国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
三浦家住宅(秋田県秋田市金足黒川)
ふりがな
:
みうらけじゅうたく
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
しゅおく
三浦家住宅(秋田県秋田市金足黒川) 主屋
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/民家
時代
:
江戸末期
年代
:
文久元
西暦
:
1861
構造及び形式等
:
桁行27.0m、梁間13.6m、寄棟造、茅葺、北面、東面及び西面下屋附属、銅板葺、東面2室附属、寄棟造、茅葺、北面、東面及び南面下屋附属、銅板葺、中門 桁行9.1m、梁間10.9m、正面入母屋造、茅葺、北面下屋附属、銅板葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02492
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2006.12.19(平成18.12.19)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
秋田県
所在地
:
秋田県秋田市金足黒川字黒川178番
保管施設の名称
:
所有者名
:
久光エージェンシー株式会社
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
三浦家住宅(秋田県秋田市金足黒川) 主屋
解説文:
詳細解説
三浦家は,相模の豪族三浦氏の流れをくみ,江戸時代を通じて代々肝煎役を務めた家柄である。
主屋は,正面の左右に中門を突出させた両中門造で,馬屋と土間を広く取り,座敷に床・棚・付書院を備えている。主屋を囲んで米蔵などが建ち並び,豪農の屋敷構えを良く留めている。
建設年代は,主屋が文久元年(1861),表門と鎮守社が同時期で,明治24年に米蔵,同35年に文庫蔵,その他は昭和初期までに建てられた。
三浦家住宅は,規模が大きく発達した平面形式をもつ両中門造の主屋をはじめ,幕末から昭和初期にかけて建設された上質なつくりの一連の附属建物など,この地方の豪農の屋敷構えの発展形態を知る上で,高い価値がある。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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三浦家住宅(秋田県秋田市金足黒川) 主屋
三浦家住宅(秋田県秋田市金足黒川) 主屋 内観
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三浦家住宅(秋田県秋田市金足黒川) 主屋
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三浦家住宅(秋田県秋田市金足黒川) 主屋 内観
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解説文
三浦家は,相模の豪族三浦氏の流れをくみ,江戸時代を通じて代々肝煎役を務めた家柄である。 主屋は,正面の左右に中門を突出させた両中門造で,馬屋と土間を広く取り,座敷に床・棚・付書院を備えている。主屋を囲んで米蔵などが建ち並び,豪農の屋敷構えを良く留めている。 建設年代は,主屋が文久元年(1861),表門と鎮守社が同時期で,明治24年に米蔵,同35年に文庫蔵,その他は昭和初期までに建てられた。 三浦家住宅は,規模が大きく発達した平面形式をもつ両中門造の主屋をはじめ,幕末から昭和初期にかけて建設された上質なつくりの一連の附属建物など,この地方の豪農の屋敷構えの発展形態を知る上で,高い価値がある。
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詳細解説
三浦家住宅 八棟 主屋、米蔵、文庫蔵、味噌蔵、土蔵、馬小屋、表門、鎮守社、土地 三浦家は、相模の豪族三浦氏を祖とし、天正年間頃に当地にて帰農した三浦盛宗を初代と伝える。寛文年間に四代宗安が黒川村の肝煎役を務めたのをはじめ、代々肝煎役を継承して豪農としての基盤を確立する一方で、林業経営でも成功し、天保七年(一八三六)には郷士格を得た。大正三年以降に黒川油田開発が本格化し、人口の増加に伴い大正七年に郵便局を開局、昭和五二年まで営業していた。 三浦家住宅は、秋田市の東北部に位置する金足黒川地区に所在し、舌状台地の先端にある平坦地に屋敷地を構える。文久元年(一八六一)に両中門造の主屋が建築され、同じ頃に主屋前面の表門と米蔵前面の築山上に祀られる鎮守社も建てられたとみられる。続いて明治二四年に米蔵、同三五年に文庫蔵が建てられた。主屋と米蔵、文庫蔵については棟札が残されており、建築年代と経緯が明らかである。また明治から大正にかけて土蔵と味噌蔵が主屋前面と後方にそれぞれ他所から移築され、さらに昭和一〇年代に馬小屋が他所から移築されて、ほぼ現況の屋敷構えとなった。 敷地の南、西、北側は段丘状で一段低い平地となり、南側には庭園を配し、主屋座敷部から眺める。 主屋は、桁行二七・〇メートル、梁間一三・六メートルの本屋東面の南と北に中門を突出させる。南側は座敷中門、北側は桁行九・一メートル、梁間一〇・九メートルを測る馬屋中門である。ちなみに、北陸・東北地方の民家においてL字型に馬屋・座敷等を突出させた部分を「中門」と呼び、当地では、座敷中門を「チュウモン」、馬屋中門を「マガリ」と呼ぶ。昭和四六年度に実施された民家緊急調査によると、両中門造民家は秋田市周辺から県南西部に限って分布していた。 主屋内部は、本屋の北寄りと馬屋中門を土間とし、馬屋中門を南北に二分して馬屋と納屋とする。ドマ東寄りには直径四五センチメートルの大黒柱を立ててドマの重厚な梁組を支える。 床上部は三列構成になり、北はドマに面してゲンカン、オエ、オジョメを配し、中央にはブツマとオバアサマノヘヤを配する。オエ、オジョメ、ブツマは周囲に成の高い差物を入れ、天井は棹縁天井を張る。オエでは矩形梁の梁組を現して質実な空間とする。仏壇上方に折上格天井を設ける。 南側は、座敷中門に、八畳間、ユウビンキョクを並べ、その奥に十畳間、ナカザシキ、オクザシキと続け、いずれも棹縁天井とする。オクザシキは床・違棚・付書院の座敷構えを備え、違棚の奥壁を洞床風に塗り込める。ナカザシキ境の小壁には、波紋様の透欄間を入れ、八畳間とユウビンキョクでは面皮の柱と長押を用いて数奇屋風とする。全体として積極的に間仕切柱を省いて広い空間を確保し、質の良い建具を建て込む。オエからオクザシキにかけては六・三尺を一間とする畳割とし、柱は五寸角を基本とする。主屋の西南側にはマワリエンとドエンを廻らす。 屋根は寄棟造、茅葺で、馬屋中門正面を入母屋造とする。周囲をせがい造として、軒を深くする。 米蔵は、土蔵造、桁行一四・九メートル、梁間六・四メートル、切妻造、桟瓦葺、軒部分は銅板葺である。内部は柱を立てず、桁高は五メートルと高く、広闊な空間とする。入口を奥行二間の蔵前で囲い、重厚な塗戸を吊る。桁行側柱を内転びとし、四周の軒を深く出して方杖で軒桁を受け、側面は軒支柱で補強する。方杖上部では絵様肘木と斗で軒桁を受ける。 文庫蔵は、土蔵造二階建、桁行一一・一メートル、梁間五・五メートル、切妻造、置屋根式の桟瓦葺である。東面に蔵前を設け、南面に下屋を張り出す。軸部は、側柱を密に立てて桁行側柱を内転びとし、檜の柱や欅の梁等に良材を使い、堅牢に造る。外壁は漆喰塗で、軒蛇腹等に黒漆喰を用いて家紋などの漆喰彫刻をあしらい華やかに見せる。妻面では螻羽を軒支柱で支持し、絵様肘木で飾る。 味噌蔵は桁行一〇・〇メートル、梁間四・五メートル、寄棟造、鉄板葺である。南半部に二階を設け、外部は漆喰塗及び縦板張とする。 土蔵は、土蔵造、桁行八・二メートル、梁間五・五メートル、切妻造、置屋根式の銅板葺である。内部中央に直径六〇センチメートルの欅の円柱を立てて牛梁を受け、円柱から西半部に根太天井を張って二階とする。側柱を内転びとし、一尺毎に柱を立て、貫で堅牢に固める。 馬小屋は、桁行六・七メートル、梁間八・三メートル、二階建、切妻造、鉄板葺で、外壁を縦板張とする。一階中央に通りを設け、左右を三室ずつに間仕切る。 表門は、三間一戸薬医門、桁行五・〇メートル、梁間一・五メートル、切妻造、銅板葺である。総欅造で本柱に冠木を渡し、絵様肘木や蟇股を用いて小屋組をつくり、武家屋敷正門の趣を呈する。 鎮守社は、桁行二・四メートル、梁間二・四メートル、入母屋造、正面向拝付、銅板葺である。 三浦家住宅は、主屋が両中門造民家として発達した平面をもち、規模も大きい。また、建築年代が明らかで材料、意匠も優れており、価値が高い。主屋周囲には幕末から昭和初期にかけて建設された米蔵などの附属建物が残り、豪農の屋敷構えをよく保持しており、宅地と併せて保存を図る。 参考文献 『秋田県の民家』秋田県教育委員会 一九七三年 『三浦館修復の記録』三浦館保存会 二〇〇六年
関連情報
附指定
棟札
関連情報
附指定
附名称
:
棟札
附員数
:
3枚