国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧富岡製糸場
ふりがな
:
とみおかせいしじょう
棟名
:
東置繭所
棟名ふりがな
:
ひがしおきまゆじょ
旧富岡製糸場 東置繭所
写真一覧▶
地図表示▶
解説表示▶
員数
:
1棟
種別
:
近代/産業・交通・土木
時代
:
明治
年代
:
明治5
西暦
:
1872
構造及び形式等
:
木骨煉瓦造、建築面積1,486.60平方メートル、二階建、北面庇・西面及び南面ヴェランダ付、桟瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00232
国宝・重文区分
:
国宝
重文指定年月日
:
2006.07.05(平成18.07.05)
国宝指定年月日
:
2014.12.10(平成26.12.10)
追加年月日
:
重文指定基準1
:
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
群馬県
所在地
:
群馬県富岡市富岡1番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
富岡市
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
旧富岡製糸場 東置繭所
解説文:
詳細解説
旧富岡製糸場は,明治政府が設立した模範的な器械製糸工場である。フランス人の生糸検査人ブリュナの企画指導のもと,横須賀造船所の技師バスティアンが図面を作成し,施工は日本人があたり,明治5年10月4日に操業を開始した。3棟はいずれも木造の軸組に壁を煉瓦積とした木骨煉瓦造である。
繰糸所は敷地の中心に位置する繰糸を行う建物で,桁行が140メートルと長大である。キングポストトラスの小屋組や高い天井,鉄製ガラス窓で明るい大空間を実現している。
東西の置繭所は,繰糸所と直交方向に建つ桁行104メートル,二階建,ほぼ同形の建物である。繭を乾燥,貯蔵し,乾燥のために多数の窓を持つ。東置繭所は入口正面の建物でアーチの要石に「明治五年」の銘を刻む。
旧富岡製糸場は,明治政府が推進した産業近代化の政策を端的に物語る官営の器械製糸工場で,繰糸所と東西の置繭所は,我が国の製糸工場建築の模範となった。
極東地域において,西洋,特にフランスの技術を導入し,日本固有の技術と融合させることで産業革命を成し遂げ,世界の絹文化の発展に大きく貢献した我が国の絹産業の拠点施設であり,文化史的に深い意義を有している。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧富岡製糸場 東置繭所
旧富岡製糸場 東置繭所 2階内部
写真一覧
旧富岡製糸場 東置繭所
写真一覧
旧富岡製糸場 東置繭所 2階内部
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
旧富岡製糸場は,明治政府が設立した模範的な器械製糸工場である。フランス人の生糸検査人ブリュナの企画指導のもと,横須賀造船所の技師バスティアンが図面を作成し,施工は日本人があたり,明治5年10月4日に操業を開始した。3棟はいずれも木造の軸組に壁を煉瓦積とした木骨煉瓦造である。 繰糸所は敷地の中心に位置する繰糸を行う建物で,桁行が140メートルと長大である。キングポストトラスの小屋組や高い天井,鉄製ガラス窓で明るい大空間を実現している。 東西の置繭所は,繰糸所と直交方向に建つ桁行104メートル,二階建,ほぼ同形の建物である。繭を乾燥,貯蔵し,乾燥のために多数の窓を持つ。東置繭所は入口正面の建物でアーチの要石に「明治五年」の銘を刻む。 旧富岡製糸場は,明治政府が推進した産業近代化の政策を端的に物語る官営の器械製糸工場で,繰糸所と東西の置繭所は,我が国の製糸工場建築の模範となった。 極東地域において,西洋,特にフランスの技術を導入し,日本固有の技術と融合させることで産業革命を成し遂げ,世界の絹文化の発展に大きく貢献した我が国の絹産業の拠点施設であり,文化史的に深い意義を有している。
詳細解説▶
詳細解説
旧富岡製糸場は、江戸時代末期から明治期にかけて、わが国の主力輸出品であった生糸の品質改良と増産を目的に、明治政府が設立した模範的な器械製糸工場である。富岡市を西から東へ流れる鏑川の左岸、河岸段丘上に敷地を占める。 工場の設計はフランス人生糸検査人ブリュナの企画指導のもと、横須賀造船所の技師であったバスティアンが図面を作成し、日本人官吏や大工らが施工にあたった。明治四年(一八七一)三月に起工し、同五年七月に繰糸所、東西の置繭所などの主たる建物が完成、同年十月四日に操業を開始した。蒸気釜所、下水竇及び外竇、首長館、女工館、検査人館なども前後して建設された。建物の主たる構造は横須賀造船所の主要建物同様、木造の軸組に壁を煉瓦積とした木骨煉瓦造とし、木材や煉瓦などの材料は近傍から調達された。 開業後は各地から工女を集め良質な生糸を生産するとともに、全国各地からの視察を受け入れ、富岡製糸場を範とした製糸工場が各地に建設された。富岡製糸場で技術伝習を受けた工女は、帰郷した地元で器械製糸技術の指導にあたり、各地の製糸技術の向上に寄与した。 明治二十六年、三井家に払い下げられ、同三十五年からの原合名会社経営時代を経て、昭和十三年から片倉製糸紡績株式会社(のちの片倉工業株式会社)が経営を引き継ぎ、同六十二年三月操業を停止した。その間当初の建造物の多くが使い続けられ、極めて良好な状態で維持されている。 敷地は東西約二一〇メートル、南北約二五〇メートルで、敷地中央に東西方向で繰糸所が建ち、その北面両端に直交するかたちで東西の置繭所を配する。全体をコの字配置とし、敷地東の正門側に東置繭所が広大な壁面をみせ、東西通路のアーチを介して奥に西置繭所を望む。繰糸所の中央北には熱源と動力源の蒸気釜所、西には繰糸用の水を溜め置く鉄水溜がある。敷地東には南から首長館、女工館、検査人館の外国人官舎が建ち、敷地北東にはかつて工女寄宿舎が設けられていた。旧富岡製糸場の建造物は平成十八年七月五日付で重要文化財に、敷地は平成十七年七月十四日付で史跡に指定されている。 繰糸所は製糸場の中心となる繰糸を行う建物で、木骨煉瓦造、平屋建、桁行一四〇・四メートル、梁間一二・三メートル、東西棟、切妻造、桟瓦葺で、桁行全長に越屋根を上げ、東面に玄関を附属する。軸部は三〇センチメートル角の柱を蝋燭石状の礎石に三・六メートル間隔で立て、胴差と桁で固め、下弦材を挟み梁としたキングポストトラスを小屋組とする。柱間は布石積の上に中央を鉄製サッシュガラス窓、両脇を煉瓦一枚厚長手積とし、胴差上部にも同様に鉄製サッシュの二連回転ガラス窓を嵌め込み、両脇および窓上部を煉瓦一枚厚長手積とする。東西妻面中央間および南北面中央間は両開板戸の出入口とする。外壁は煉瓦積を表し、内壁は漆喰塗、軸部は内外ともペンキ塗とする。屋根はトラス下弦材を繰形付きの出桁状に持ち出して桁を受け、疎垂木の桟瓦葺とする。越屋根部は桁行方向に角材を簀の子状に並べたキャットウォークとし、柱間は引違い板戸として開閉可能とする。内部はコンクリート土間で自動繰糸機一〇セットを据えているが、当初は煉瓦敷でフランス式繰糸器を六組二列計三〇〇釜、窓際に揚返器が南北各六組計一五六輪を据えていた。トラスと高い天井、大きな鉄製回転ガラス窓により製糸に必要な明るい大空間を実現した。 東置繭所は、木骨煉瓦造、二階建、桁行一〇四・四メートル、梁間一二・三メートルで、南北棟の屋根は北面切妻造、南面入母屋造の桟瓦葺とする。西面と南面の二階にヴェランダを附属し、北面中央に庇を付ける。軸部は三〇センチメートル角の柱を礎石に三・六メートル間隔で立て、二階床大引を兼ねた挟み梁、胴差および桁で固め、外部と一階内部をペンキ塗とする。小屋組は中央に棟まで達する通し柱を組み込んだキングポストトラスである。柱間には布石積上に一枚厚でフランス積の煉瓦壁を充填し、一階には一段、二階には大小二段の両開板扉をもつ窓枠を組み込む。扉はおもにヴェランダ側に設け、両開腰高ガラス戸とする。正面中央北寄りには東西に抜ける通路を設け、通路入口アーチの要石には「明治五年」の文字を刻む。 内部一階は東西通路を隔てて北を一室、南を二室に大きく分ける。内部二階は広い一室で、いずれも床を板敷、壁を漆喰塗とし、一階天井は二階床組を表し、二階はトラス小屋組を表す。当初一階は北を繭取扱所とし、南は半枚厚の煉瓦壁で区画され事務所や生糸などの倉庫としていた。二階は置繭所で、通年の操業に必要な繭を貯蔵していた。当初はせいろ状の箱に繭を並べて棚に揃え、上下二段の窓から風を取り入れて繭を乾燥、貯蔵した。 西置繭所は、木骨煉瓦造、二階建、桁行一〇四・四メートル、梁間一二・三メートルで、南北棟の屋根は北面切妻造、南面入母屋造の桟瓦葺とする。おおむね東置繭所と同じ形式になるが、ヴェランダが東面と南面に附属し、東西通路がなく、一階窓上部を煉瓦壁としないなどの違いがある。 内部一階は一室で、床を板敷、壁を漆喰塗、天井を木摺漆喰塗とする。二階は一室で、東置繭所同様の置繭所とする。当初一階は北は土間で東面を開放とする石炭置場で、南を繭取扱所や生糸取扱所などに使用していた。 旧富岡製糸場は、明治政府が推進した産業近代化の政策を端的に物語る官営の模範的な器械製糸工場である。中でも工場の根幹をなす繰糸所、東置繭所および西置繭所の三棟は、わが国の器械製糸や繭乾燥、貯蔵の模範となった建造物であり、ゆったりと配置された木骨煉瓦造の長大な建築は、文明開化を強く印象づける堂々たる意匠を示しており極めて価値が高い。極東地域において西洋、特にフランスの技術を導入し日本固有の技術と融合させることで産業革命をなしとげ、世界の絹文化の発展に大きく貢献したわが国の絹産業の拠点的施設であり、文化史的に深い意義がある。