国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
濱口家住宅
ふりがな
:
はまぐちけじゅうたく
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
おもや
濱口家住宅主屋 外観
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員数
:
1棟
種別
:
近代/住居
時代
:
江戸後期
年代
:
江戸後期
西暦
:
構造及び形式等
:
木造、建築面積86.00㎡、北面切妻造南面入母屋造、本瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02613
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2014.09.18(平成26.09.18)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
所在都道府県
:
和歌山県
所在地
:
和歌山県有田郡広川町大字広字南市場1292番
保管施設の名称
:
所有者名
:
一般財団法人東濱口家住宅保護財団、広川町
所有者種別
:
法人
管理団体・管理責任者名
:
濱口家住宅主屋 外観
解説文:
詳細解説
濱口家住宅は,江戸で醤油問屋を営んだ地元を代表する豪商の本宅である。広大な屋敷地には江戸時代に遡る主屋,本座敷のほか,明治中期の敷地拡張とともに建てられた土蔵群,明治42年頃につくられた御風楼と庭園が残る。この御風楼は,明治末期の経済人の趣味を反映した大規模で上質な和風建築であり,平面構成,内部意匠,細部造作ともに独創性に富んでおり,価値が高い。濱口家住宅は,近世から明治に至る屋敷構えが一体で残り,地域を代表する商家の近世から近代に至る発展過程を示すものとして重要な意義を有している。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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濱口家住宅主屋 外観
濱口家住宅主屋 内部
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濱口家住宅主屋 外観
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濱口家住宅主屋 内部
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解説文
濱口家住宅は,江戸で醤油問屋を営んだ地元を代表する豪商の本宅である。広大な屋敷地には江戸時代に遡る主屋,本座敷のほか,明治中期の敷地拡張とともに建てられた土蔵群,明治42年頃につくられた御風楼と庭園が残る。この御風楼は,明治末期の経済人の趣味を反映した大規模で上質な和風建築であり,平面構成,内部意匠,細部造作ともに独創性に富んでおり,価値が高い。濱口家住宅は,近世から明治に至る屋敷構えが一体で残り,地域を代表する商家の近世から近代に至る発展過程を示すものとして重要な意義を有している。
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詳細解説
濱口家住宅 九棟 主屋、本座敷、御風楼、新蔵、文庫、南米蔵、北米蔵、大工部屋、左官部屋、土地 和歌山県有田郡広川町 東濱植林株式会社、広川町 濱口家住宅は、紀伊水道の広湾に面する広川町の中心部、広村堤防の東方に位置する。濱口家は、東濱口家と通称し、初代吉右衛門の時、宝永四年(一七〇七)の津波により江上川の河口付近にあった屋敷が被災し、現在地へ移り住んだと伝わる。以後代々吉右衛門を名乗り、江戸日本橋において醤油問屋を生業とした地元を代表する商家となった。 敷地は通りに東面し、主屋が通りに面して中央北寄りに建つ。主屋の南に本座敷、北に三階建の御風楼が建つ。敷地北に新蔵、本座敷南に文庫、文庫西に新文庫、敷地西には北から北米蔵、大工部屋、南米蔵が並び、北米蔵の東に左官部屋が建つ。御風楼の西から南にかけては池や石組等で築かれた庭園が広がり、米蔵前は石垣、本座敷庭とは煉瓦塀で区画し、敷地周辺は煉瓦塀で囲んでいる。 各建物の建築年代は、主屋が江戸時代後期とみられ、本座敷が文書より文化十一年(一八一四)ころの上棟である。土蔵や大工部屋などは明治二十七年(一八九四)から同三十年ころに土地の拡張とともに新築あるいは曳家されたもので、明治四十二年ころに御風楼が建築された。庭園も同時期に整備されたと考えられる。御風楼を含む庭園は九代吉右衛門容所により「東園」と命名され、彼の漢詩趣味に合わせ御風楼を含む一二の景勝に見立てた整備が行われた。濱口家住宅は、平成二十二年三月十六日付で和歌山県指定有形文化財となっている。 主屋は、桁行九・八メートル、梁間七・九メートルで、屋根は本瓦葺で北面を切妻造、南面を入母屋造とし、正面には庇を付し、外壁は漆喰塗大壁とする。正面は北に大戸口を設け南は格子出窓を並べる。平面は間口五間、奥行四間で北一間半を土間の「内庭」とし、南を床上部とし北列東から「六畳」、「台所」、南列東から「八畳」、「納戸」とし、「納戸」は西へ一間張り出す。天井は内庭東半を根太天井、西半を吹抜けとするほかは棹縁天井とする。建ちの低い外観や平面形式、大黒柱筋で前後対称となる梁組の形式など、広川・湯浅地域の近世町家の特徴を備えている。 本座敷は、桁行一五・〇メートル、梁間七・二メートルで、屋根は入母屋造、本瓦葺とし、南を除く三方に桟瓦葺の庇を付す。平面は西から座敷一二畳半、仏間一〇畳、茶室八畳を並べ、東面に廊下、北面から西面にかけて縁を廻らす。座敷は南面西半をトコとし西に附書院を付け、東半はトコより奥行の浅い天袋と違棚を付す。仏間は南面に仏壇を置く。茶室は南面西寄りにトコを構え、畳に炉を切る。北面東寄りには六畳が付き東に式台玄関を付し、さらに北東に六畳を介して主屋に接続する。書院造を基調とするが、茶室廻りの造作や縁の杉丸太の化粧垂木など要所に数寄屋風の意匠が加味された上質な座敷である。 御風楼は、木造、三階建、建築面積二七五・一〇平方メートルで、良材を用いて要所に数寄屋意匠を取り込んだ上質な和風座敷である。屋根は入母屋造、桟瓦葺で四周に瓦棒銅板葺または桟瓦葺の庇を付す。南面には本座敷から御風楼二階へ接続する渡廊下と風呂場を、西面北寄りには風呂場および厠をそれぞれ附す。風呂場および厠からは南西に延びる階段とその先に物置が附属する。南西隅には二階高さの石組人工地盤を附属する。 一階は使用人部屋や台所、二階は庭園と一体の座敷、三階は広湾を望む座敷とする。一階は東を台所と板間とし、西寄りに畳の部屋を設け、中央に二階への階段を置く。二階は西から一一畳と六畳を並べ、南から西面に縁を廻し、北面には廊下を配して東端に四畳半を置く。天井は棹縁天井であるが、蟻壁長押を廻して高くつくる。一一畳西面北寄りにはトコと附書院を置くが、トコ脇は障子戸とし、二階縁から外の石組を経由し直接庭園に下りられるなど庭園と一体的な接客空間とする。二階南面に突き出した三畳の小部屋は丸太柱で支持されている。三階は西から八畳と六畳を並べ、六畳の東面にトコ、違棚、附書院の構えを配し、天井は折上格天井で、欄間は鳳凰の透彫をあしらった板欄間とする。西側の三方には畳敷の入側を廻し、さらに外側に縁を設けてガラス戸を建て込んだ開放的なつくりとする。特に西面北寄りに付く雨戸戸袋は眺望を阻害しないよう雨戸収納後は戸袋ごと床下へ格納される仕掛けとなっている。 小屋組を和小屋とするなどおおむね伝統工法であるが、二階と三階の階高を高くし、要所に火打や筋交いを用い、鉄製の持送りで二階梁を支持するなど近代的な手法も取り入れている。また下階より外へ張り出す上階の平面、丸太柱のみで支持される部屋など随所に奇抜な構造も用いる。そのほか格納式の雨戸戸袋をはじめ、二階北面から三階の縁へ上がる外階段、白耐火煉瓦を意匠的に用いた一階の壁など、豊かな創意もみられる。 新蔵は、家財道具の蔵で、明治三十年ころの建築である。桁行七・八メートル、梁間五・〇メートルの土蔵造、二階建で、屋根は切妻造、本瓦葺とし、南面入口に桟瓦葺の庇を付す。内部は一階二階とも中央で二室に分かれ、小屋組は登梁式の和小屋とし、壁は竪板張とする。 文庫は、明治二十七年の建築である。桁行、梁間とも五・九メートルの規模の土蔵造、二階建で、屋根は切妻造、本瓦葺とし、北面入口に桟瓦葺の庇を付す。内部は一室で小屋組は登梁式の和小屋とし、壁は竪板張とする。 南米蔵は、江戸時代末期の建築で、明治二十七年に現在地へ曳家された。桁行九・七メートル、梁間北面六・七メートル、南面五・三メートルの台形平面の土蔵造、二階建で、屋根は切妻造、本瓦葺とし、東面入口に桟瓦葺の庇を付す。内部一階は三室に分かれ、二階は一室とする。小屋組は水平梁を架け束立ての和小屋とし、ほかの土蔵の架構と異なる。壁は一階を竪板張とし、二階は土壁を表す。 北米蔵は、明治二十七年の建築である。桁行九・八メートル、梁間七・九メートルの土蔵造、二階建で、屋根は切妻造、本瓦葺で、東面入口に桟瓦葺の庇を付す。内部は一階の南東を仕切るほかは一室とし、壁は一階を竪板張とし、二階は土壁を表す。 大工部屋は、明治三十年の建築である。桁行西面六・四メートル、東面六・〇メートル、梁間五・九メートルの台形平面の二階建木造建屋の西面に煉瓦造の壁を立てる。屋根は切妻造、本瓦葺で、東面に桟瓦葺の庇、西面煉瓦壁頂部に桟瓦葺の小庇を付す。一階は土間で西面煉瓦壁にアーチ開口と両開板戸の出入口を設けるほかは開放とし、二階は板床の一室とする。 左官部屋は、明治前半ころの建築とみられる。桁行四・九メートル、梁間四・八メートル、土蔵造、二階建で、屋根は切妻造、本瓦葺で東面に本瓦葺の庇を付す。一階は土間で東面に開放の出入口、西面に板戸片引の出入口を設け、二階は板床に土を載せ土敷きとした納屋である。 新文庫は、様式より大正後期ころの建築とみられる。鉄筋コンクリート造二階建の蔵で、建築面積一七・九八平方メートル、正面に石橋を附属する。屋根は元は唐破風状のやや起りのある陸屋根であったが、切妻造鉄板葺の仮屋根とする。内部は一、二階ともコンクリート土間で壁面および二階天井を板張とし、中央に階段を付し、階段開口上部には荷揚げ用の滑車が付き壁面に巻上装置が残る。正面扉は金庫扉、窓も両開の鉄扉とした近代的な蔵である。 煉瓦塀は、明治三十年ころの建築とみられる。主屋北方に折曲り延長二〇・九メートル、高さ三・四メートル、新蔵東方に延長六・三メートル、高さ四・一メートル、西方に折曲り延長一四・七メートル、高さ四・七メートルの三基が、文庫北方に延長三・九メートル、高さ二・五メートルが一基、南米蔵南方に折曲り延長三三・七メートル、高さ二・五メートルの一基が残る。煉瓦造イギリス積一枚半厚の塀で、頂部を蛇腹積とする。主屋北方と新蔵東方の煉瓦塀には開口を設ける。 濱口家住宅は、江戸で醤油問屋を営んだ豪商の本宅で、広大な屋敷地に主屋や御風楼など多数の建造物が保持されている。このうち御風楼は、明治末期の経済人の趣味を反映した大規模で上質な近代和風建築であり、平面構成、内部意匠、細部造作とも独創性に富み質が高い。また、近世に遡る主屋や本座敷のほか、御風楼や土蔵群などが建築され明治以降に拡張された屋敷構えは、地域を代表する商家の近世から近代に至る発展過程を示すものとして価値が高く、土地と併せて保存を図る。 【参考文献】 『和歌山県の近代和風建築』(和歌山県教育委員会 二〇一〇年)
関連情報
附指定
新文庫
煉瓦塀
関連情報
附指定
附名称
:
新文庫
附員数
:
一棟
関連情報
附指定
附名称
:
煉瓦塀
附員数
:
五基