国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
平安神宮
ふりがな
:
へいあんじんぐう
棟名
:
大極殿
棟名ふりがな
:
だいごくでん
平安神宮 大極殿
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員数
:
1棟
種別
:
近代/宗教
時代
:
明治
年代
:
明治28
西暦
:
1895
構造及び形式等
:
木造、建築面積403.96平方メートル、入母屋造、本瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02566
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2010.12.24(平成22.12.24)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
(三)歴史的価値の高いもの
所在都道府県
:
京都府
所在地
:
京都府京都市左京区岡崎入江町、岡崎西天王町
保管施設の名称
:
所有者名
:
平安神宮
所有者種別
:
神社
管理団体・管理責任者名
:
平安神宮 大極殿
解説文:
詳細解説
平安神宮の建築は、明治28年、平安遷都千百年紀念祭・第4回内国勧業博覧会の会場施設として平安宮大極殿院を模して計画された。並行して背後に桓武天皇を祀る本殿が建てられ、竣工とともに神社施設とされた。
全国からの募金により建設され、設計は宮内省技師木子清敬及び帝国大学大学院生伊東忠太、施工は清水組による。
平安神宮の建築は、古代建築の知見と京都の建築技術を集積し、古代を指向した独特の建築空間を形成し、高い意匠的価値が認められる。また、京都の建築的伝統を支えた事業のひとつとして、歴史的にも重要である。
関連情報
(情報の有無)
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なし
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平安神宮 大極殿
平安神宮 大極殿(内部)
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平安神宮 大極殿
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平安神宮 大極殿(内部)
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解説文
平安神宮の建築は、明治28年、平安遷都千百年紀念祭・第4回内国勧業博覧会の会場施設として平安宮大極殿院を模して計画された。並行して背後に桓武天皇を祀る本殿が建てられ、竣工とともに神社施設とされた。 全国からの募金により建設され、設計は宮内省技師木子清敬及び帝国大学大学院生伊東忠太、施工は清水組による。 平安神宮の建築は、古代建築の知見と京都の建築技術を集積し、古代を指向した独特の建築空間を形成し、高い意匠的価値が認められる。また、京都の建築的伝統を支えた事業のひとつとして、歴史的にも重要である。
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詳細解説
平安神宮 六棟 大極殿、東西歩廊(二棟)、蒼龍楼、白虎楼、應天門 平安神宮の建築は、明治二八年、平安遷都千百年紀念祭、ならびに第四回内国勧業博覧会が開催されるにあたり、紀念殿建築と称する会場施設として平安宮大極殿院を模して計画された。並行して、紀念殿建築の背後に桓武天皇を祀る社殿(本殿)を建てることとなり、紀念殿建築は、大極殿を拝殿に相当する建物として、神社の施設とすることとなった。 紀念殿建築は、平安遷都千百年紀念祭協賛会が事業主体となり、全国からの募金によって建設され、設計は、宮内省内匠寮技師の木子清敬(一八四五~一九〇七)、及び帝国大学(現在の東京大学工学部建築学科)大学院生伊東忠太(一八六七~一九五四)、施工は清水組により、明治二八年三月に竣工した(竣工は記録による)。 このとき建てられた一連の建物は、昭和五八年六月一日付で京都市指定有形文化財に指定されている。平安神宮の本殿は、昭和一五年孝明天皇合祀の際に建替えられ、昭和五一年焼失し、その後、再建された。明治二八年建立の本殿は、昭和一五年に長岡天満宮に祝詞舎とともに移築され現存している。また、昭和三年建築の大鳥居と昭和一五年建築及び移築された境内の主な建物一四件は、平成一四年八月二一日付で、登録有形文化財に登録されている。 紀念殿建築は、鴨川東岸、岡崎の丸太町通と冷泉通の間に建ち、敷地中央やや北寄りに大極殿が南面して建ち、その東西に東歩廊、西歩廊が鉤の手に延び、それぞれ蒼龍楼、白虎楼に達し、前庭を介して、大極殿の南方に軸線を合わせて應天門を配する。現在の平安神宮の境内地は、平安神宮神苑として昭和五〇年一二月一〇日付で名勝指定されている。 当初の紀念殿建築の計画案は、裏松固禅(光世、一七三六~一八〇四)の『大内裏図考証』付図にみえる平安宮朝堂院の配置を範としたものであった。しかし、敷地と予算等の制約から計画は何度か変更され、その都度規模を縮小して実施案に至った。木子と伊東は、『建築雑誌』八七号等の「紀念殿建築説」において、その設計は四次の推移を経たと述べている。 大極殿は、基壇上に建ち、木造、入母屋造、本瓦葺、建築面積四〇四・〇平方メートルである。桁行一一間(三三・三メートル)、梁間四間(一二・一メートル)で、基壇周囲には高欄を設け、正背面の各三箇所、また左右には歩廊からの石積階段を付す。 平面は、正面を開放とし、両側面第二間と本殿に面する背面中央九間に扉を吊り、そのほかは土壁とする。また、東側と西側に間仕切を設け、各二室をつくる。現在の間仕切は後補であるとみられ、当初は吹放しであったと考えられるが、いつ間仕切られたかは詳かではない。 軸部は、母屋柱、庇柱ともに円柱とし、庇柱は、内法貫、頭貫で固め、尾垂木付の三手先斗栱を載せ、母屋中備は撥束を二段に立てる。母屋柱は、小屋組まで立て登らせて、貫、長押で固め、庇柱と虹梁で繋ぐ。内部は挿肘木による出組で大虹梁を受け、大虹梁上に豕扠首を組み、大斗舟肘木で化粧棟木を支える。天井は、母屋、庇とも化粧屋根裏とする。 小屋は、丸桁、地軒、飛檐軒を各々登り梁などで桔ね上げ、その上に和小屋を組み、貫と根がらみ、筋違で補強する。軒は、円垂木の二軒繁垂木で、妻飾は虹梁豕扠首とする。 設計にあたり、伊東忠太は唐招提寺金堂を実測する一方、天井を張らず化粧屋根裏とし、母屋柱を立て登せ柱としており、軸組において、高度に発展を遂げていた伝統的木工技術を駆使して、古代建築を指向した外観構成と広壮な内部空間の創出に成功している。 東西歩廊は、二棟とも桁行延長五一・二メートル、梁間三・九メートルの規模で、木造、切妻造、本瓦葺である。複廊形式になり、棟通りに連子窓、板扉を入れ、廊下は吹放しとする。軸部は円柱を貫で固め、軒は円垂木の二軒繁垂木とする。 東の蒼龍楼、西の白虎楼は、ともに基壇上に建ち、木造二階建、入母屋造、下層小楼四基付、本瓦葺、建築面積九七・〇平方メートルである。両楼下層は、桁行、梁間ともに九・八メートル四方で、下層の四注屋根の上に中央と四隅に入母屋造の五つの楼を載せる。 軸部は、柱を礎石上に立て、庇柱は内法貫と頭貫で、母屋柱は地覆、上下長押、飛貫と頭貫で固める。組物は、庇部分を出組とし、母屋内部は二手先肘木の先端で、中央楼の土居桁を受ける。中央楼の柱は、この土居桁に載せ、貫で固めて、腰組付の縁高欄を廻らせ、さらに上方にも二手先腰組の高欄を廻らす。また隅楼は、庇柱上の土居桁と登り梁の上に載る。隅行肘木で縁高欄を受け、軒は二段の通肘木で支える。 いずれも軒は円垂木の二軒繁垂木で、妻飾は豕扠首とする。 両楼の詳細設計については、のちに帝室技芸員となる大工佐々木岩次郎(一八五三~一九三六)が担当し、造形、構造上の課題を克服して、優れた意匠をもつ立面構成を実現している。 應天門は、平安神宮の正門として、大極殿南の基壇上に建つ五間三戸の大型の二階二重門で、建築面積一三二・二平方メートル、入母屋造、本瓦葺である。上下層とも桁行五間、梁間二間とし、中央三間に板扉を吊る。 軸部は、下層では内部柱を小屋まで立て登らせ、側柱は内法貫と頭貫で固め、出組をおいて格天井を張る。上層では下層小屋組の登り梁上に柱を立て、内部柱は下層同様に立て登らせる。組物は尾垂木付二手先斗栱とし、中備は撥束とする。内部は板敷で、前後に各三箇所、左右妻に各一箇所板扉を吊り、その他は連子窓とする。天井は鏡天井を張る。軒は上下層とも円垂木の二軒繁垂木とし、妻飾は豕扠首である。 平安宮應天門に着想を得た形式と配置を有し、逓減率の大きな立面を実現している。 各建物は、壁面は漆喰仕上で、連子の緑青のほかは総丹塗とし、屋根は、釉薬瓦で葺き、棟上に鴟尾を上げる。 大極殿と應天門の間の前庭には、ほぼ中央に龍尾壇石積が東西に延びて前庭を二分する。石積の上には漆塗の跳高欄を据え、四所に石段を設ける。 平安神宮の大極殿、東西歩廊、蒼龍楼、白虎楼、應天門は、平安宮建築及び古代建築等に係る学術的知見と京都における発展した木造伝統建築技術を集積して、古代を指向した独特の建築空間を形成しており、意匠的価値が高い。また、これらの建物の造営は、京都の復興を象徴する国民的事業であり、近代における京都の建築的伝統の継承を支えた事業のひとつとして、歴史的にも重要である。 【参考文献】 『平安神宮百年史』(平安神宮百年史編纂委員会 一九九七年) 『京都府近代和風建築総合調査報告書』(京都府教育委員会 二〇〇九年)
関連情報
附指定
龍尾壇石積
彩色図面
関連情報
附指定
附名称
:
龍尾壇石積
附員数
:
1所
関連情報
附指定
附名称
:
彩色図面
附員数
:
22枚