国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
聖福寺
ふりがな
:
しょうふくじ
棟名
:
大雄宝殿
棟名ふりがな
:
だいゆうほうでん
聖福寺大雄宝殿 外観
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/寺院
時代
:
江戸中期
年代
:
元禄10
西暦
:
1697
構造及び形式等
:
桁行三間、梁間四間、二重、入母屋造、北面切妻屋根付、本瓦葺、西面及び北面軒下張出し付
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02614
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2014.09.18(平成26.09.18)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
所在都道府県
:
長崎県
所在地
:
長崎県長崎市玉園町
保管施設の名称
:
所有者名
:
聖福寺
所有者種別
:
寺院
管理団体・管理責任者名
:
聖福寺大雄宝殿 外観
解説文:
詳細解説
聖福寺は,長崎市街北辺の山麓に所在する黄檗宗の禅宗寺院である。境内奥に建つ大雄宝殿と前面の天王殿を軸として,鐘楼や方丈などの殿堂で中庭を囲むという禅宗寺院特有の伽藍配置をよく継承している。大雄宝殿は元禄10年(1697)建築で,前面を吹放して黄檗天井をあらわすなど,随所に黄檗宗寺院の建築様式の特徴を有している。天王殿,鐘楼,山門も同様の特徴を具備しつつ,平面形式や架構,細部意匠に独自の工夫が発揮されており,価値が高い。伽藍の造営には地元長崎と堺の大工が造営に携わっているが,同じ長崎の崇福寺などとは造形に差異が認められ,我が国の黄檗宗寺院における建築様式の受容と進展を理解する上で,深い意義を有している。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
写真一覧
聖福寺大雄宝殿 外観
聖福寺大雄宝殿 内部
聖福寺大雄宝殿 内部
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聖福寺大雄宝殿 外観
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聖福寺大雄宝殿 内部
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聖福寺大雄宝殿 内部
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解説文
聖福寺は,長崎市街北辺の山麓に所在する黄檗宗の禅宗寺院である。境内奥に建つ大雄宝殿と前面の天王殿を軸として,鐘楼や方丈などの殿堂で中庭を囲むという禅宗寺院特有の伽藍配置をよく継承している。大雄宝殿は元禄10年(1697)建築で,前面を吹放して黄檗天井をあらわすなど,随所に黄檗宗寺院の建築様式の特徴を有している。天王殿,鐘楼,山門も同様の特徴を具備しつつ,平面形式や架構,細部意匠に独自の工夫が発揮されており,価値が高い。伽藍の造営には地元長崎と堺の大工が造営に携わっているが,同じ長崎の崇福寺などとは造形に差異が認められ,我が国の黄檗宗寺院における建築様式の受容と進展を理解する上で,深い意義を有している。
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詳細解説
聖福寺 四棟 大雄宝殿、天王殿、鐘楼、山門 長崎県長崎市玉園町 宗教法人 聖福寺 聖福寺は、長崎市街北辺の山麓に所在する黄檗宗寺院で、万寿山と号する。延宝五年(一六七七)の創建で、開山の鉄心道胖は宇治萬福寺第二世木庵性瑫の高弟である。境内南の下段に山門を構え、曲折する石段を登ると境内の上段に至る。南面する天王殿と北奥に建つ大雄宝殿が南北軸を構成し、大雄宝殿東側に方丈および庫裏、西側に開山堂を配し、天王殿西側に鐘楼が東面して建つ。大雄宝殿、天王殿、山門が昭和三十六年十一月二十四日付で、鐘楼が平成二十六年三月二五日付で長崎県指定有形文化財に指定されている。 大雄宝殿は、棟札より元禄十年(一六九七)に、長崎大工の楠原與右衛門が棟梁で、三一名の大工を擁して建てたことがわかる。桁行三間、梁間四間を本体とし、後端間を後方に半間拡張した平面で、さらに背面中央間を後方に半間分張り出している。また西側面第三間には仏壇を張り出し、媽祖を祀る。屋根は入母屋造本瓦葺で、棟に鯱と宝珠を飾り、四周に下屋を廻らして二重とし、背面仏壇上に切妻屋根を架ける。軒は上下重とも二軒繁垂木、妻壁は竪板張目板打とする。上重の軸部は、内部で建て登らせた四本柱の外側に別構造として組む形式で、外観を方三間に見せ、三斗を組み、中備は正面蟇股、ほかを間斗束とする。 吹放しの前一間通りは、矩形隅丸の黄檗様石製礎盤に几帳面取角柱を立てて虹梁で繋ぎ、正面中央間の虹梁を鯱彫刻、両脇間の虹梁を植物紋彫刻の持送りで支持する。組物は実肘木付三斗組で、中備は正面が蟇股、側面を間斗束とする。天井は虹梁上に唐草を陽刻した台座を置いて束を立て、二筋の天井桁の間に輪垂木を並べて天井板を張り、いわゆる黄檗天井を構成する。正面両脇にコ字形に廻らす高欄は、逆蓮柱間に卍崩しの木柵を入れる。土間はモルタル塗で四半敷風に目地を切る。 三間四方の内部は土間の一室で、中央間の奥に高大な仏壇を構えて釈迦如来を祀り、背面両隅に花頭枠の脇壇を備える。中央の太いケヤキの四本柱を建て登らせ、矩形断面の梁で固めて台輪を廻らし、三斗を置いて格天井を張り、周囲は化粧屋根裏とする。側廻りは礎盤上に立てたヒノキの角柱を貫と虹梁で固め、側柱と四本柱を虹梁で連結する。正面入側通りと両側面第二間には桟唐戸をたて、背面中央間を格子戸引違い、東側面第三間を窓とするほかは、土壁と板壁である。 天王殿は棟札により宝永二年(一七〇五)の建立で、大工は堺の藪本次兵衛ほか七名とわかる。桁行三間、梁間三間で、屋根は入母屋造本瓦葺、軒は二軒繁垂木で強い反りをもち、妻飾を木連格子とし、破風拝みに蕪懸魚を吊る。中央間の後方二間分を前後二室につくり、前面に弥勒菩薩、背面に韋駄天を背中合わせに祀り、両脇間を通路とする特異な平面になる。 軸部は、石製礎盤に几帳面取角柱を立てて虹梁や貫で固め、柱上に三斗を置き、中備は虹梁上に蟇股、頭貫上に間斗束を配する。正面は桁行に三間梁を渡して中柱二本を省き、梁両端に鯱彫刻の持送りを付す。前面一間は、天井桁一本を虹梁上の蟇股で受ける形式の黄檗天井とし、後方二間は格天井とする。柱間装置は、中央間の後方二間分では、正面の下半を格狭間付きの板戸、上半を格子とし、両側面を土壁、背面は下半を格子戸、上半を格子とする。両脇間は第二柱筋に両開き板戸を吊る。土間は四半石敷である。 鐘楼は、棟札より享保元年(一七一六)の建立で、泉南大工の藪次兵衛と崎陽大工の楠原與右衛門が棟梁、二階建、入母屋造本瓦葺である。 三間四方の一階は、前一間通りを吹放し、後方二間は一室でモルタル塗土間とする。軸部は石製礎盤に角柱を立て、正面三間に虹梁を渡し、他は内法貫、頭貫などで固める。桁は大斗上の通肘木で受け、中備に絵様肘木を入れる。正面中央間には桃や唐草の彫刻で飾った桟唐戸、両脇間には花頭窓を設ける。北側面は中央間を土壁、西間を戸口、背面中央間を板壁、ほかはガラス窓引違いとする。前一間は鏡天井、内部は棹縁天井で、軒は二軒繁垂木とする。 二階は正方形平面で禅宗様高欄付の縁を廻らせる。四隅に角柱を立てて頭貫と台輪で固め、四面中央の開口部を板戸引分けとし、方立と隅柱の間を板壁とする。組物は出組で中備蓑束とし、内部は井桁に組む梁上に天井板を張り、中央に梵鐘を吊る。軒は二軒扇垂木で隅を大きく反らせて軽快にみせ、妻飾は木連格子とする。 山門は、天王殿と同じ堺大工の藪本次兵衛を棟梁として元禄十六年に建立されたとみられる。桁行三間、梁間二間で、屋根は中央間が一段高い切妻造段違、本瓦葺とし、軒は二軒繁垂木とする。棟通りの各間に藁座吊の両開き板戸を設け、土間を四半石敷とする。 軸部は、石製礎盤に几帳面取角柱を立て、中央間は、正背面に虹梁と頭貫を渡し、棟通りは貫と虹梁を交互に四段重ねとし、大瓶束で棟木を受ける。中備に蟇股をおき、最上段は大瓶束に笈形を付して飾る。また両脇間では、正背面に虹梁を渡し、棟通りは貫と虹梁を交互に三段重ね、中備は蟇股または間斗束とする。両側面は虹梁と海老虹梁を重ねて柱を固める。大雄宝殿と同様に、正面中央間の虹梁は鯱彫刻、両脇間は植物紋彫刻の持送りで支持し、また横架材両端には根肘木を多用する。同形式の遺構の中でも、雄大な規模と充実した意匠をもつ。 聖福寺は、大雄宝殿と天王殿を軸とした殿堂で中庭を囲むという、禅宗寺院特有の伽藍配置をよく継承している。一八世紀初頭までに一連で造営された殿堂は、黄檗様の特徴を具備しつつも、平面形式や架構、細部意匠に独自の工夫が発揮され、柔軟かつ創意に富んだ意匠をもつものとして高く評価できる。またこれらの造営には長崎と堺の工匠が携わっていたことが判明しているが、同じ長崎の崇福寺などとは造形に差異が認められ、わが国における黄檗宗寺院の建築様式の受容と進展を理解する上で、深い意義を有している。 【参考文献】 『美原町史紀要「美原の歴史」特別号 黄檗宗寺院の伽藍計画に関する研究』(美原町教育委員会 一九八三年) 『長崎県指定有形文化財聖福寺調査報告書』(聖福寺 二〇一三年)
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棟札
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一枚