国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
都々古別神社本殿
ふりがな
:
つつこわけじんじゃほんでん
棟名
:
棟名ふりがな
:
都々古別神社本殿 外観
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/神社
時代
:
桃山
年代
:
文禄3頃
西暦
:
1594頃
構造及び形式等
:
三間社流造、銅板葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02616
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2014.12.10(平成26.12.10)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(四)学術的価値の高いもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
福島県
所在地
:
福島県東白川郡棚倉町大字棚倉
保管施設の名称
:
所有者名
:
都々古別神社
所有者種別
:
神社
管理団体・管理責任者名
:
都々古別神社本殿 外観
解説文:
詳細解説
都々古別神社は,陸奥一宮として崇敬されてきた古社である。
本殿は文禄3年(1594)に佐竹義宣が造営したとみられる。もとは棚倉城の地にあったが,寛永2年(1625)に現在地へ移された。
形式は本格的な三間社流造であるが,組物を出三斗とし,彫刻を用いないなど,簡素なつくりとする。反りのある垂木,庇に架けた水平に近い梁などが中世的な要素である。
都々古別神社本殿は,東北地方において数少ない桃山期の本殿建築として,高い価値を有している。細部や技法には中世的な要素が残っており,中世から近世への転換期における様式や技法を知る上で,貴重な存在である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
都々古別神社本殿 外観
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都々古別神社本殿 外観
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解説文
都々古別神社は,陸奥一宮として崇敬されてきた古社である。 本殿は文禄3年(1594)に佐竹義宣が造営したとみられる。もとは棚倉城の地にあったが,寛永2年(1625)に現在地へ移された。 形式は本格的な三間社流造であるが,組物を出三斗とし,彫刻を用いないなど,簡素なつくりとする。反りのある垂木,庇に架けた水平に近い梁などが中世的な要素である。 都々古別神社本殿は,東北地方において数少ない桃山期の本殿建築として,高い価値を有している。細部や技法には中世的な要素が残っており,中世から近世への転換期における様式や技法を知る上で,貴重な存在である。
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詳細解説
都々古別神社本殿 一棟 都々古別神社は、福島県南部の棚倉町の市街地西方、馬場の地に所在しており、馬場都々古別神社とも呼ばれている。久慈川上流域の内陸部に位置する棚倉の歴史は古く、古代から中世にかけては陸奥に向かう交通の要衝の一つで、近世には棚倉藩が支配した。 都々古別神社の創建は詳しくわからないが、大同二年(八〇七)に坂上田村麻呂が棚倉に社地を遷し、社殿を造営したとされている。『延喜式』には白河郡の大社としてみえ、味耜高彦根命と日本武尊を祭神とし、古くから陸奥一宮として崇敬されてきた。古代から中世に至る沿革は明らかでないが、永正十二年(一五一五)や天文年間(一五三二~五五)にも造営があったらしい。文禄三年(一五九四)には豊臣秀吉の命で、佐竹義宣が社殿を造営したとされる。近世初期の丹羽長重による寛永元年(一六二四)の棚倉城築城に際し、翌二年に棚倉城の地から西方約八〇〇メートルの現在地へ遷座された。以後、棚倉藩主からも厚く庇護され、明治六年(一八七三)に国幣中社となり、現在に至っている。 南を正面とする境内は、本殿から随身門のある中心部が広く平坦な地形で、随身門の南には石段を築き、本殿北側後方の一段高い地には東照宮と日枝社が位置している。本殿は、前述のように旧社地から寛永二年に現在地へ移築されたことが明らかで、当初の建立年代を示す棟札や墨書は確認されていないが、佐竹氏によって造営された文禄三年の可能性が最も高い。 形式は三間社流造で、ほぼ南面して建つ。平面は桁行三間に梁間二間が身舎、正面には三間の庇を延ばし、三間幅の木階七級を設ける。身舎の四周には束立で刎高欄付の切目縁を廻らし、正面側を庇柱まで延ばした幅広の大床とするが、脇障子はない。縁正面は両端に二本、縁背面は四本の角柱を立て、また正面木階前にも角柱四本を立てて軒桁を受けるが、いずれも後世の付加である。身舎の内部は板敷に棹縁天井で、梁行の柱筋に引違い戸を建て込んで三室に区分し、中央間の背面には内陣をつくるが、痕跡から当初の内部は一室で、背面中央間に棚が設けられていた。 身舎は床下八角形の円柱、庇は面取角柱とし、自然石の礎石に立てる。身舎は、足固貫・切目長押・内法長押・頭貫で固め、庇は縁位置で足固貫を通し、頂部は虹梁型の頭貫で繋ぐ。組物は身舎、庇とも実肘木付の出三斗、桁行両端が連三斗で、各間とも中備を入れない。正面三間は幣軸付の両開板扉を設けるが、両側面と背面は横板壁とする。身舎と庇を繋ぐ海老虹梁は各柱筋に架け、身舎側を柱に大入れ、庇側は桁と組んで組物に載せる。形状は下面を弓状、身舎側上面を起らせて海老状とするが、ほぼ水平に近い。頭貫木鼻と実肘木先端には絵様繰型をつけ、海老虹梁と庇の頭貫下面には錫状彫を施している。軸部から組物、妻飾や垂木まで朱塗、斗や肘木などの木口を胡粉塗、板扉と幣軸を黒漆塗とするが、内部と床下は素木である。全体的に彫刻や彩色文様などの装飾を用いない。 軒廻りは二軒繁垂木で、正面は地垂木に打越垂木を載せて庇へ延ばし、飛檐垂木をつける。地垂木は先端に強い反りがあり、また身舎の垂木は下端を湾曲させて桁に組む。屋根は銅板葺で、箱棟に千木と堅魚木五本を載せる。妻飾は豕叉首組とし、頂部の大斗・拳鼻・実肘木付三斗で化粧棟木を受ける。破風板は腰折れの強い形状である。小屋組は前後の丸桁に梁を架け、棟束を立てて化粧棟木を受ける。棟束はほぼ中間に桁行方向の貫を通して固め、これに前側の地垂木尻を架け、後側の地垂木尻は棟束に打ち付けた横板に架ける。 各部には後世の改造があるが、軸部から小屋組および軒廻りまで当初部材をよく残している。垂木先端の強い反り、束が太く叉首が細い豕叉首組、急勾配の身舎垂木、水平に近い海老虹梁の形状、上肩を軽く落としただけの長押など、こうした細部や技法は中世的な要素と考えられる。 都々古別神社本殿は、江戸前期の移築という歴史的経緯があるが、東北地方において数少ない桃山期の本格的な形式をもつ本殿建築で、近世らしい華やかな装飾をほとんど用いない簡明なつくりになり、細部や技法には中世的な要素が残っている。会津地方に中世の建築を数多く残している南東北において、都々古別神社本殿は中世から近世への転換期における様式や技法を知る上での貴重な存在として、高い学術的価値が認められる。 【参考文献】 『棚倉町史』(棚倉町史編纂委員会 一九七九~一九八三年) 『福島県近世社寺緊急調査報告書』(福島県教育委員会 一九八一年) 『都々古別三社調査報告』(福島県教育委員会 一九八五年) 『馬場都々古別神社 建造物調査報告書』(東京藝術大学大学院 二〇一三年)