及び土間に接続、三面庇付、南面突出部 桁行3.6m、梁間4.4m、入母屋造、東面及び南面庇付、北面物入、部屋及び便所附属
居室部 桁行18.2m、梁間10.1m、一部2階、東面入母屋及び切妻造、西面広間及び土間に接続、三面庇付、東面便所附属、北面突出部 桁行4.9m、梁間6.8m、切妻造、三面庇付、北面便所附属
総桟瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02479
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2005.12.27(平成17.12.27)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
熊本県
所在地
:
熊本県菊池郡大津町大字陣内1652番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
江藤家住宅 主屋
解説文:
詳細解説
江藤家住宅は,熊本県北中部,阿蘇山の西に広がる平野部にある。江藤家はもと武家で,17世紀後期に帰農し,現在地に居住したといい,18世紀後期以降は,武家格として,重要な役職を務めた。主屋は文政13年(1830)の建築で,敷地西寄り中央に南面して建ち,この周囲に長屋門,馬屋,中の蔵,裏門がある。
主屋は,広間部及び土間と,突出する座敷部と居室部が緊密に連携した平面構成になり,複雑な外観や意匠的に優れた座敷など,大規模で質の高い民家として価値がある。また,屋根の茅葺から桟瓦葺への変化の指標となることも特色である。長屋門から蔵,馬屋などの附属施設が主屋を取り巻くように配され,水路や石垣を含めて江戸時代末期の屋敷全体の構成を良好に保持している点も貴重である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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江藤家住宅 主屋
江藤家住宅(熊本県菊池郡大津町) 主屋 内観
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江藤家住宅 主屋
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江藤家住宅(熊本県菊池郡大津町) 主屋 内観
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解説文
江藤家住宅は,熊本県北中部,阿蘇山の西に広がる平野部にある。江藤家はもと武家で,17世紀後期に帰農し,現在地に居住したといい,18世紀後期以降は,武家格として,重要な役職を務めた。主屋は文政13年(1830)の建築で,敷地西寄り中央に南面して建ち,この周囲に長屋門,馬屋,中の蔵,裏門がある。 主屋は,広間部及び土間と,突出する座敷部と居室部が緊密に連携した平面構成になり,複雑な外観や意匠的に優れた座敷など,大規模で質の高い民家として価値がある。また,屋根の茅葺から桟瓦葺への変化の指標となることも特色である。長屋門から蔵,馬屋などの附属施設が主屋を取り巻くように配され,水路や石垣を含めて江戸時代末期の屋敷全体の構成を良好に保持している点も貴重である。
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詳細解説
江藤家住宅(熊本県菊池郡大津町) 五棟 主屋、長屋門、中の蔵、馬屋、裏門、土地 江藤家住宅は、熊本県北中部の大津町、阿蘇山の西に広がる平野部に所在する。 江藤家はもと豊後国の大友氏家臣という武家であったが、一七世紀後期に帰農して、現在地に居住したという。一八世紀後期以降、寛政七年(一七九五)に士席浪人格、文化二年(一八〇五)に御中小姓列、文政一二年(一八二九)に御知行取席となるなど、重要な役職を務めた。明治以降は、衆議院議員・村長なども務めた。明治一六年の『紫瞑新報』によると、江藤家の所有田畑は、四〇四町一反五畝九歩とあり、県下最大級の地主であった。八代茂は、明治三五年に衆議院議員となった。九代繁雄は旧陣内村長や熊本県農業会長をつとめ、大正一二年の県立大津中学校の創設に尽力した。 江藤家住宅は、東西約九〇メートル、南北約七〇メートルと不整形な台形の敷地を構える。敷地の西寄り中央に南面して主屋があり、南西隅に長屋門と馬屋、小屋、主屋南東に中の蔵、敷地西辺中央に裏門がある。主屋は、従来、文政九年(一八二六)の普請願の覚書である「奉願覚」(江藤家所蔵)からそれ以降の建築とされていたが、。近年の修理で広間二階の天井の棹縁から「文政十三年五月中旬 清左衛門 作之」の墨書が発見され、文政一三年(一八三〇)には完成していたと考えられる。長屋門は天保一五年(一八四四)、中の蔵は安永元年(一七七二)頃、馬屋は文政六年(一八二三)、裏門は江戸末期、小屋は明治前期と考えられる。 主屋は、西半が一部二階建の広間部及び土間、その東面の南と北にそれぞれ座敷部と居室部を接続する。広間部及び土間と、次の間、仏間、中の部屋二室、広間の上の二階座敷が当初で、そのほかの突出部が幕末から明治にかけての増築であり、これにより、複雑で変化に富む外観を形成している。屋根は桟瓦葺で、正面の大きな千鳥破風も当初である。平成一六~一七年に行われた修理工事に伴う知見から、主体部については大規模な修理や解体の痕跡がなく、当初の形式をよく保持していることが判明した。また、主体部は京間畳(六尺三寸に三尺一寸五分)の畳割で設計されており、内法高は五尺七寸を基本としているが、仏間・次の間・座敷は五尺八寸になる。 小屋組は、上屋梁の上に貫で緊結した小屋束を立て、桁・棟木を渡して垂木を架ける。 平面は、土間沿いに南より広間、茶の間、食堂と続く。座敷部は仏間、次の間、座敷が西から東に延び、仏間南に客間を設ける。茶の間の東には中の部屋が二室続き、この北側に北の部屋、新部屋、平書院などを配している。全体として雄大な広間部及び土間を核として座敷部や居室部を突出させるのが特徴で、江戸末期に整えられた座敷部は数寄屋風で質が高いつくりである。また、屋根は茅葺から桟瓦葺への変化の指標となることも特色である。 九州の民家には屋根がコの字型になる「くど造」があるが、重要文化財で江戸後期の旧矢羽田家住宅(大分県日田郡大山町)主屋をみると、突出した座敷部は屋根もコの字型から突出している。一方、重要文化財で文政八年(一八二五)の旧吉原家住宅(福岡県大川市小保)主屋は、主体部から並行した二箇所の角屋を突出し、表側を座敷とした形式で、江藤家住宅と類似している。ただし、旧吉原家住宅は宿駅兼河川港として肥後街道沿いに形成された町に所在しており、町家に相当すると判断される。従って、このようにコの字型になる平面構成が、どのような系統に属するのかは今後の研究課題である。なお、当地方には座敷を突出した形式の同時期の民家が確認されるが、そうした類例のなかで、江藤家住宅は最大級の規模になる。 長屋門は、桁行一二・六メートル、梁間四・〇メートルの一部二階建で、東面切妻造、西面入母屋造、屋根は桟瓦葺である。東側を門口とし、一階は東半を土間、西半を板敷の部屋とし、二階の西側を棹縁天井の居室とする。小屋組は桁行に牛梁を渡し、登梁を架ける。 中の蔵は、土蔵造、桁行一〇・八メートル、梁間五・九メートルの二階建である。切妻造、桟瓦葺で、腰は海鼠壁とする。庇付の戸口は西面に設け、東面と西面に窓をつける。内部は各階とも一室で、小屋組は桁行に牛梁を渡し、登梁を架ける。 馬屋は、桁行一六・四メートル、梁間四・五メートルの平屋建、切妻造で、東面に下屋庇を設け、屋根は桟瓦葺とする。平面は、北側が三つに分かれる馬小屋、南側が物置になり、物置東に待合所を増築している。小屋組は桁行に牛梁を渡し、登梁を架けるが、途中に天秤状の小梁を架ける。 裏門は、桁行二・三メートルの薬医門で、屋根は切妻造、桟瓦葺とする。簡素なつくりであるが、破風板には若葉付の渦文を施す。 屋敷は、ほぼ江戸時代末期の構えを保持し、北西隅から北東隅にかけて切石積の石垣を築き、主屋北方には井戸も一基残っている。また、北辺を流れる水路を敷地内に取り込んで西方に流すとともに、主屋南の内庭にも引き込んでいる。石垣は折曲り総延長九一・四メートル、高さは西端が二・七メートル、東端が一・八メートルになる。築造年代は江戸時代と伝えられている。 江藤家住宅は、主屋が広間部及び土間と突出する座敷部と居室部が緊密に連携した特色ある平面構成になり、複雑な外観や意匠的に優れた座敷など、大規模で質の高い九州地方を代表する民家として価値がある。長屋門から蔵、馬屋などの附属施設が主屋を取り巻くように配され、水路や石垣を含めて江戸時代末期の屋敷全体の構成を良好に保持しており、宅地とあわせて保存を図る。 【参考文献】 『熊本県指定重要文化財 江藤家住宅調査報告書』(大津町教育委員会 二〇〇五年)
関連情報
附指定
小屋(桁行9.9m、梁間5.5m、2階建、南面切妻造、桟瓦葺)
関連情報
附指定
附名称
:
小屋(桁行9.9m、梁間5.5m、2階建、南面切妻造、桟瓦葺)
附員数
:
1棟