国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧玉名干拓施設
ふりがな
:
たまなかんたくしせつ
棟名
:
末広開潮受堤防
棟名ふりがな
:
すえひろびらきしおうけていぼう
旧玉名干拓施設末広開潮受堤防
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員数
:
1所
種別
:
近代/産業・交通・土木
時代
:
大正
年代
:
大正6頃/昭和4頃
西暦
:
1917/1929
構造及び形式等
:
石造堤防、延長1296.8m
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02561
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2010.06.29(平成22.06.29)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
熊本県
所在地
:
熊本県玉名市大浜町字末広開、同市横島町横島字神崎尻、同市横島町横島字明豊開、同市横島町横島字大豊
保管施設の名称
:
所有者名
:
玉名市
所有者種別
:
市区町村
管理団体・管理責任者名
:
旧玉名干拓施設末広開潮受堤防
解説文:
詳細解説
旧玉名干拓施設は、明治20年代以降に築かれ、大正期及び昭和初期に発生した潮害後に、熊本県を中心として復旧、改造された海面干拓施設である。
施設は、末広開、明丑開、明豊開及び大豊開の4所の潮受堤防がほぼ連続的に築かれ、総延長5.2kmに及ぶ。また末広開と明丑開の潮受堤防の間に、樋門が3所築かれている。
旧玉名干拓施設は、干拓地としてわが国有数の面積を誇る有明干拓地の中で、近代を代表する大規模建造物として価値が高い。また、潮害を克服するために駆使された数々の技術は、大正期・昭和初期におけるわが国の干拓地建設技術を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
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旧玉名干拓施設末広開潮受堤防
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旧玉名干拓施設末広開潮受堤防
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解説文
旧玉名干拓施設は、明治20年代以降に築かれ、大正期及び昭和初期に発生した潮害後に、熊本県を中心として復旧、改造された海面干拓施設である。 施設は、末広開、明丑開、明豊開及び大豊開の4所の潮受堤防がほぼ連続的に築かれ、総延長5.2kmに及ぶ。また末広開と明丑開の潮受堤防の間に、樋門が3所築かれている。 旧玉名干拓施設は、干拓地としてわが国有数の面積を誇る有明干拓地の中で、近代を代表する大規模建造物として価値が高い。また、潮害を克服するために駆使された数々の技術は、大正期・昭和初期におけるわが国の干拓地建設技術を知る上で重要である。
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詳細解説
旧玉名干拓施設 七所 末広開潮受堤防、明丑開潮受堤防、明豊開潮受堤防、大豊開潮受堤防、末広開東三枚戸樋門、末広開西三枚戸樋門、末広開二枚戸樋門 旧玉名干拓施設は、有明海に注ぐ菊池川の河口から東方に広がる海面干拓施設である。 旧玉名干拓施設は、耕地及び宅地の造成を目的として、有志によって明治二〇年代から四〇年代にかけて有明海の干潟に築かれ、大正三年、同八年及び昭和二年の潮害後に復旧、改造された潮受堤防及び排水樋門からなる。各災害復旧事業は、大正三年の潮害後に新たに組織された耕地整理組合を事業主体として、熊本県の設計により進められた。大正三年潮害災害復旧工事の当初設計は、熊本県技手豊田哲夫(明治四三年第五高等学校工学部土木学科卒)が担当し(『熊本県潮害誌』(熊本県 一九一八年)による。)、大正五年から七年にかけては、わが国の農業土木技術の発展に寄与した牧隆泰(大正二年東京帝国大学農科大学農学科卒)が熊本県技師として工事に携わっている(『農業土木に生きた八十年誌』(牧隆泰 一九七一)による。)。また、昭和二年潮害の災害復旧事業は、地方農林技師久原友一が所長を務めた熊本県高瀬災害復旧耕地事務所(当初、横島村耕地整理事務所)を中心として進められた(『昭和貳年熊本県潮害誌』(熊本県 一九三三年)による。)。 その後、有明海岸の第一線堤防の施設として、干拓地を潮害から守ってきたが、昭和四二年に新たな干拓施設が海側に建設されたことに伴いその役割を終え、今は文化財として保存管理が図られている。 施設は、菊池川河口から東方に向かいほぼ連続的に築かれた末広開潮受堤防、明丑開潮受堤防、明豊開潮受堤防及び大豊開潮受堤防と、末広開潮受堤防と明丑開潮受堤防の間に築かれた末広開東三枚戸樋門、同西三枚戸樋門及び同二枚戸樋門からなる。 末広開潮受堤防は、全体が緩やかに湾曲する、延長一、二九六・八メートルの石造堤防で、人造石工法を用いて安山岩及び砂岩を上下二段に積み上げた石垣を海側に築く。平成一九・二〇年度の調査において、現堤防の石垣から約一・五メートル内側に空積石垣の存在が確認されており、大正三年の潮害後の復旧範囲が末広開潮受堤防のほぼ全域にわたった点も考えあわせると、現堤防は大正三年の潮害後に新設されたと推定される。 明丑開潮受堤防は、全体が緩やかに湾曲する、延長一、五〇〇・五メートルの石造及びコンクリート造堤防である。人造石工法を用いて安山岩及び砂岩を積上げた表石垣に鞘石垣を施し、表石垣頂部には波返しをつける。規模、建設技術及び前掲『昭和貳年熊本県潮害誌』の記述から判断して、現堤防は末広開潮受堤防と同様に大正三年の潮害後に新設されたと推定される。具体的には、大正五年四月一〇日に潮止工事が終了し(大正五年四月一二日付九州日日新聞による。)、翌年一〇月二四日に災害復旧工事の竣工式が執り行われていることから(大正六年一〇月二六日付九州日日新聞による。)、この間に完成したものと推定される。 明豊開潮受堤防及び大豊開潮受堤防は、ほぼ直線状に築かれた、延長一、七一六・三メートル及び七一六・七メートルの石造及びコンクリート造堤防である。表石垣は、安山岩を練積して築き、頂部には波返しをつける。 いずれの堤防も、石垣の背面は盛土し、法尻に腰石垣を設けるつくりとする。また、前掲『昭和貳年熊本県潮害誌』によると、現堤防は昭和四年の竣工である。 末広開東三枚戸樋門及び末広開西三枚戸樋門は、末広開と明丑開の境界を流れる明辰川の排水を主な目的として建設された。延長六・九メートル及び七・二メートルで、東三枚戸樋門では安山岩及び溶結凝灰岩、西三枚戸樋門ではコンクリートを用いて、それぞれ三連の門形通水部を設ける。東三枚戸樋門は、目地への漆喰の使用と、直方体の石材を組み合わせて門形とする構法から判断して、通水部に明治期の躯体を残し、西三枚戸樋門については、旧来の形式を踏襲しながら、コンクリートを用いて昭和二年潮害後に作り替えられたと推定される。 末広開二枚戸樋門は、末広開からの溢水の排出を主な目的として建設された、延長五・四メートルの石造樋門で、安山岩及び溶結凝灰岩を主に用いて、二連の門形通水部を設ける。門扉設置面の梁の陰刻から、明治四一年の建設が判明する。 いずれの樋門も、通水部を二重に設ける特殊な構造とし、門扉はいずれも招戸式とする。 旧玉名干拓施設は、干拓地としてわが国有数の面積を誇る有明海干拓地の中で、近代を代表する大規模建造物として価値が高い。また、人造石工法の使用、波返しの設置、樋門通水部の二重構造など、潮害を克服するために駆使された技術は、大正期・昭和初期におけるわが国の干拓地建設技術を知る上で重要である。 【参考文献】 『熊本県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』(熊本県教育委員会 一九九九年)