国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
清風荘
ふりがな
:
せいふうそう
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
おもや
清風荘 主屋(左)、離れ(右)
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員数
:
1棟
種別
:
近代/住居
時代
:
大正
年代
:
大正元年
西暦
:
1912
構造及び形式等
:
木造、建築面積323.75㎡、一部2階建、寄棟造、桟瓦葺一部こけら葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02585
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2012.07.09(平成24.07.09)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
京都府
所在地
:
京都府京都市左京区田中関田町
保管施設の名称
:
所有者名
:
国立大学法人京都大学
所有者種別
:
法人
管理団体・管理責任者名
:
清風荘 主屋(左)、離れ(右)
解説文:
詳細解説
清風荘は鴨川の東、今出川通の北側に所在する。西園寺公望の京都私邸として住友家が建設したもので、大正元年に主屋が完成し、大正3年までに附属の建物が整えられた。
敷地の西半に主屋を中心として建物を配し、東に離れ、北に土蔵と納屋、附属屋、南に茶室、西に正門を設ける。主屋は各部屋を大小の中庭を介して接続し、二階座敷からは東山を望む。いずれの建物も上質の数寄屋建築で、私邸らしい落ち着いた室内意匠である。設計は住友家出入りの八木甚兵衛(二代)により、茶室や供待などを数寄屋大工の上阪浅次郎が手掛けた。
清風荘は、端正な意匠の数寄屋住宅であり、一体として整備された附属施設も残されており、近代和風建築の精華の一つとして重要である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
清風荘 主屋(左)、離れ(右)
清風荘 主屋
清風荘 主屋 内部
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清風荘 主屋(左)、離れ(右)
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清風荘 主屋
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清風荘 主屋 内部
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解説文
清風荘は鴨川の東、今出川通の北側に所在する。西園寺公望の京都私邸として住友家が建設したもので、大正元年に主屋が完成し、大正3年までに附属の建物が整えられた。 敷地の西半に主屋を中心として建物を配し、東に離れ、北に土蔵と納屋、附属屋、南に茶室、西に正門を設ける。主屋は各部屋を大小の中庭を介して接続し、二階座敷からは東山を望む。いずれの建物も上質の数寄屋建築で、私邸らしい落ち着いた室内意匠である。設計は住友家出入りの八木甚兵衛(二代)により、茶室や供待などを数寄屋大工の上阪浅次郎が手掛けた。 清風荘は、端正な意匠の数寄屋住宅であり、一体として整備された附属施設も残されており、近代和風建築の精華の一つとして重要である。
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詳細解説
清風荘 一二棟 清風荘は鴨川の東、今出川通の北側に位置する。敷地はもとは徳大寺家の下屋敷「清風館」が営まれていた。明治四〇年に住友家一五代吉左衛門友純が徳大寺家から譲り受け、実兄である西園寺公望の京都別荘として整備したもので、明治四三年に着工、大正元年に主屋が竣工し、西園寺により「清風荘」と命名された。続いて、清風館時代の茶室と供待を曳家修繕、土蔵、附属屋、正門などを完成、大正三年に離れを竣工している。 その後、昭和初期には離れが南方へ曳家され、昭和六年に今出川通の開通で敷地が分断され、現在の敷地規模となった。昭和一九年に住友家から京都帝国大学に寄贈された。 敷地の西辺やや北寄りを生垣で枡形状に区切り、北を正面にして正門を開く。正門東の主屋は西面に玄関を設け、東に離れが接続する。主屋の北には東から土蔵、納屋が並び、敷地北西隅には附属屋と詰所がある。正門の南方に第一中門を設け、園路を南へ進むと袴付及び待合があり、北東の第二中門を経て茶室と供待に至る。敷地の南東には池を中心とした庭園が広がる。主屋、離れなどは二代八木甚兵衛の設計で、茶室周りは上阪浅次郎が、附属屋、詰所は磯村彌太郎が担当した。作庭は七代小川治兵衛による。 清風荘は、敷地全体が「清風荘庭園」として昭和二六年六月九日付けで名勝に指定されている。主屋、離れ、土蔵、附属屋、納屋、茶室、供待、袴付及び待合、第一中門、第二中門、正門の一一件は平成一九年五月一五日付けで登録有形文化財(建造物)となっている。 主屋は木造、平屋建一部二階建、建築面積三二二・一四平方メートル、寄棟造、桟瓦葺で、軒先や庇の一部をこけら葺とする。大小の中庭を囲んで棟を廻らせ、西の中庭の周りには、西に玄関部、南に「客間」、東に「居間」、北に「台所」を配す。台所の東に「風呂場」、「洗面所」、「脱衣室」を並べ、居間との間を北の中庭とする。脱衣室の東は「女中部屋」とする。居間部は二階建とする。全体に内法長押を略した数寄屋風の造作である。 玄関部は、「玄関」四畳半の南に「応接室」四畳半が並び、玄関北に「執事室」四畳半が付く。 客間は八畳の西に次の間六畳が付く。南から東に廻らせた縁には大判のガラス面を用いた打込障子を建込み、庭園景観を取入れる。天井は笹杢板の棹縁天井とする。八畳北面のトコは八尺幅で、磨丸太のトコ柱、皮付丸太の落掛で、西のトコ脇は、せいの低い地袋として伸びやかな意匠である。次の間境には菊菱透彫の欄間を入れる。 居間は八畳の北に次の間六畳が付く。南から東に廻らせた半間幅の土庇が深い軒の出をつくる。天井は笹杢板の棹縁天井とする。八畳西面のトコは一間幅の板ドコで、北のトコ脇は棚板の下にせいの高い地袋を収める。 居間二階は八畳の北に次の間六畳が付く。南縁は狭く、肘掛窓とするのに対し、東縁はガラス障子で東山の眺望を楽しむ趣向である。天井は笹杢板の棹縁天井とする。八畳西面のトコは一間幅で、皮付丸太のトコ柱とし、北のトコ脇は天袋のみとする。二階北東には便所を設ける。 離れは木造、二階建、建築面積一〇八・七三平方メートル、寄棟造、桟瓦葺で、南面の軒先と庇をこけら葺とする。主屋の北の中庭から矩折れの渡廊下で接続し、西端に階段を設ける。 離れ一階は八畳の西に次の間六畳が付く。南側に縁を設け、大判ガラスの打込障子を建込む。天井は柾目板の棹縁天井とする。八畳東面の一間幅の板ドコはトコ柱を絞丸太、蹴込を磨丸太とし、北のトコ脇は地袋と窓とする。次の間境の欄間は、裏千家寒雲亭に倣った櫛形欄間とする。八畳の北に三畳、次の間の北に四畳の小部屋が付く。 離れ二階は一〇畳の西に次の間四畳が付く。南側の縁に大判ガラスの打込障子を建込み、南側の庭園を俯瞰する趣向である。一〇畳北面は、八尺幅の框ドコの西に地窓を開き、西端を琵琶棚とし、トコ柱を略して軽快である。次の間境の欄間は桐の心落ち板とする。次の間の北に四畳の小部屋が付く。 土蔵は、土蔵造、二階建、建築面積三六・九三平方メートル、切妻造、桟瓦葺で、南妻面の瓦葺下屋を蔵前とし、渡廊下で主屋に接続する。一階の北面と東面、二階の南面と北面に窓を開く。 附属屋は、木造平家建、建築面積一〇〇・七八平方メートル、寄棟造、桟瓦葺である。大小二住戸からなる管理者用の住宅である。東住戸は南面中央の玄関三畳の北に四畳半、西に六畳二部屋を南北に並べ、南北に縁が付く。玄関の東は台所や便所を配す。西住戸は南面東寄りの玄関土間に流しを置き、四畳半の北に便所を設ける。南西の一部屋は後の増築である。 詰所は、木造平家建、建築面積一四・五九平方メートル、寄棟造、桟瓦葺である。巡査詰所又は運転手室として設けられた。南面西半に玄関を設け、内部は六畳一部屋である。 納屋は、木造、平屋建、建築面積四〇・一三平方メートル、切妻造、桟瓦葺である。桁行を三分して東から六畳室、土間、八畳室が並び、西端に便所が付く。 茶室は、木造、平屋建、建築面積二六・一六平方メートル、切妻造、檜皮葺で、北の落棟は桟瓦葺、南面、東面、北面の庇は檜皮葺とする。清風館時代の安政二年(一八五五)の建築と伝え、「保真斎」の額を掲げる。四畳半の茶席は網代天井とし、西面の中央に皮付丸太のトコ柱を立て、北のトコ脇は三角の板棚とする。東面は一間幅の付書院で、南面は濡縁とする。北の落棟は東に玄関、西に水屋を配す。北の庇には腰掛がある。 供待は、木造、平家建、建築面積二二・二九平方メートル、入母屋造、檜皮葺で、西に便所が突出し、東面南端からこけら葺の渡廊下で茶室西面北端に接続する。清風館時代の建築と伝え、「閑睡軒」と呼ばれる。方一間半の建物で四周に濡縁を廻らせる。内部は三畳室の西面を押入とする。 袴付及び待合は、木造、平屋建、建築面積二一・二二平方メートル、北面入母屋造、南面切妻造、こけら葺で、北面は檜皮葺、南面下屋と西面の庇はこけら葺とする。北の三畳台目が袴付で、東面軒内に待合の腰掛を設け、南面下屋は便所とする。 第一中門は、北面して建つ薬医門で、間口一・五メートル、入母屋造、檜皮葺である。冠木上に天井を張り、軒は一軒疎垂木とする。門柱は皮付丸太、控柱や垂木はなぐり仕上とする。両開の板扉を吊込む。 第二中門は、南面して建つ腕木門で、間口一・一メートル、切妻造、杉皮葺の竹四つ目押えとする。門柱は丸太の掘立とし、南面の斜材で支える。桁、梁、棟木は丸太で仕口は精妙である。垂木は丸竹とする。両開の板扉を吊込む。 正門は、北面して建つ腕木門で、間口二・二メートル、切妻造、桟瓦葺で、東西に袖塀が付く。軒は一軒疎垂木とする。門柱は丸太で南面に控柱が立つ。両開の板扉は菊菱の透彫板で飾り、表側下半を割竹張とし、上部は菱格子欄間とする。袖塀は丸太柱で紐丸瓦を葺き、腰は割竹張とする。 清風荘は、端正な意匠の数寄屋造邸宅であり、吟味された良材と精緻な技術による近代和風建築の精華の一つである。主屋、離れや茶室は、近代的な庭園の眺めを巧みに取り入れ、私邸としての落ち着いたたたずまいを創出している。一体として整備された附属建物が良好に残されていることも貴顕の生活を伺わせて貴重である。 【参考文献】 『京都府の近代和風建築』(京都府教育委員会 二〇〇九年) 『史料からみた清風荘の建築』(京都大学名勝清風荘庭園整備活用委員会 二〇一一年)