国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧村山家住宅
ふりがな
:
きゅうむらやまけじゅうたく
棟名
:
洋館
棟名ふりがな
:
ようかん
旧村山家住宅 洋館
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員数
:
1棟
種別
:
近代/住居
時代
:
明治
年代
:
明治42年
西暦
:
1909
構造及び形式等
:
煉瓦造及び木造、建築面積226.11平方メートル、2階建、地下1階、寄棟造、銅板葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02575
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2011.06.20(平成23.06.20)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
兵庫県
所在地
:
兵庫県神戸市東灘区御影郡家二丁目12番1号
保管施設の名称
:
所有者名
:
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
旧村山家住宅 洋館
解説文:
詳細解説
旧村山家住宅は、朝日新聞社を創業した村山龍平の自邸で、六甲山南麓の広大な敷地に洋館や書院棟などを配置している。
洋館は明治41年の上棟で、外観をハーフ・ティンバー式とし、内部は様々な洋風意匠を融和させて華やかに飾る。書院棟は大正7年上棟の大型和風建築で、三階を望楼とするなど複雑な立面構成をもち、内部には広大かつ優美な意匠の大広間を備える。また茶室棟は明治44年上棟の茶室玄庵を中心とした瀟洒な建築である。
旧村山家住宅は、阪神間に展開した邸宅群の先駆をなした大規模住宅で、優れた意匠をもつ洋館と、書院棟、茶室棟などの和風建築が一体的かつ極めて良好に保存されており、高い価値が認められる。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
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旧村山家住宅 洋館
旧村山家住宅
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旧村山家住宅
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解説文
旧村山家住宅は、朝日新聞社を創業した村山龍平の自邸で、六甲山南麓の広大な敷地に洋館や書院棟などを配置している。 洋館は明治41年の上棟で、外観をハーフ・ティンバー式とし、内部は様々な洋風意匠を融和させて華やかに飾る。書院棟は大正7年上棟の大型和風建築で、三階を望楼とするなど複雑な立面構成をもち、内部には広大かつ優美な意匠の大広間を備える。また茶室棟は明治44年上棟の茶室玄庵を中心とした瀟洒な建築である。 旧村山家住宅は、阪神間に展開した邸宅群の先駆をなした大規模住宅で、優れた意匠をもつ洋館と、書院棟、茶室棟などの和風建築が一体的かつ極めて良好に保存されており、高い価値が認められる。
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詳細解説
旧高橋家住宅 七棟 主屋、蔵座敷、土蔵、東板倉、西板倉、金庫蔵、表門、土地 旧村山家住宅は、朝日新聞社を創業した村山龍平の自邸で、六甲山南麓の阪急御影駅東方に所在する。自然の起伏を活かした広大な敷地の南半中央に書院棟を建て、書院棟東側に洋館及び玄関棟、北側に茶室棟を配置して、各々渡廊下で接続する。また玄関棟背面に衣装蔵と美術蔵を建てる。これらの建物は、平成一〇年九月二日付で登録有形文化財となった。 洋館は明治四一年六月上棟で、翌年二月頃に竣工したとみられる。一階及び地階を煉瓦造、二階を木造とし、建築面積二二六・一一平方メートル、寄棟造、銅板葺で、小屋組は洋小屋と和小屋を併用する。 設計は河合幾次(一八六四~一九四二)、施工は竹中工務店である。河合は明治二五年に帝国大学工科大学造家学科を卒業し、逓信省技師などを経て、大阪で河合建築工務所を開設した。旧八百津発電所施設発電所本館(明治四四年 重要文化財)などの設計を手がけ、関西における初期フリーアーキテクトのひとりとして知られる一方で、事業家としても活躍した。 外部意匠は、地階はいわゆるドイツ壁、一階は石積風モルタル仕上げとし、車寄南面にイオニア式ペアコラムで支持する三連アーチ窓を穿ち、二階はハーフティンバー式で煙突部を装飾タイルで飾る。 平面は、一階東面に車寄と玄関を構え、南側に客室と食堂、北側に階段室を配する。二階は、南面中央に居間、東面に南からヴェランダ、寝室、化粧室を、西面に一〇畳二間を配する。地階は浴室のほか、使用人室、倉庫などとする。 内部意匠は、一階客室では、床を寄木張、天井は網代張格天井とし、食堂は同じく寄木床張とするが、天井は漆喰装飾で飾る。また両室ともバロック風意匠の木製マントルピースを設けるなど、華やかな室内意匠とする。 二階居間は、床は寄木張で天井は大型の円形飾りを中心に四分割した格天井を張る。またマントルピースには、家具と統一された竹林の図柄が浮彫りされ、独特で洗練された意匠になる。 階段室は、コの字形の階段に面して、二階にアーケードの廊下を廻らして開放的な構成とし、窓にはアール・ヌーヴォー意匠のステインドグラスを飾る。 ヴェランダは東南面に窓を開け、床は灰色大理石張、天井は漆喰塗とし、柱頭や柱礎を象った装飾をもつ柱や腰パネルをペンキ塗とする。 二階和室は、南室を主室として間口一間半の床と床脇を備え、次の間との境に月字くずしの欄間を入れる。また主室南面と西面は障子窓の外側に洋風の出窓を設け、次の間は北西面に縁を廻らす。 書院棟は大正七年の上棟で、木造三階建、一部地下一階、建築面積三四四・三八平方メートル、入母屋造及び寄棟造、桟瓦葺及び銅板葺である。南面と西面は懸造とし、また屋根には入母屋破風や庇を重層させ、三階を望楼とするなど、非対称で複雑な立面を構成する。 一階平面は、西から二八畳の主室、一九畳の次の間とし、南北面に畳廊下を配して、さらに南西面に縁を廻らす。次の間の東側には、畳廊下を介して九畳と台所、六畳など内向きの部屋や、平床を備えた三畳半、浴室などを配する。 一階軸部は、栂の良材を用いており、主室と次の間では柱を内法長押と蟻壁長押で固め、天井は唐戸面取した吹寄格縁の格天井を張る。主室では西面に四畳大の床と一間幅の花頭窓、南面に一畳半の付書院を備え、また次の間は二畳大の地袋をつくり、さらに室境には三十六歌仙の扁額を連ねた欄間を飾るなど、広大な座敷でありながら、優美で繊細な意匠になる。 北東側の階段室は、幾何意匠の擬宝珠高欄風の手摺を付け、片流れの天井を数寄屋風につくる。 二階は、階段室から南にのびる畳廊下の西側に一二畳半の主室と六畳の次の間を並べ、東側に九畳、八畳、六畳の三室を雁行させる。 主室は西面に床と床脇を配し、床脇には天袋と筋違に地袋を備え、南面に付書院を設ける。天井は棹縁天井で、室境には蔦紋の透彫欄間を飾る。東側の九畳と八畳は、ともに床を備え、九畳では南東面に縁を廻らし、上座に網代天井、下座に掛込天井を張る。また八畳では杉なぐり仕上げの棹縁を渡し、趣を変える。 三階は八畳大の望楼で、南西方に眺望を得て瀬戸内海を望む。天井は中央を鏡天井とし、畳大の砂摺杉柾板を張る。 玄関棟は書院棟と同時期の建築とみられ、木造平屋建、一部地下一階、建築面積一七八・六六平方メートル、入母屋造、桟瓦葺で、正面に唐破風造檜皮葺の車寄を突出する。背面の南北廊下で洋館と接続し、途中に美術蔵への開口部を設ける。また北西隅から渡廊下を西にのばし、書院棟に接続する。 平面は、正面中央に式台を構え、その奥の取次の南北に三畳と六畳を配する。取次は棹縁天井で、西面から南面にかけて長大な地袋を設ける。 車寄は軒の深い唐破風造で、両脇に出格子を付けた左右対称の構えとする。軸部は角柱上の舟肘木で桁を受け、妻に蟇股を置く。また式台に舞良戸を建て、天井は格天井である。 茶室棟は、茶室玄庵及び香雪を、書院棟から北へ折曲りにのばす渡廊下で繋ぎ、廊下北端の東側に玄関及び待合、西側に寄付を配する。また寄付西側に露地を介して腰掛待合と砂雪隠を配する。 玄庵以北の各棟は明治四四年の上棟で、また玄庵と書院棟とを繋ぐ渡廊下と香雪は、書院棟と同じ大正七年頃の普請とみられる。 玄庵は、燕庵写しの相伴席付三畳台目茶室で、木造平屋建、西面入母屋造、茅葺である。東面を上手として床を備え、北面西側に躙口を開き、床の裏手を水屋とする。天井は上座から手前座まで蒲天井を張り、下座は掛込天井とする。 香雪は四畳半の茶室で、木造平屋建、切妻造、桟瓦葺とし、銅板葺の庇を廻らす。内部は西面に床を構え、北に躙口を開き、上座を平天井、下座を掛込天井とする。水屋及び踏込は、三角形平面を呈する。 衣装蔵は明治四五年の建築とみられ、東西六・三メートル、南北四・五メートル、鉄筋コンクリート造二階建、陸屋根で、屋上に石柵形のパラペットをつくる。上下階とも、内部は一室で南面西側を出入口とし、洋館の一階及び地階と接続する。 美術蔵は大正七年頃の建築とみられ、桁行九・三メートル、梁間七・五メートル、鉄筋コンクリート造三階建、切妻造、桟瓦葺で、棟両端に鴟尾を上げ、妻飾の上下にアカンサス彫刻と懸魚を飾る。一階はピロティで南西隅に居室をつくり、二・三階を収蔵庫とし、二階東面を出入口とする。 旧村山家住宅は、明治から大正期にかけて阪神間で発展した邸宅群の先駆をなした、和洋館が併立する大規模住宅である。洋館は、ハーフティンバーやバロック風など様々な様式を駆使しながら、これらを巧みに融和させて内外ともに華やかに装飾する大型の建築であり、和館部は、洗練された和風意匠になる書院棟と玄関棟などが、一体的かつ極めて良好に保存されており、価値が高い。また、書院棟周囲の林泉や茶室棟にいたる露地などが、丘陵地形に巧みに配置されて優れた風致を創出しており、土地とともに保存をはかる。 【参考文献】 中村昌生「名邸村山邸」(『和風建築シリーズ4 玄関』 建築資料研究社 一九九八年) 『兵庫県の近代化遺産』(兵庫県教育委員会 二〇〇六年)