国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
野村碧雲荘
ふりがな
:
のむらへきうんそう
棟名
:
大玄関及び能舞台
棟名ふりがな
:
だいげんかんおよびのうぶたい
野村碧雲荘(京都府京都市) 大玄関及び能舞台
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員数
:
1棟
種別
:
近代/住居
時代
:
昭和
年代
:
昭和3
西暦
:
1928
構造及び形式等
:
木造、建築面積167.95平方メートル、桟瓦葺一部檜皮葺、東面車寄・西面渡廊下・北面便所附属、南面東端塀・北面東端門及び塀付
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02495
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2006.12.19(平成18.12.19)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
京都府
所在地
:
京都府京都市左京区南禅寺下河原町37番2、同南禅寺福地町57番
保管施設の名称
:
所有者名
:
野村ホールディングス株式会社、野村殖産株式会社
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
野村碧雲荘(京都府京都市) 大玄関及び能舞台
解説文:
詳細解説
野村碧雲荘は,実業家野村徳七が京都南禅寺に建てた和風別邸で,敷地北辺に沿って大玄関及び能舞台,大書院などが並び建ち,琵琶湖疏水の水を引き込んだ池を囲み,花泛亭などの茶室を配している。
建設年代は,大正6年から昭和3年にかけて建設された。数寄屋大工北村捨次郎が手掛け,木造平屋建,桟瓦葺を基本とし,良材を用いた瀟洒なつくりで,高度な数寄屋技法を用いている。
野村碧雲荘は,借景をいかした庭と調和した近代和風住宅建築として重要であり,特徴ある茶室なども揃って残り,高い価値がある。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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野村碧雲荘(京都府京都市) 大玄関及び能舞台
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野村碧雲荘(京都府京都市) 大玄関及び能舞台
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解説文
野村碧雲荘は,実業家野村徳七が京都南禅寺に建てた和風別邸で,敷地北辺に沿って大玄関及び能舞台,大書院などが並び建ち,琵琶湖疏水の水を引き込んだ池を囲み,花泛亭などの茶室を配している。 建設年代は,大正6年から昭和3年にかけて建設された。数寄屋大工北村捨次郎が手掛け,木造平屋建,桟瓦葺を基本とし,良材を用いた瀟洒なつくりで,高度な数寄屋技法を用いている。 野村碧雲荘は,借景をいかした庭と調和した近代和風住宅建築として重要であり,特徴ある茶室なども揃って残り,高い価値がある。
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詳細解説
野村碧雲荘 一七棟 大玄関及び能舞台、大書院、中書院、洋室及び書斎、廊下蔵、旧館(北泉居)、台所蔵、西門及び事務所、大黒堂、不老門、龍頭軒、花泛亭、待月軒、露(田舎家)、羅月及び蘆葉舟、巽蔵、東門、土地 野村碧雲荘は、南禅寺の北方、東山の麓の緩やかな傾斜地に建つ。関西を代表する経済人であった野村徳七が自らの別邸として建てたもので、敷地はその東を鹿ヶ谷通、南を琵琶湖疏水の分流である扇ダム放水路で画し、東西約二二○メートル、南北約一○○メートルで、その面積は一七、三○○平方メートル余に及ぶ。 野村徳七(一八七八~一九四五)は明治一一年八月七日初代徳七の子信之助として大阪に生まれ、明治四○年四月に家督を継ぎ、徳七を襲名した。以後、家業を発展させ現在の野村グループの礎を築いた。茶人としては藪内節庵に入門し得庵と号す。また能は観世左近に師事した。 邸内は東より西に向かって緩やかに傾斜し、東南隅より琵琶湖疏水の水を引き込み、滝を経て西寄りの池に流して庭園を形づくり、東山の山並みを借景としている。建物は、蔵を除いて木造平屋建若しくは一部二階建で、屋根は桟瓦葺を基本とし、軒先等を檜皮葺とする。敷地東側に東門を開き、緩やかに下って敷地北寄りに大玄関及び能舞台を置き、西に向かって渡廊下を介して大書院、中書院、洋室及び書斎、廊下蔵、旧館(北泉居)、台所蔵を配する。これらの建物はいずれも南面して建ち、所々東にも眺望を開くよう計画されている。旧館(北泉居)の西側には西門及び事務所を配し、その南に大黒堂、池の西詰めに待月軒を置く。西門の外側には矩折に水堀を配してその南に不老門を開き、その脇に龍頭軒を配する。さらに、敷地南寄りには花泛亭、露(田舎屋)を置き、池の南寄りには池に張り出して羅月及び蘆葉舟を配する。また、東門の南西には巽蔵がある。 各建物の竣工年月日は定かではないが、徳七が建設に着手したのは大正六年頃と伝える。その後、同一○年頃までには洋室及び書斎の書斎部分、旧館、廊下蔵、台所蔵、西門及び事務所、待月軒が完成し、さらに昭和天皇即位の礼に際して久邇宮邦彦王の宿泊所に指定されたことから竣工を急ぎ、昭和三年一○月にはおおむね現在の姿が整えられたと考えられる。建築は大工棟梁北村捨次郎、庭園は七代目小川治兵衛とその子息保太郎の手による。 北村捨次郎(一八八四~一九四五)は、数寄屋大工上坂浅次郎の高弟で、他に京都市上京区御車道通清和院口上るの北村美術館四君子苑(昭和一九年)等の作品がある。 大玄関及び能舞台は、建築面積一六七・九五平方メートル、平屋建で、東面に切妻造、檜皮葺の車寄を設ける。玄関は間口四・七メートルの両引板戸とし、左右に香道の幾何学模様を施す。平面は、東から南にかけて玄関土間を矩折れに配し、その北側に八畳取次を設ける。西に向かっては能舞台を開き、その北に一○畳間と一間幅の橋掛を配し、北寄りには幅一間の畳廊下を通している。全体に建ちを低く抑え、部材寸法も控え気味としている。 大書院は、建築面積二一八・四○平方メートル、平屋建で、二○畳の主室には二間幅の床、上段の間四畳、棚・付書院を備え、その東に一二畳の次の間を設ける。四周には一間幅の入側を廻し、西北寄りには浴室、洗面などの水廻りを設けている。また東南隅には六畳の滝見台を突出させている。主室と次の間境及び付書院の欄間は神坂雪佳の案により、花鳥や人物を配した極彩色の襖は豊島停雲の手による。杉・檜の良材を用い、正面は入側桁を一本の材で通してその間の柱を完全に排除するなど、極めて高い技巧を誇る。 中書院は、建築面積一九五・二一平方メートル、一部二階建である。一階は大書院を結ぶ渡廊下から続く板敷の廊下を東西に矩折れで通し、その南側に東から草庵風の立礼の茶室(鷺序)、立水屋、水屋、中書院、仏間、三畳台目の茶室、土間を配し、廊下の北側には台所と六畳間を設ける。中書院は一○畳大で、琵琶台付の床の間と付書院を備える。二階は南に面して居間と応接室、北側に寝室、更衣室を配する。居間と応接室の床をコルクタイル張とし、居間の天井四周を網代張とするなど和洋折衷の意匠を凝らしている。 洋室及び書斎は、建築面積一七三・六一平方メートル、一部二階建である。東西に通る廊下の南に設けられた洋室は、昭和三年以降に徳七の息子義太郎によって増築されたもので、外観は和風の設えであるが、壁面を二重にして、内部は北欧民家を模してまとめられている。廊下を介した北側は絨毯敷の書斎とし、北面の東側二間はガラスの高窓を設ける。二階には二室を設け、西寄り一○畳間は床をコルクタイル張とするなど、中書院二階部と共通する和洋折衷の室内意匠とする。一方、東側九畳には床を備え、畳敷に棹縁天井として和風の意匠でまとめている。 洋室及び書斎の西側には防火壁を介して廊下を東西に通し、その北側に土蔵造二階建、切妻造、本瓦葺、桁行一一・八メートル、梁間五・五メートルの廊下蔵を設ける。室内ほぼ中央に階段を設け、二階東寄りには畳敷六畳の小室を設けている。 旧館(北泉居)は、碧雲荘の中で最も内向きの機能を有する建物で、建築面積四五六・六七平方メートル、一部二階建である。一階は機能面から大きく三区分され、玄関から北泉居にかけての主人の居室部分、その南西寄りに張り出す茶室(為楽)を中心とする部分、北側の台所廻りからなる。居室部分は南に開く玄関六畳、その西の内玄関から、東に八畳間、廊下を隔てて居間一○畳、雁行する縁を介して北泉居一○畳へと続く。北泉居は一畳大の床の廻りに板敷部分を設け、東面と南面に一間幅の畳廊下を廻らし、さらに濡縁を設けている。南西寄りには五色の間、水屋、茶室(為楽)を設け、二畳の前室を介して南西端に為楽玄関を設けている。居間の北側には四畳半の前室、洗面所、浴室を配する。玄関の北側には変形九畳、台所蔵の蔵前となる一○畳、四畳半を介して二四畳大の板敷台所があり、さらに土間を介して北側に六畳、八畳の使用人のための部屋が設けられている。 二階は、一階の北泉居、居間から北西方に相当する位置に設けられ、四畳大の床を備える南東隅の一五畳の東・南面に廊下を配し、その西に八畳、六畳を配すほか、階段部分を介して北西側には三畳大三室、四畳半一室を配する。また台所蔵の南面に相当する部屋は床を張らず、一階天井に明かり窓を設けている。 旧館の北側に建つ台所蔵は、桁行六・五メートル、梁間五・五メートルの土蔵造二階建、切妻造、本瓦葺である。 西門及び事務所は、建築面積一三四・二六平方メートル、平屋建で、北寄りは屋根を重層させて建ちを高く見せている。間口六・三メートルで、両引戸の門を中心に、北側には六畳間に前室を設けた使用人のための居室、納戸、浴室、便所等、南側には六畳間と事務所を配している。 西門及び事務所の南側には、昭和一一年に建設された大黒堂が南面して建つ。建築面積一八・四一平方メートル、入母屋造、檜皮葺で、内部は拝堂と大黒天を収める祭壇部分及び西側突出部からなり、これに正面向拝が取り付く。 西門及び事務所から矩折れに伸びる塀を介して、東西棟の不老門が建つ。寄棟造の一間腕木門、桟瓦葺で、軒先のみ檜皮葺とし、背面中央部の軒先を弧状に切り欠いて兜造風としている。垂木は杉丸太を用い、正面側は放射状に、背面側は平行垂木とする。また、扉の腰部や袖塀には栗のなぐり材を用いるなど、独特の意匠でまとめている。 不老門南西側には、龍頭軒が東面して建つ。建築面積六二・二一平方メートルで、昭和四年から一○年頃の建築と考えられる。砂利敷の土間と四畳からなる玄関、一畳大の床の間を備える一一畳広間、水屋及び板の間からなる。玄関の西面中央柱には豊国神社一の鳥居の古材を用い、四天王寺五重塔のものと伝える龍頭の木鼻を取り付け、この柱より放射状に垂木を配する特異な天井とし、随所に豊臣氏にちなむ瓢箪の飾りを付けている。 花泛亭は、建築面積一四○・一○平方メートル、平屋建で、池の南側に北面して建つ。碧雲荘の中で茶事の中心をなす建物であり、大玄関及び能舞台や大書院に先駆けて建設されていたが、その後昭和二年に火災に遭い、直ちに再建されたものである。正面中程に玄関を開き、三畳台目の寄付、その背面側に四畳と土間からなる台所を備える。西寄りには廊下を介して広間となる四畳の次の間及び八畳の花泛亭を配し、さらに外側に水屋を設けている。花泛亭の北面は矩折れに四半敷の土間を廻らし、側廻りにはガラス戸を建て込んでいる。台所の東には南寄りに南光席、北東に雁行して突出する又織の二つの茶室を配する。南光席は利休好みの二畳中板、又織は織部好みの深三畳台目である。 待月軒は、建築面積一八・四二平方メートル、入母屋造、檜皮葺で、池の西端にあって東面し、邸内随一の眺望を得ることができる。内部は一室の石敷土間で、柱・梁に丸太を用い、東面は北半を開放、南半を腰壁とする。西面は北半に円窓を設け、南半は壁を床に見立てている。 露(田舎家)は、建築面積一九・○五平方メートル、茅葺一部檜皮葺である。その名の通り田舎家風の待合で、北半を土間として矩折れに腰掛を配し、南半に三畳間を配す。三畳間の東寄り二畳分は舟底天井とし、西寄り一畳の勝手畳上は天井を張らず、垂木が放射状に並ぶ小屋裏を見せている。 露(田舎家)の北寄りには、池に張り出して羅月及び蘆葉舟を配する。建築面積六八・一二平方メートルで、東西棟の西寄りに入母屋造が取り付く。羅月部分は池に張り出した観月台で、大部分が露天になる。東西棟部分には、茶室三畳台目に水屋二畳からなる屋形船形の茶室(蘆葉舟)を収める。 巽蔵は、土蔵造二階建、切妻造、桟瓦葺で、桁行一○・一メートル、梁間五・一メートルの土蔵に、木造の蔵前と物置が取り付く。 敷地の東辺には東門を配する。一間薬医門、切妻造、桟瓦葺で、左右に竹の木賊張の袖塀が取り付く。 野村碧雲荘は、大正から昭和にかけて建てられた広大な別荘建築であり、後世の改造も少なく、建築当初の姿を良く残している。また、他では望めない傑出した借景を巧みに生かしつつ優れた庭園との相乗効果を生かした配置、極めて高い建築技術、優美な意匠などを考慮すると、近代和風住宅建築の一つの到達点というべきである。主人の居住のための空間、これを支える機能を果たす諸室、皇族の滞在を意識した大空間、そして施主の趣味を色濃く反映した茶室の数々など、近代和風住宅に特有の諸要素が完存する点でも貴重である。よって土地と併せて保存を図る。 【参考文献】 『数寄屋邸宅集成』(中村昌生編著 一九八八~八九年)
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:
去来門
附員数
:
1棟
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