国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
長福寺本堂
ふりがな
:
ちょうふくじほんどう
棟名
:
棟名ふりがな
:
長福寺本堂外観
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/寺院
時代
:
江戸中期
年代
:
寛文9
西暦
:
1669
構造及び形式等
:
桁行18.2m、梁間16.1m、入母屋造、向拝一間、背面後堂附属、本瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02491
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2006.07.05(平成18.07.05)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
大分県
所在地
:
大分県日田市豆田町
保管施設の名称
:
所有者名
:
長福寺
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
長福寺本堂外観
解説文:
詳細解説
長福寺は、大分県の日田市豆田町に所在する浄土真宗寺院であり、入母屋造で、正面に向拝一間を設け、屋根は本瓦葺とする。平面は、広縁、外陣、内陣、内陣左右の余間などからなる。
長福寺本堂は、九州地方において17世紀に遡る数少ない浄土真宗本堂であり、古風な建立当初の形式をよく残す遺構として、高い価値がある。また、近世初期の町割の構成をよく残す豆田町重要伝統的建造物群保存地区にあって、町の形成期に遡るものであり、景観上も核となる遺構として重要である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
長福寺本堂外観
長福寺本堂内部
写真一覧
長福寺本堂外観
写真一覧
長福寺本堂内部
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解説文
長福寺は、大分県の日田市豆田町に所在する浄土真宗寺院であり、入母屋造で、正面に向拝一間を設け、屋根は本瓦葺とする。平面は、広縁、外陣、内陣、内陣左右の余間などからなる。 長福寺本堂は、九州地方において17世紀に遡る数少ない浄土真宗本堂であり、古風な建立当初の形式をよく残す遺構として、高い価値がある。また、近世初期の町割の構成をよく残す豆田町重要伝統的建造物群保存地区にあって、町の形成期に遡るものであり、景観上も核となる遺構として重要である。
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詳細解説
長福寺本堂 一棟 長福寺は、大分県の北西部、筑後川上流域に位置する日田市豆田町(まめだまち)に所在する浄土真宗寺院である。天正一二年(一五八四)頃に宗榮(そうえい)によって草創され、その後慶長一二年(一六〇七)に長福寺の寺号を受けて筑前国下座郡三奈木の地に堂を建立したと伝えられる。豆田町の現在地に境内を構えたのは、寛永一四年(一六三七)のことである。豆田町への移転について、その事由は詳らかでないが、『長福寺年譜』等によると、門徒であった三松氏の関与があったらしい。三松氏は和泉の出身で寛永年間に豆田町に居住したと伝えられる有力な商家で、幕末まで町年寄を務めた。 豆田町北東部にある長福寺は、西、南、東の三方を街路で区切り、北を町人地に接して東西に細長い境内地を構える。境内西の上町(うわまち)通りに面して山門を構え、山門北に鐘楼がある。本堂は境内中央西寄りに西面して建ち、本堂の背後には庫裏がある。本堂北には東から西に水路が流れており、この水路の北側に南を正面とする経蔵と、西を正面とする常燈明堂が並び建つ。 本堂の建築年代は、記録や部材墨書等から寛文九年(一六六九)と判明し、大工井上杢兵衛・同次右衛門のほか、小工六人の名が知られる。平成の保存修理工事において、外陣中備の実肘木裏面から、「寛文八年酉之六月朔日/□州豊後之国日田郡友田村ノ住人/後藤作之丞作之」の墨書が発見された。酉は寛文九年に該当するので、この八年は九年の誤りかもしれない。なお、この後藤作之丞は、日田市内(旧日田郡前津江村)にある重要文化財大野老松天満社旧本殿の寛文一三年修理に棟梁として携わっていたことが、棟札と部材墨書から知られる。 建立後の主な改造は、元禄一五年(一七〇二)の余間の改造、享保年間・寛延年間・文化年間の内陣廻りの改変、弘化年間の小屋組や天井及び向拝の改造などが知られる。平成七年三月一〇日に大分県指定有形文化財に指定され、平成一四年から同一七年にかけて行われた保存修理により、寛文九年創建時の形式を基本としつつ、堂内の荘厳がほぼ整った享保期の姿に復された。 本堂は、桁行一八・二メートル、梁間一六・一メートル、入母屋造で、正面に向拝一間、北側面と背面には下屋を設け、屋根は本瓦葺とする。軒は一軒疎垂木、東面全面と南面の東半及び北面の東端は軒廻りを漆喰で塗り固め、妻飾も漆喰塗とする。 平面は正面から広縁、外陣、内陣、内陣左右の余間、両側面の後半の鞘ノ間、背面の後堂からなる。正面から両側面の前半にかけては擬宝珠高欄付の切目縁を廻し、正面中央に木階四級、両側面に石階六級を設ける。 外陣は、桁行七間、梁間四間の規模で、内部に四本の柱を立て、無目の敷居と鴨居、内法長押を入れ内法上小壁を開放として桁行三列に区切り、全面を棹縁天井とする。 外陣後方は框を入れて床を一段高め、中央を内陣、両脇の各間を余間とする。内陣は中央後寄りに来迎壁を設けて前面に須弥壇を置き、後方は後門形式として左右に祖師壇を設け、中央を通路とする。左右の余間は内陣より敷居成分低く床を張り、奥に幅一杯の余間壇を設け、蓮池の絵を描く。内陣、余間とも棹縁天井とする。 正面一間通りの広縁は吹放しで、天井は鏡天井である。左右の余間の脇にある鞘ノ間と背面の後堂は、化粧屋根裏とする。 軸部は内陣の来迎柱二本を円柱とするが、他は内外とも面取角柱を立て、特に内外陣境の四本は唐戸面にする。側廻りは長押・貫で固めて台輪を廻し、大斗・絵様肘木をあげ、正面は頭貫・飛貫間を横板壁として、特に中央間は内法上に虹梁を入れる。内部は側廻りより柱長さを短くして長押・貫で固めて台輪を廻し、実肘木付三斗を組み、中備に蓑束を入れる。内陣は来迎柱を頭貫で固め、二手先組物で天井桁を受け、組物間に支輪をつける。来迎柱と余間の柱とは唐破風状の虹梁で結ぶ。向拝は角柱を立てて虹梁形頭貫で固め、連三斗で桁を受け、側柱と桁を繋梁で結ぶ。 柱間装置は、外陣の正面・両側面が腰高障子二枚引違、左右の鞘ノ間の正面が格子戸片引、側面が窓、背面が漆喰塗の大壁である。内外陣境は障子四枚引違、内陣・余間境は無目の敷鴨居で開放、余間・外陣境及び余間・鞘ノ間境は襖二枚引違である。内外陣境には波に雲龍、余間・外陣境には桐に鳳凰、南余間の余間壇上には波に龍と竹林に虎、北余間の余間壇上には牡丹に唐獅子の彫刻欄間をそれぞれ入れる。 長福寺本堂は、建立年代が寛文九年と明確で、九州地方において一七世紀に遡る数少ない浄土真宗本堂であり、古風な建立当初の形式をよく残す遺構として、価値が高い。また、近世初期の町割の構成をよく残す豆田町の形成期に遡る唯一の寺院として、歴史的にもまた景観上も重要伝統的建造物群保存地区の核となる遺構として重要である。 【参考文献】 『大分県近世社寺建築緊急調査報告書』(大 分県教育委員会 一九八七年) 『大分県指定有形文化財 長福寺本堂保存修 理工事報告書』(大分県教育委員会 二〇〇 五年)