国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
富田林興正寺別院
ふりがな
:
とんだばやしこうしょうじべついん
棟名
:
本堂
棟名ふりがな
:
ほんどう
富田林興正寺別院本堂 外観
写真一覧▶
地図表示▶
解説表示▶
員数
:
1棟
種別
:
近世以前/寺院
時代
:
江戸前期
年代
:
寛永15
西暦
:
1638
構造及び形式等
:
桁行18.3m、梁間18.7m、入母屋造、向拝三間、本瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02611
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2014.09.18(平成26.09.18)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
所在都道府県
:
大阪府
所在地
:
大阪府富田林市富田林町
保管施設の名称
:
所有者名
:
富田林興正寺別院
所有者種別
:
寺院
管理団体・管理責任者名
:
富田林興正寺別院本堂 外観
解説文:
詳細解説
富田林興正寺別院は,重要伝統的建造物群保存地区である富田林市富田林寺内町の中央に境内を構える真宗寺院である。本堂は,寛永15年(1638)の建立で,近畿地方における最古級の真宗本堂である。古式な平面や構造と江戸時代初期の装飾細部を兼備しており,初期の真宗本堂の成立過程を知る上で価値がある。本堂北に対面所,境内東南には鐘楼,東北に鼓楼が建ち,山門と御成門を開く。富田林興正寺別院は,本堂や対面所を中心に江戸時代末期に整えられた境内が良好に維持されており,富田林寺内町の歴史的景観に欠くことのできない存在として貴重である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
写真一覧
富田林興正寺別院本堂 外観
富田林興正寺別院本堂 内部
富田林興正寺別院本堂 内部
写真一覧
富田林興正寺別院本堂 外観
写真一覧
富田林興正寺別院本堂 内部
写真一覧
富田林興正寺別院本堂 内部
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
富田林興正寺別院は,重要伝統的建造物群保存地区である富田林市富田林寺内町の中央に境内を構える真宗寺院である。本堂は,寛永15年(1638)の建立で,近畿地方における最古級の真宗本堂である。古式な平面や構造と江戸時代初期の装飾細部を兼備しており,初期の真宗本堂の成立過程を知る上で価値がある。本堂北に対面所,境内東南には鐘楼,東北に鼓楼が建ち,山門と御成門を開く。富田林興正寺別院は,本堂や対面所を中心に江戸時代末期に整えられた境内が良好に維持されており,富田林寺内町の歴史的景観に欠くことのできない存在として貴重である。
詳細解説▶
詳細解説
富田林興正寺別院 六棟 本堂、対面所、鐘楼、鼓楼、山門、御成門 大阪府富田林市富田林町 宗教法人 富田林興正寺別院 富田林市の中心部に所在する富田林寺内町は、永禄三年(一五六〇)に興正寺第一六世の証秀が、大和川支流の石川左岸の荒地を安見氏から買い取り、周辺四か村の協力を得て建設したもので、翌四年には道場が建立された。その後、三好氏、豊臣氏、徳川氏などの庇護を受け、近世を通じて南河内の中心都市として発展した。富田林寺内町は、富田林市富田林伝統的建造物群保存地区として、平成九年十月三十一日付で重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 富田林興正寺別院は、富田林寺内町の中央に境内を構える真宗興正派の寺院であり、永禄四年に興正寺の御坊として建立された道場に始まる。開山は証秀であるが、本山から派遣される役僧が輪番する慣わしであった。創建後の沿革が詳らかでなく、慶長九年(一六〇四)には江戸時代中期とほぼ変わらない規模の寺地を有していたことがわかるが、堂舎の規模や構成は不明である。 境内は、北を堺町通、南を御坊町通で限り、南北に通る城之門筋に東面する。東面中央に山門を開き、南に鐘楼、北に鼓楼を配して築地塀で囲い、山門北に御成門を開いている。本堂は境内奥の中央に東面して建ち、北に対面所が並ぶ。境内北辺は庫裏、南辺は長屋門と土蔵が街路に面して建つ。 本堂は記録から寛永十五年(一六三八)の建立とされるが、形式や細部からも首肯される。対面所は安政三年(一八五六)の建築である。鐘楼は文化七年(一八一〇)の建築とみられ、鼓楼は一八世紀後期の建築と推定されるが、文化七年に現在地へ移された。山門は安政四年に京都興正寺北門を移築したもので、この頃に築地塀と御成門が整備された。 本堂は、桁行一八・三メートル、梁間一八・七メートルの規模で、正面に一間の向拝を付け、入母屋造、本瓦葺である。軒は木舞打の一軒疎垂木、妻飾は豕叉首で、母屋桁を大斗実肘木で受ける。 平面は、間口三間の内陣、その左右に間口二間の余間、余間の外を飛檐之間を一段高く後方に配し、前方は正面七間、奥行五間の外陣で正側面に広縁を廻す。背面の廊下は元禄年間(一六八八~一七〇四)の増築で、このときに出仏壇、後門の形式に改められた。痕跡から、当初の内陣は奥行半間の一列三区の仏壇、余間も奥行半間の仏壇に復することができ、江戸時代初期における御坊格の真宗本堂の平面形式とわかる。 外陣側廻りは全て面取角柱で、一間ごとに柱を立て、縁長押、内法長押、飛貫で固めて直接桁を受け、さらに広縁外には軒支柱を立てる。ただし、飛檐之間の側廻りには舟肘木を載せる。向拝は大斗に花肘木を十文字に組み、方斗を載せて虹梁形の桁を受け、彫刻手挟を載せる。桁は先端下部を実肘木形につくる。 外陣は、内陣柱通りに各二本の独立柱を立て、無目鴨居上を小壁とする。内陣、余間と外陣境は、内法長押を内陣中央部分で切り上げ、柱頂部を頭貫で結び、組物は実肘木付平三斗、中備は蟇股とする。内陣は、絵様肘木を用いた実肘木付平三斗とする。仏壇廻りは粽付の円柱の来迎柱に頭貫を架けて木鼻を出し、二手先組物で天井桁を受け、中備は大瓶束とする。天井は、内陣が折上小組格天井、余間が菱格子入格天井、外陣が棹縁天井、広縁と飛檐之間が鏡天井で、背面廊下を化粧屋根裏とする。 小屋組は格子状に組んだ大梁に太く長い束を立て、貫で固めて母屋を受ける。貫は断面が細く、桁行方向と梁間方向のものを間隔を空けて組むなど、背面下部を除いて、おおむね当初の形式と思われる。 後世の改変は、寛文八年(一六六八)に仏壇、元禄ころに内陣天井、仏壇、余間などを改造し、内外陣境の中央間の内法を高くして、内陣境に巻障子、余間外陣境に襖、さらに彫刻欄間が入れられ、ほぼ現状の姿になった。享保十一年(一七二六)には内陣余間境に虹梁が入れられたが、当初は三本溝で建具を入れていた。外陣正側面の建具は江戸時代後期に改修され、さらに現在はガラス障子引違いとなっている。内陣から背面廻りの改造を除き、当初の形式がよく保持されている。 対面所は、桁行一六・八メートル、梁間六・三メートル、東西棟の切妻造で、正面の東に唐破風造の式台玄関を付ける。屋根は本瓦葺とするが、北側縁の庇と渡廊下は桟瓦葺である。平面は東から八畳、四畳、一二畳、六畳の上段が並び、南側の本堂間を廊下、北側を中庭に面した縁とし、上段西側の廊下から北の庫裏へ渡廊下が延びる。四畳は梁間方向の差鴨居をみせるが、八畳と一二畳および上段は内法長押を廻らす。上段は特異な構成であって、西奥の北半を置床、南半を帳台構とし、南は西半を本堂への出入口、東半を違棚、北は花頭窓の平書院とする。天井は上段が改造されているが、ほかは棹縁天井である。玄関は虹梁大瓶束架構で、中備や笈形の彫刻など、装飾性に富んでいる。 鐘楼は、桁行一間、梁間一間の吹放し形式で、切石積基壇に建つ。入母屋造、本瓦葺で、軒が一軒疎垂木、妻飾が木連格子である。石製礎盤に内転び角柱を立てて腰貫、飛貫、頭貫で固め、台輪を廻らして実肘木付三斗を組み、格天井を張り、中央部に小屋裏から銅鐘を吊る。渦巻形を刳り抜いた頭貫木鼻や実肘木、猪目を刳り抜いた台輪木鼻などの細部から、江戸時代後期の建築と判断される。明治四十五年(一九一二)には築地塀越しの景観を整えるため、袴腰風の腰板と縁および擬宝珠高欄が付加された。 鼓楼は、二階建で、下層は桁行五・〇メートル、梁間四・〇メートル、大壁造の上層はこれより小さくつくり、桁行・梁間とも各二間とする。下層軒は出桁付の一軒疎垂木、上層軒は軒裏を塗り込めた扇垂木で、入母屋造、本瓦葺とする。下層の東面は築地塀と一体化しており、築地塀屋根の棟積が壁面に取り付く。下層北面は腰を縦羽目板張とする。上層は柱を内法長押と頭貫で固め、台輪を廻して大斗肘木を載せ、中備を蟇股とする。南、東、北の三面は各間に花頭窓を設ける。 山門は、一間薬医門の形式で、両開板扉を構え、南北両脇に潜戸が付く。屋根は切妻造、本瓦葺、軒が一軒疎垂木、妻飾が板蟇股である。冠木から控柱上の桁に男梁を掛け、棟通りの桁上に蟇股を据えて棟木を受ける。表側は男梁上に鏡天井を張る。五平の太い本柱や冠木、控柱上の曲材の桁などは、城門の部材の可能性がある。しかし、棟通りの蟇股や実肘木および女梁の絵様は江戸時代初期とみてよく、転用材に新たな部材を追加して江戸時代初期に建てられたと考えられる。 御成門は、一間棟門の形式で、左右に桟瓦葺の袖築地塀を付ける。屋根は切妻造の本瓦葺、軒は一軒半繁垂木である。几帳面取角柱を唐居敷に立て、木鼻付の虹梁形頭貫と根肘木付の腕木を柱頂部に落とし込み、腕木先端で出桁を受ける。両妻には腕木上に板蟇股を置いて棟木を受ける。山門の移築時に建てられたものであるが、虹梁形頭貫と花肘木などは一八世紀前期に遡る可能性があり、山門と同じく安政年間(一八五四~六〇)の整備時に他所から移築されたと思われる。 本瓦葺屋根の築地塀は、山門の南から東へ折曲り延長一八・七メートル、山門の北から東へ矩折れ延長五・二メートル、御成門北から鼓楼に取り付く折曲り延長五・八メートルからなる。 富田林興正寺別院は、寺内町成立を主導した意義深い寺院で、寛永十五年の本堂は近畿地方における最古級の真宗本堂として、古式な平面や構造と江戸時代初期の装飾細部を兼備しており、初期の真宗本堂の成立過程を知る上で高い価値がある。また、江戸時代末期に整えられた境内の表構えは、本堂ならびに対面所と一体的な境内空間を構成しており、重要伝統的建造物群保存地区である富田林寺内町の歴史的景観に欠くことのできない存在として貴重である。 【参考文献】 『富田林興正寺別院伽藍総合調査報告書』(富田林興正寺別院 二〇一二年)
関連情報
附指定
築地塀
関連情報
附指定
附名称
:
築地塀
附員数
:
三棟