国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
阿蘇神社
ふりがな
:
あそじんじゃ
棟名
:
一の神殿
棟名ふりがな
:
いちのしんでん
阿蘇神社 一の神殿
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/神社
時代
:
江戸末期
年代
:
天保11
西暦
:
1840
構造及び形式等
:
桁行5間、梁間2間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、軒唐破風付向拝3間、銅板葺
附・棟札 2枚1組
天保11年11月27日
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02510
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2007.06.18(平成19.06.18)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
熊本県
所在地
:
熊本県阿蘇市一の宮町宮地
保管施設の名称
:
所有者名
:
阿蘇神社
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
阿蘇神社 一の神殿
解説文:
詳細解説
阿蘇神社は,古くから肥後一の宮として崇敬され,境内正面に楼門と,その左右の神幸門と還御門を構え,その後方に一の神殿と二の神殿及び三の神殿が建って,左右対称の境内を構成している。
社殿は,天保6年(1835)から嘉永(かえい)3年(1850)にかけての社殿再興事業で建てられ,大工棟梁は,水民元吉が務めた。一,二の神殿は入母屋造の五間社で,三の神殿は三間社流造,楼門は三間一戸二階二重門で,神幸門と還御門は四脚門形式である。いずれも,軸部や組物などを波頭紋や雲紋の華やかな彫刻で飾っている。
阿蘇神社の社殿は,その構法や彫刻には,江戸時代末期の建築的特色がよく現れており,また,造営経緯や大工名も明らかであることから,高い価値が認められる。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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阿蘇神社 一の神殿
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阿蘇神社
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解説文
阿蘇神社は,古くから肥後一の宮として崇敬され,境内正面に楼門と,その左右の神幸門と還御門を構え,その後方に一の神殿と二の神殿及び三の神殿が建って,左右対称の境内を構成している。 社殿は,天保6年(1835)から嘉永(かえい)3年(1850)にかけての社殿再興事業で建てられ,大工棟梁は,水民元吉が務めた。一,二の神殿は入母屋造の五間社で,三の神殿は三間社流造,楼門は三間一戸二階二重門で,神幸門と還御門は四脚門形式である。いずれも,軸部や組物などを波頭紋や雲紋の華やかな彫刻で飾っている。 阿蘇神社の社殿は,その構法や彫刻には,江戸時代末期の建築的特色がよく現れており,また,造営経緯や大工名も明らかであることから,高い価値が認められる。
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詳細解説
阿蘇神社 六棟 一の神殿、二の神殿、三の神殿、楼門、神幸門、還御門 阿蘇神社は、阿蘇山の外輪山に囲まれた火口原のほぼ中央に所在する。南に望む霊峰阿蘇の象徴である阿蘇五岳と、北側の山麓に鎮座する国造神社との中間にあり、阿蘇信仰上で重要な場所に位置している。阿蘇神社は、延喜式にはすでに記載のみえる古社であり、古代より肥後国の一の宮として崇敬されてきた。その後も阿蘇信仰を背景に発展し、中世には多くの社殿が建てられて境内が整えられた。中世の絵図によれば、六棟の神殿が冂の字形に左右対称に配置され、神殿群の前面には現状のように楼門を中心として左右に廻廊が延び、両翼に神幸門と還御門の二門を開くという社殿配置が描写されている。室町末期以降、暫く停滞したが、江戸末期に社頭の再興が図られた。 社殿の造営は、建久九年(一一九八)、建武元年(一三三四)、正平二三年(一三六八)、応永一一年(一四〇四)、天文二三年(一五五四)に行われたとみられる。以後は近世を通じ肥後細川藩の庇護下におかれるが、本格的な境内整備は困難であったとみられ、社殿は「仮殿」とされる状態で維持されていた。漸く天保三年(一八三二)に藩から社殿造営の認可を得、同六年から嘉永三年(一八五〇)にかけて現在の社殿が再興された。再興事業は細川藩の全面的な支援を受けて実施され、棟梁は水民元吉が務めた。元吉は下益城郡小川町(現熊本県宇城市小川町)の出身で、この大事業での大工技量が評価され、事業完了間近の嘉永二年六月に、細川藩御用大工に抜擢された。 阿蘇神社の参道は、阿蘇五岳と国造神社を結ぶ南北軸沿いに延び、境内地はその西側に広がる。石垣上に建つ楼門を起点とする東西軸の南北に、ほぼ同規模同形式の社殿が建つ、左右対称の配置をなしている。楼門の両脇には、廻廊を介して神幸門と還御門の脇門を開き、楼門奥に拝殿、その後方左右に一の神殿と二の神殿が並び建ち、さらに両神殿間の後方に三の神殿が建つ。 一の神殿は、棟札により天保一一年(一八四〇)の建立である。桁行五間、梁間二間、入母屋造、正面千鳥破風付で、向拝三間で軒唐破風を付ける。正側面には擬宝珠高欄付の切目縁を廻し、向拝に三間幅の木階と浜床を付ける。屋根は銅板葺で棟には千木と堅魚木を置き、妻飾は虹梁大瓶束形式とする。内部は前後二分して内外陣とし、内陣を五室に間仕切る。内外陣とも床張で、天井は外陣を格天井、内陣を小組格天井とする。軸部は、亀腹型に加工した布石上に円柱を建て、貫・長押で固め、柱を建登らせて桁を受け、肘木は柱に鼻栓差しとする。組物は出組、軒支輪を廻し、軒は二軒繁垂木、向拝中央間の柱上は虹梁で囲み、格天井を作る。正面柱間は、中央間を板扉、両脇を半蔀とし、側背面では北側面の外陣に板扉を開き、他は板壁とする。また、虹梁端部や頭貫木鼻、向拝蟇股、手挟、実肘木、縁葛など、随所に波頭紋や雲紋の華やかな彫刻を施して飾る。 二の神殿は、天保一三年の上棟になり、一の神殿とほぼ同形式であるが、わずかに平面規模が小さく、南側面の外陣に板扉を開く。また、向拝正面中央間の中備を、一の神殿では雲龍の彫刻であるのに、二の神殿では花卉の彫刻とする。 三の神殿は、天保一四年に上棟された。三間社流造、正面千鳥破風付、銅板葺で、棟に千木と堅魚木を置く。三方に擬宝珠高欄付の切目縁を廻し、正面中央間に木階を付け、浜床を張る。内部は前後二分して内外陣とし、内陣を三室に間仕切る。内外陣とも床張で、天井は外陣を格天井、内陣を小組格天井とする。軸部や組物の構成は一の神殿及び二の神殿と同様とするが、正面軒は垂木を打越して三軒繁垂木とし、背面は二軒繁垂木とする。軸部材や組物の各部に彫刻を施し、特に二重虹梁形式の妻飾は華やかで、虹梁を出組の手先で受けて、妻壁を二段に持ち出し、上段虹梁上に笈形付大瓶束を立て、板支輪や琵琶板部分も含めた全体を、雲紋や波頭紋の彫刻で埋めて飾る。 楼門は、嘉永二年(一八四九)に上棟された三間一戸二階二重門で、入母屋造、一階屋根の正面に軒唐破風を付け、屋根は銅板葺で、妻飾は虹梁大瓶束形式である。一階軸部は石製礎盤上に円柱を建て、貫、長押、虹梁型頭貫で固め、台輪を廻す。二階の円柱は一階小屋梁上に建て、貫・長押で固め、柱を建登らせて桁を受ける。組物は、一階は出組、二階は尾垂木付二手先とし、二階組物では肘木を柱に鼻栓差しとし、尾垂木も柱に水平に差し、鼻先を斜材状に造り出して雲紋を彫る。一・二階とも軒支輪を廻し、軒は一階が二軒繁垂木で、二階は二軒扇垂木とする。また、二階四周に擬宝珠高欄付の切目縁を廻す。柱間は、一階棟通り中央間に桟唐戸を吊り、両脇間を連子窓、両側面を板壁とし、二階側廻りには格子付板戸を吊る。 神幸門と還御門は、ともに嘉永元年(一八四八)に上棟された四脚門で、切妻造、銅板葺である。親柱は円柱、控柱は角柱とし、貫・腰長押と絵様付頭貫で固める。柱上の出三斗に絵様虹梁を重ね、さらに笈形付大瓶束や蟇股を配して華やかな意匠とする。両門は、主として重要無形民俗文化財「阿蘇の農耕祭事」の一つである「御田祭り」で使用されている。これは、神輿を含む神幸行列が神幸門から出発し、お仮屋や集落内を巡って豊作を祈願し、還御門から阿蘇神社に帰還するという祭りである。 屋根は、各建物とも建立当初はこけら葺であったが、明治末期から大正初期に順次檜皮葺となり、さらに昭和四八年から五一年に銅板葺に改められている。 阿蘇神社の江戸再興社殿は、中世の社頭景観の偉容再現を目指すという宿願のもと、細川藩の全藩的事業として遂行された。左右対称に展開する社殿配置はそれを具現したものであり、造営経緯や大工名が明らかであることも価値が高い。これらの社殿は、いずれも規模が大きく、また、社殿の随所に施された彫刻は、上質で、江戸末期の時代的特徴をよく現している。さらに建登せ柱と挿肘木を用いて軸部を固めるなどの技法的創意もみられ、のちに藩御用大工となる棟梁水民元吉の高い力量を示している。 【参考文献】 『阿蘇神社建造物調査報告書』阿蘇市教育委員会・阿蘇神社、二〇〇六年
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附名称
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棟札
附員数
:
2枚1組