国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
那須疏水旧取水施設
ふりがな
:
なすそすいきゅうしゅすいしせつ
棟名
:
東水門
棟名ふりがな
:
ひがしすいもん
東水門
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員数
:
1基
種別
:
近代/産業・交通・土木
時代
:
明治
年代
:
明治39
西暦
:
1906
構造及び形式等
:
石造水門、正面5.4m、石造擁壁附属
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02481
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2006.07.05(平成18.07.05)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
栃木県
所在地
:
栃木県那須塩原市西岩崎
保管施設の名称
:
所有者名
:
那須疏水土地改良区、那須塩原市
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
東水門
解説文:
詳細解説
那須疏水旧取水施設は,栃木県東部を南北に貫流する那珂川の上流に位置している。那須疏水は,那須野ヶ原開拓の基盤施設として,内務省の直轄事業で開削された。那須疏水旧取水施設は,明治18年と38年にそれぞれ築かれた隧道の坑門を利用して整えられた東水門と西水門,38年に建設された導水路及び余水路よりなる。
那須疏水旧取水施設は,水門及び導水路等が旧態を良好に保持して残り,近代における大規模水利施設の取水システムの構成を知る上で,高い価値がある。明治政府の殖産興業政策を背景として開拓が進められた那須野ヶ原の基盤施設であり,明治期有数の規模を誇る那須疏水の代表的遺構として,重要である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
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東水門
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東水門
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解説文
那須疏水旧取水施設は,栃木県東部を南北に貫流する那珂川の上流に位置している。那須疏水は,那須野ヶ原開拓の基盤施設として,内務省の直轄事業で開削された。那須疏水旧取水施設は,明治18年と38年にそれぞれ築かれた隧道の坑門を利用して整えられた東水門と西水門,38年に建設された導水路及び余水路よりなる。 那須疏水旧取水施設は,水門及び導水路等が旧態を良好に保持して残り,近代における大規模水利施設の取水システムの構成を知る上で,高い価値がある。明治政府の殖産興業政策を背景として開拓が進められた那須野ヶ原の基盤施設であり,明治期有数の規模を誇る那須疏水の代表的遺構として,重要である。
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詳細解説
那須疏水旧取水施設 二基、一所 東水門、西水門、導水路及び余水路 那須疏水旧取水施設は、那須岳を水源とし、栃木県東部を南北に貫流する那珂川の上流に位置する。 那須疏水は、那須野ヶ原開拓の基盤施設として、内務省の直轄事業により明治一八年に開削された。明治九年より内務省が実施した官営開墾適地調査において、安積原野に次ぐ開墾候補地の一つに選定され、同一一年に官有地に編入された那須野ヶ原では、士族授産政策を背景として開墾が進められ、翌年より地元有力者の設立した那須開墾社を筆頭に、三島通庸、西郷従道、青木周蔵等の政府高官による大農場経営が行われた。 『那須疏水百年史』(那須疏水百年史編さん委員会編 一九八五年)によると、その基盤施設として栃木県が飲用水路を明治一五年に建設するが、竣工直後より破損を繰り返したため、同一八年に内務省土木局疏水課が新たに疏水を建設した。この施設は、竣工までの期間、那須原疏水と命名されていたが、同一九年以降、那須疏水と称される。 その後、取水隧道入口付近における河床の変動や岩盤崩落を受け、那須疏水普通水利組合は、栃木県技師井上二郎の設計に基づき、同三八年にその西方に新たに取水施設を建設し、翌年には当初の取水隧道を予備用として利用するため坑門を石造に改めた。昭和三年には、那珂川の河床の変動に伴い再び本線とされていた当初の取水隧道の坑門を水門に改変した。これらの構造物は、昭和五一年の西岩崎頭首工建設に伴い廃止された後、平成一〇年から一三年にかけて公園施設として整備され、現在良好に保存されている。 那須疏水旧取水施設は、明治一八年と同三八年にそれぞれ築かれた隧道の坑門を利用して整えられた東水門と西水門、同三八年に建設された導水路及び余水路よりなり、いずれも那珂川の湾曲地点の右岸に位置する。導水路の東方、余水路の北方等に明治三八年に築かれた石造の一号、二号及び三号護岸が残る。また、東水門の約二九〇メートル東方の水路には同年に疏水橋が架けられ、その南橋詰には疏水橋建設の経緯を陰刻した『疏水橋之記』の石碑と、橋名及び建設年月が陰刻された親柱が残る。これらを附指定とする。 東水門は、石造で、坑門の上方に架けた角材の上に、鉄製の門扉巻揚装置を設け、さらに半円アーチ形開口部を川に向かって開くほぼ台形平面の上屋を設けたもので、正面五・四メートル、高さ八・六メートルとし、乱積の基礎部分を除き全体を切石の布積で築く。なお、『大正三年ヨリ 工事請負並設計書』(那須疏水土地改良区所蔵)に、那須鉄工所が大正一五年三月一二日に作成した、門扉及び巻揚装置に関する見積書と添付図面が残る。この門扉及び巻揚装置を附指定とする。 西水門は、石造で、坑門の上方に架けた角材の上に、鉄製の門扉巻揚装置を設けたもので、正面五・一メートル、高さ三・九メートルとし、導水路に対しやや斜めに構える。背後には長方形の石碑を中央に嵌め込んだ擁壁を布積で築く。坑門を水門に改めた年代は詳らかでないが、設置された門扉及び巻揚装置は東水門のものと類似していることから昭和初期と推定され、これを附指定とする。 導水路及び余水路は、巨大な自然石を利用して築かれた角落水門から、くの字形に屈曲して西水門に至る導水路と、西水門の手前からさらにL字形に屈曲し、再び那珂川に至る余水路よりなり、全体で延長二〇九・八メートルとする。導水路は、敷幅約六メートル、側壁法勾配約五分とした台形断面の石造構造物で、側壁を谷積、底版を石敷とする。余水路は、底版を石敷とし、西水門の東方約一〇メートルの地点に水量調節及び排砂機能を有する水門を設ける。この水門を導水路及び余水路の附指定とする。東水門と同様に、前掲『大正三年ヨリ 工事請負並設計書』に那須鉄工所が作成した門扉及び巻揚装置に関する見積書と添付図面が残るが、現在撤去されている。 明治期の大規模な灌漑水路施設としては、明治用水(愛知県、明治一三年)、安積疏水(福島県、明治一五年)、琵琶湖疏水(京都府、明治二三年)、淡河疏水(兵庫県、明治二四年)等が知られる。那須疏水は、昭和四二年から平成七年にかけて実施された那須野ヶ原総合開発事業の一環として、大規模な改修工事が行われ、小規模な隧道を除けば、旧態を現在も保持するのは旧取水施設のみである。なお、那須野ヶ原開拓に関連する遺構としては、旧青木家那須別邸(明治二一年、重要文化財)、旧山縣有朋那須別邸(明治四二年、栃木県指定有形文化財)、旧大山家那須別邸(明治末期、栃木県指定有形文化財)等がある。 那須疏水旧取水施設は、水門及び導水路等が旧態を良好に保持して残り、近代における大規模水利施設の取水システムの構成を知る上で、価値が高い。明治政府の殖産興業政策を背景として開拓が進められた那須野ヶ原の基盤施設であり、明治期有数の規模を誇る那須疏水の代表的遺構として重要である。 【参考文献】 『栃木県近代化遺産(建造物等)総合調査報 告書』(栃木県教育委員会 二〇〇三年)