国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
長谷寺本坊
ふりがな
:
はせでらほんぼう
棟名
:
土蔵
棟名ふりがな
:
どぞう
長谷寺本坊 土蔵
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員数
:
1棟
種別
:
近代/宗教
時代
:
明治
年代
:
19世紀中期
西暦
:
構造及び形式等
:
土蔵造、建築面積37.65㎡、二階建、桟瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02622
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2014.12.10(平成26.12.10)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
奈良県
所在地
:
奈良県桜井市大字初瀬一一〇九番
保管施設の名称
:
所有者名
:
長谷寺
所有者種別
:
寺院
管理団体・管理責任者名
:
長谷寺本坊 土蔵
解説文:
詳細解説
長谷寺本坊は,国宝本堂と谷を挟んで相対する南の高台に位置する。本坊の創建は天正16年(1588)とみられ、近世を通じて伽藍が整えられていたが,明治44年に焼失した。
現在の建築群は,大正8年から13年に再建されたものである。文化財の保存修理に携わっていた奈良県技師である天沼俊一,阪谷良之進,岸熊吉が派遣され,設計と工事監督を担当した。
長谷寺本坊の建築群は,焼失前の構成や形式を部分的に継承しながらも,配置や平面の計画、空間構成の要所に近代らしい合理性が導入されている。文化財保存を通じて熟知した様式をもとに近代の感性で創出された意匠や造形は優秀であり,高度に完成された近代和風建築として高い価値がある。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
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長谷寺本坊 土蔵
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長谷寺本坊 土蔵
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解説文
長谷寺本坊は,国宝本堂と谷を挟んで相対する南の高台に位置する。本坊の創建は天正16年(1588)とみられ、近世を通じて伽藍が整えられていたが,明治44年に焼失した。 現在の建築群は,大正8年から13年に再建されたものである。文化財の保存修理に携わっていた奈良県技師である天沼俊一,阪谷良之進,岸熊吉が派遣され,設計と工事監督を担当した。 長谷寺本坊の建築群は,焼失前の構成や形式を部分的に継承しながらも,配置や平面の計画、空間構成の要所に近代らしい合理性が導入されている。文化財保存を通じて熟知した様式をもとに近代の感性で創出された意匠や造形は優秀であり,高度に完成された近代和風建築として高い価値がある。
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詳細解説
長谷寺は奈良県のほぼ中央部、桜井市初瀬に所在する真言宗豊山派の総本山で、西国三十三所霊場の第八番札所としてよく知られている。 長谷寺の本坊は、谷を挟んで国宝の本堂と相対する南の高台に位置し、小池坊とも称した。創建は天正十六年(一五八八)とみられ、寛文九年(一六六九)には講堂が建てられた。近世を通じて維持されたが、明治四十四年(一九一一)一月の火災で焼失した。直後から復興が検討され、大正五年に大講堂から着手、同十三年に完了した。現存する建築群はこの時のもので、北に構えた中雀門を入ると、東に大講堂、西に大玄関及び庫裏が並び建ち、その南方に中庭を挟んで奥書院、西方に小書院がある。護摩堂と唐門及び回廊は大講堂北東に位置し、土蔵は境内西奥に独立して建っている。大講堂、奥書院、小書院、大玄関及び庫裏、護摩堂、唐門及び回廊の六棟は、平成二十四年三月三十日付で奈良県指定文化財に指定された。 これらの復興には、文化財建造物の保存修理に携わっていた技師が奈良県より派遣され、設計と監督を担当した。大正八年完成の大講堂は天沼俊一、大正九年完成の奥書院は阪谷良之進の設計である。大玄関及び庫裏、小書院、護摩堂は大正十二年、唐門及び回廊は大正十三年に完成したが、設計は岸熊吉であった。長谷寺側は、高田清一郎が奈良県技師の設計補佐と工事監督を行った。大講堂と奥書院は京都の稲垣有壽の請負で施工され、小書院ほか三棟は長谷寺の直営であった。再建にあたり、大講堂は焼失前の規模形式とされたが、奥書院は焼失前の南北棟から東西棟に変更され、小書院や大玄関及び庫裏の平面計画や意匠も焼失前の形態に拘束されない形式とされた。焼失を免れた中雀門は明和三年(一七六六)、土蔵は一九世紀中期の建築とみられる。 大講堂は、ほぼ東面して亀腹基壇に建ち、正面に軒唐破風を付けた入母屋造の本瓦葺である。軒廻りは木舞打の二軒繁垂木で、面取で反り付きの垂木を用い、妻飾は二重虹梁大瓶束架構とし、小屋組はトラスである。平面は梁間の前方を一五〇畳の大広間とし、後方は中央に可動式仏壇を据える仏間、南に獅子の間とも呼ばれる大トコ構えの座敷、北に位牌の間とも呼ばれる仏壇構えの座敷を配する。正面および両側面は入側の広縁、刎高欄付切目縁を廻らし、各面に木階四級を置く。軸部は全て大面取角柱として長押と貫で固め、内部には舟肘木を入れて桁を受ける。大広間と両脇の座敷は格天井、仏間は中央部を一段折り上げた小組格天井とし、広縁は繋虹梁を架けて化粧屋根裏とする。側廻りの柱間装置は正面と両側面を蔀、背面を漆喰壁とし、正面中央に両折桟唐戸と吹寄菱欄間を配し、各面上部に縦格子欄間を入れる。内部の間仕切りには腰高障子、襖、舞良戸を用いる。基本的には正側面の三方広縁付の大規模な方丈形式に近いが、前方を三分割せずに広壮な空間の大広間としている点に特徴があり、妻飾の虹梁や蟇股等の装飾細部は、近世建築を継承した意匠としている。 大玄関及び庫裏は大講堂の西に北面して建ち、東半が向唐破風造で檜皮葺の車寄せを設けた大玄関、西半が切妻造玄関を有する庫裏である。小屋組は和小屋で、南北棟で煙出付の入母屋造、本瓦葺の大屋根を架け、さらに大講堂側に入母屋造を延ばす。平面は表に一八畳大玄関、奥に一五畳表書院と次の間、応接室、さらに北側の細かく間仕切られた寺務室と土間などで構成され、中廊下で巧みに連絡している。軸部は大面取角柱とし、表書院はトコと違棚を備えた質の高い書院造でまとめ、応接室は窓や腰壁に洋風を付加する。妻飾は二重虹梁と豕叉首の特異な形式で、脚部を広げた力強い蟇股、面取の茨垂木、虹梁絵様や笈形等は繊細で流麗な意匠である。外観や構成は前身庫裏の完全な復原でなく、和風と洋風の接客空間、中廊下式の平面、洗練された細部などに近代的要素がうかがえる。 奥書院は、大講堂の西、大玄関及び庫裏と中庭を挟んだ南方にあり、それぞれと渡廊下で結ばれる。東西棟の入母屋造の桟瓦葺とし、軒廻りは木舞打の二軒疎垂木、妻飾は木連格子、小屋組はトラスである。亀腹基壇に建つ軸部は面取角柱で貫と長押で固め、側廻りに舟肘木を載せる。平面は、最奥に上段の間を構えた一列三室構成で、南と西に高欄を付けた広縁を廻し、北は畳廊下と脇障子付の榑縁とし、東には便所などを設ける。上段の間は、大トコ、棚、付書院ならびに帳台構を備え、蟻壁に折上小組格天井とするなど、本格的な書院造になるが、室境の欄間は幾何学的で繊細な意匠とし、トコ框には螺鈿細工を施すなど、随所に近代らしさをみせる。 小書院は、住職である化主の居住施設で、奥書院の西、大玄関及び庫裏の南西にあり、渡廊下で結ばれている。亀腹風の切石基壇に建ち、南北棟の入母屋造の桟瓦葺で、軒廻りは木舞打の一軒疎垂木、妻飾は木連格子である。平面は北側に八畳間を配して中廊下で区切り、南に畳廊下付の二室を並べた構成で、奥書院に比して全体的に木細く、最奥のトコと棚を持つ六畳座敷も質素である。 護摩堂は、大講堂に向かって南面し、亀腹基壇に建っている。方三間の規模で正面と両側面に刎高欄付切目縁を廻らし、南面中央に木階三級を設ける。軒廻りは木舞打の二軒疎垂木で、本瓦葺の宝形造とする。面取角柱を長押と頭貫で固め、組物は実肘木付の三斗、中備は繊細な彫刻を施した蟇股とする。柱間装置は正面と両側面は中央間を両開板唐戸、脇間を蔀とし、背面は板壁である。内部は一室で、中央部を折り上げた格天井、拭板敷とし、背面側には通し仏壇を構える。肘木の面取、見せかけの梁の鯖尻、蟇股、反りと面取のある垂木など、中世風の意匠や技法になる。 大講堂と護摩堂を連絡する回廊は、折れ曲がり平面の単廊で、柱間に縦連子窓を入れる。屋根は檜皮葺、軒は反り増し付の垂木を用いた木舞打の一軒疎垂木とする。正面の西面五間は、中央間に桟唐戸を設け、実肘木付の三斗で虹梁大瓶束架構の妻飾を受け、軒唐破風をつけて唐門とする。他の軸部は面取角柱に舟肘木で桁を受け、虹梁蟇股架構で棟木を受ける。古代風の蟇股は、各所で形状を微妙に変えるなど、手の込んだつくりになる。 中雀門は、大型の一間薬医門で、切妻造の本瓦葺とし、左右に袖塀を設ける。五平の親柱には冠木を架け、その上下で男梁と女梁を巧妙に組み、板蟇股で棟木を受ける。軒廻りは木舞打の二軒疎垂木で、地垂木には強い反り増しをつける。絵様繰形や板蟇股など、江戸中期らしい細部を備える。 土蔵は境内西奥に離れて建つ。土蔵造、二階建で、東西棟で置き屋根式の切妻造、桟瓦葺とする。外壁は漆喰塗で、内部は一階を根太天井、二階は和小屋の梁組を現している。 長谷寺本坊の建築群は、焼失前の構成や形式を意識し、部分的に継承しながらも、配置や平面の計画、および空間構成の要所に近代らしい合理性が導入されている。文化財保存を通じて熟知した様式をもとに近代の感性で創出された意匠や造形は、精妙で技巧に富んでいるだけでなく、比例や配置も極めて優れており、高度に完成された近代和風建築として高い価値がある。