国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧佐渡鉱山採鉱施設
ふりがな
:
きゅうさどこうざんさいこうしせつ
棟名
:
大立竪坑櫓
棟名ふりがな
:
おおだてたてこうやぐら
旧佐渡鉱山採鉱施設 大立竪坑櫓
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員数
:
1基
種別
:
近代/産業・交通・土木
時代
:
昭和
年代
:
昭和15年
西暦
:
1940
構造及び形式等
:
鋼製櫓、高さ13.9m、貯鉱庫付、コンクリート基礎及び鋼索用開口部附属、鉱車軌道及びチップラー三基含む
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02587
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2012.12.28(平成24.12.28)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
新潟県
所在地
:
新潟県佐渡市下相川、同相川宗徳町
保管施設の名称
:
所有者名
:
株式会社ゴールデン佐渡
所有者種別
:
法人
管理団体・管理責任者名
:
旧佐渡鉱山採鉱施設 大立竪坑櫓
解説文:
詳細解説
旧佐渡鉱山は、江戸幕府が開いた相川金銀山を端緒とし、明治時代に一時官営となった後、民間の経営により平成元年まで操業した、わが国を代表する鉱山のひとつである。
旧佐渡鉱山採鉱施設は、昭和13年の重要鉱物増産法に伴って整備された諸施設からなり、大立地区で竪坑を介して各坑道から集められた原鉱は、道遊坑及び高任坑を通って高任地区に運ばれ、粗砕場で破砕、選別された後、貯鉱舎に貯蔵された。
旧佐渡鉱山採鉱施設は、採鉱から製錬にいたる一連の工程のうち、採鉱にかかる施設が一体で残されており、昭和戦前期の鉱山施設の実像を知るうえで重要である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧佐渡鉱山採鉱施設 大立竪坑櫓
旧佐渡鉱山採鉱施設 高任地区
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旧佐渡鉱山採鉱施設 大立竪坑櫓
写真一覧
旧佐渡鉱山採鉱施設 高任地区
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解説文
旧佐渡鉱山は、江戸幕府が開いた相川金銀山を端緒とし、明治時代に一時官営となった後、民間の経営により平成元年まで操業した、わが国を代表する鉱山のひとつである。 旧佐渡鉱山採鉱施設は、昭和13年の重要鉱物増産法に伴って整備された諸施設からなり、大立地区で竪坑を介して各坑道から集められた原鉱は、道遊坑及び高任坑を通って高任地区に運ばれ、粗砕場で破砕、選別された後、貯鉱舎に貯蔵された。 旧佐渡鉱山採鉱施設は、採鉱から製錬にいたる一連の工程のうち、採鉱にかかる施設が一体で残されており、昭和戦前期の鉱山施設の実像を知るうえで重要である。
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詳細解説
旧佐渡鉱山採鉱施設 三基四棟一所 大立竪坑櫓、大立竪坑捲揚機室、道遊坑及び高任坑、高任粗砕場、高任貯鉱舎及びベルトコンベアヤード、電車車庫(機械工場)、間ノ山上橋、間ノ山下橋 旧佐渡鉱山は、佐渡島(さどがしま)の北側を東西に延びる大佐渡山地の西辺に位置する。江戸幕府の運営による相川金銀山を明治政府が引継いで近代化を図り、その後民間の経営となって平成元年まで操業した我が国を代表する鉱山の一つである。 相川金銀山は、慶長六年(一六〇一)に鶴子(つるし)銀山の山師によって開かれたと伝えられ、江戸時代を通じて幕府直轄の鉱山として繁栄した。明治二年、明治政府の鉱山国営化の方針により官営佐渡鉱山となり、外国人技師らの指導により組織と設備の近代化が図られた。明治二〇年代には金の産出量が横ばいとなったが、明治二九年に三菱合資会社に払下げられて以降再び産出量を増やし、昭和一三年施行の重要鉱物増産法に伴う設備投資によって各種鉱物の産出量が飛躍的に増大した。 旧佐渡鉱山採鉱施設は、採鉱から選鉱、精鉱を経て、製錬に至る鉱山業務のうち、採鉱に係る一連の建造物からなる。山間部を西流する濁(にごり)川(がわ)沿いに立地し、上流の大立地区に竪坑櫓と同捲揚機室、下流の高任地区に粗砕場と貯鉱舎及びベルトコンベアヤードが置かれ、大立地区と高任地区の間に道遊坑及び高任坑が開削される。これらの建造物は、重要鉱物増産法の施行を受けた増産体制に備えて新設または既存の施設を整備拡充したものである。高任地区の鉱山施設の入口には間ノ山上橋と間ノ山下橋がかかる。このほか、高任地区の道遊坑及び高任坑の坑口の前に電車車庫が残る。 大立竪坑櫓は、地下に複層する各坑道を縦に貫く竪坑内にケージを吊下げるためのもので、昭和一五年一〇月に完成した。南斜面の中腹に建ち、上層の櫓と下層の貯鉱庫に別れる。櫓はコンクリート基礎の上に鋼製ラチスの主脚四本を建て、最上部にケージを吊るすための滑車二基を備え、捲揚機室との間には鋼索を通すためのコンクリート造の開口部を開く。貯鉱庫は、櫓の南面下方に設置された鋼製の鉱倉で、岩盤の斜面に差掛けるかたちで造られる。上面を櫓のコンクリート基礎と高さを揃え、ケージにつながる鉱車軌道とチップラー(鉱車回転装置)三基を備える。 大立竪坑捲揚機室は、竪坑櫓とあわせて新設されたもので、昭和一五年九月に完成した。竪坑櫓の背面に開削された坑内の北側に鉄筋コンクリート造の建屋を建て、北西隅に切石積二重アーチの出入口を開く。建屋は建築面積二二一・八四平方メートル、南面に開いたアーチ状の主体部(機械室)と北西隅の附属部(配電室)からなり、主体部は東西二室に別れ、西側にケージを昇降させるための捲揚機一基、東側に坑内機械の動力となるコンプレッサー一基を備える。このほか室内には、コンプレッサーの空気圧を調整するレシーバー二基が残る。 道遊坑及び高任坑は、高任地区に坑口を開く運搬用の水平坑道である。このうち道遊坑は、全体が大立地区から高任地区まで一キロメートルに及び、佐渡鉱山における最大の運搬坑道であることから通洞坑とも称された。高任坑は、道遊坑の途中から分岐して高任地区に至り、南北に延びる尾根を挟み東西二ヶ所に坑口を開く。道遊坑は、坑口から二〇メートルを石造、その先一一〇メートルをコンクリート巻として半円アーチ形の断面に仕上げる。坑口は切石積の二重アーチである。高任坑は、二ヶ所の坑口の間をコンクリート巻として半円アーチ形の断面に仕上げる。坑口はコンクリート巻で、外周を自然石の擁壁とする。坑内は鉱車軌道が敷設され、坑外に延びて道遊坑口から粗砕場を経て高任坑口(西口)に至る。道遊坑及び高任坑は明治時代に開削されているが基本的に素掘であり、コンクリート造や石造で施工されたのは、各施設の整備拡充が図られた昭和一五年頃と考えられる。 高任粗砕場は、原鉱の破砕を行う施設で、昭和一二年に完成した。高低差二〇メートルの斜面に建ち、大きく六層に別れ、一部に地階を設ける。建築面積五四一・九八平方メートル、斜面を掘込んで設けたコンクリート基礎の上に鉄骨造の建屋を建て、一階と二階、六階にそれぞれ切妻造、波形スレート葺の屋根をかけ、三階と四階、五階にそれぞれ片流れ、波形スレート葺の屋根をかける。上層から下層へ原鉱を落としながら分級、破砕を行う仕組みで、最上層の六階に鉱車軌道とチップラー二基、三階に中型のジョークラッシャー一基、一階に大型のジョークラッシャーと小型のジョークラッシャー各一基を備える。 高任貯鉱舎及びベルトコンベアヤードは、粗砕場で処理した鉱石を貯蔵する施設で、昭和一三年に完成した。貯鉱舎は粗砕場の南側の一段低い敷地に建ち、北面に取付くベルトコンベアヤード内のベルトコンベアが地下を貫通して延び、粗砕場の地階に接続する。貯鉱舎は建築面積二四一・三三平方メートル、鉄筋コンクリート造の主体部(鉱倉)の上に鉄骨造の上屋を建て、切妻造、波形スレート葺の屋根をかける。鉱倉は内部を五つに分け、基部を高床状にして底面に鉱石搬出用のハッチを開き、フィーダー(給石機)を備える。ベルトコンベアヤードは延長三一・三メートル、鉄骨造、切妻造、波形スレート葺の橋廊状の建物で、貯鉱舎上屋と一体となり、内部に長大なベルトコンベア一基を備える。貯鉱舎内には、可動式のトリッパー(排出機)一基をベルトコンベアに附属する。 電車車庫は、木造、建築面積三三〇・六三平方メートル、切妻造、桟瓦葺で、南面に鉄板葺の下屋をつける。道遊坑から延びる鉱車軌道を屋内に引込み、転車台五基を備える。建設年代は昭和一五年頃と考えられる。 間ノ山上橋は、高任地区の西側を流れる濁川にかかる石橋である。橋長九・五メートル、幅員六・五メートルの単アーチ橋で、スパンドレルにはコンクリート普及以前に土木構造物に重用された「人造石工法」が採用される。建設年代は形式上、明治時代後期と考えられる。 間ノ山下橋は、上橋の三〇メートル下流に位置する石橋で、明治三七年一一月の完成である注一七。橋長一〇・三メートル、幅員三・四メートルの単アーチ橋で、橋中央から両岸に向けて広がる平面をもつ。スパンドレルには「人造石工法」が採用される。 旧佐渡鉱山採鉱施設は、我が国最大級の貴金属を産した佐渡鉱山にあって採鉱の基幹をなす施設がそろって残り、昭和戦前期における鉱山施設の構成を知る上で貴重である。また、重要鉱物増産法に伴って整備拡充が図られた建造物や機械類を良好に留めており、同鉱山施設の代表的遺構として歴史的に価値が高い。 【参考文献】「新潟県の近代化遺産」新潟県教育委員会、一九九四年 「旧佐渡鉱山近代化遺産建造物群調査報告書」佐渡市教育委員会、二〇〇八年