国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧増田家住宅
ふりがな
:
きゅうますだけじゅうたく
棟名
:
なかえ
棟名ふりがな
:
なかえ
旧増田家住宅 なかえ 外観
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員数
:
1棟
種別
:
近代/住居
時代
:
明治
年代
:
明治6頃
西暦
:
1873頃
構造及び形式等
:
桁行8.5m、梁間7.0m、寄棟造、茅葺、西面下屋付、洗い場附属、おもてとの取合部を含む
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02624
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2014.12.10(平成26.12.10)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
鹿児島県
所在地
:
鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名七七番
保管施設の名称
:
所有者名
:
薩摩川内市
所有者種別
:
市区町村
管理団体・管理責任者名
:
旧増田家住宅 なかえ 外観
解説文:
詳細解説
旧増田家住宅は,鹿児島県北西部に位置する旧武家町,入来麓伝統的建造物群保存地区に所在する。屋敷は,明治6年頃に建てられたおもてとなかえ,大正7年の石蔵,大正期につくられた浴室便所で構成されている。
主屋は,トコのあるザシキのあるおもてと,土間とダイドコロのあるなかえを連結した伝統的な分棟型形式である。おもてとなかえは大きさや位置をほぼ揃えており,この点が近世の武家住宅にみられるかたちと異なっている。
旧増田家住宅は,近世の武家住宅の形式を継承しながらも,平面構成や規模の変化が近代への移行を示唆している点で価値が高い。大正期までに整えられた屋敷構えも含め,入来麓伝統的建造物群保存地区を代表する近代住居として深い意義がある。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧増田家住宅 なかえ 外観
旧増田家住宅 なかえ 内部
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旧増田家住宅 なかえ 外観
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旧増田家住宅 なかえ 内部
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解説文
旧増田家住宅は,鹿児島県北西部に位置する旧武家町,入来麓伝統的建造物群保存地区に所在する。屋敷は,明治6年頃に建てられたおもてとなかえ,大正7年の石蔵,大正期につくられた浴室便所で構成されている。 主屋は,トコのあるザシキのあるおもてと,土間とダイドコロのあるなかえを連結した伝統的な分棟型形式である。おもてとなかえは大きさや位置をほぼ揃えており,この点が近世の武家住宅にみられるかたちと異なっている。 旧増田家住宅は,近世の武家住宅の形式を継承しながらも,平面構成や規模の変化が近代への移行を示唆している点で価値が高い。大正期までに整えられた屋敷構えも含め,入来麓伝統的建造物群保存地区を代表する近代住居として深い意義がある。
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詳細解説
入来町は、鹿児島県北西部の薩摩川内市の内陸部に位置している。市街地は三方を山に囲まれ、川内川に合流する樋脇川の沖積地に展開している。当地は鎌倉時代中期ころから入来院氏が領主として統治したと伝えられ、本拠の清色城が領域のほぼ中央に位置している。 文亀元年(一五〇一)、清色城の裾野には家臣の居住区が配され、麓と称する集落が形成されていた。近世には鹿児島藩の行政区画である外城の一つとなり、一七世紀ころには入来麓として整備されたと考えられ、明治維新に至るまで一貫して入来院氏が統治した。旧武家屋敷地のほぼ全域になる入来麓伝統的建造物群保存地区は、中世集落を基盤として、近世に外城の麓として整備された地割をよく残し、旧武家屋敷を構成する伝統的建造物群が特色ある歴史的風致を良好に伝えており、平成十五年十二月二十五日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 旧増田家住宅は、保存地区のほぼ中央部の西寄り、領主居館(お仮屋)跡の北方に位置している。敷地は主街路と路地で繋がっているが、これはもと宝永四年(一七〇七)創建の延命院の寺地であったことによる。増田家は代々入来麓に居住していた郷士の家柄で、入来院氏とも姻戚関係にあった。敷地には明治六年(一八七三)の刻銘がある石敢當があり、この時に増田家が屋敷を構えたと考えられる。石蔵は一階床下の石束の刻銘から大正七年と判明するが、浴室便所は石蔵と同時期の大正期と推定される。平成二十二~二十四年度の三か年で行われた保存修理工事により、現在のかたちに復された。旧増田家住宅は、平成二十一年十月二十三日付で薩摩川内市の有形文化財に指定された。 敷地は東西にやや細長い長方形で、東の街路と通じる路地が東辺中央で鉤型に折れて主屋南の庭に至る。南面して建つ主屋は、東側の桁行八・八メートル、梁間七・九メートルのおもてと、西側の桁行八・五メートル、梁間七・〇メートルのなかえからなる分棟型である。 おもては南北棟の寄棟造茅葺で南・東・北の三面に桟瓦葺の庇を廻し、なかえは東西棟の寄棟造茅葺で西面に桟瓦葺の下屋を延ばし、さらに洗い場を付ける。おもての平面は整形四間取で、接客の用に供される。前側の東に八畳のツギノマと西に六畳のウチザを並べ、ツギノマ後方にはトコ付の六畳のザシキ、ウチザ後方には四畳半のナンドを配し、ツギノマ前面には縁を切り欠いてゲンカンを設け、ザシキからナンドにかけては下屋を設ける。なかえは生活の用に供されるが、一二畳大で囲炉裏のあるナカエと土間からなり、さらに下屋を設けて広い洗い場とする。おもてとなかえの接続部は、竹樋を渡したトイノマで、床は幅広の厚板とする。入来麓では、おもてとなかえの表側の柱筋を一間から一間半ずらすのが近世の一般的な形式とするのに対し、旧増田家では柱筋の差が二尺程度である。この食い違いの少なさは、おもての梁間が大きくなることと併せて、近代的な変化と考えられる。 軸部は面取角柱を自然石に立て、貫や差物で固め、おもてのザシキとツギノマは長押を廻す。おもてのザシキとツギノマは棹縁天井、ウチザとナンドは根太天井、庇や下屋は化粧屋根裏である。なかえは天井を張らずに架構を現す。小屋組は大正期に緩勾配の和小屋に替えられていたが、修理における敷梁両端の傾ぎ枘の痕跡調査や、周辺の類例調査より、急勾配の叉首組に復旧された。また、おもてとなかえの取合部にある竹樋は類例にならって整備された。 敷地北東隅にある石蔵は、桁行六・〇メートル、梁間三・九メートル、南北棟の切妻造、桟瓦葺で、小屋は和小屋である。西面中央の出入口に両開扉を設け、下屋庇を設ける。二階建であるが、床下を地下室風に扱い、東面に出入口を設ける。凝灰岩の切石積で、一階床下は凝灰岩の石束を立てる。各階とも根太床で、小屋は梁行梁に束を立てて棟木と桁を受け、軒先に蛇腹を廻す。 なかえの南に建つ浴室便所は、桁行四・八メートル、梁間三・〇メートル、東西棟の切妻造、桟瓦葺である。北面に出入口を設け、中通路を境として、東側を浴室、西側を便所とする。構造は腰までを切石積、上部を木造とし、浴室の釜部と焚口を煉瓦積、各室に棹縁天井を張る。 旧増田家住宅は、明治初期に建てられたおもてとなかえからなる分棟型民家で、復原された小屋組を除いて当初部材をよく残しており、近世以来の伝統的な武家住宅の形式を継承しながらも、平面構成や規模の変化が近代への移行を示唆している点で価値が高い。組積造で二階建の石蔵もこの地方の特徴ある蔵で、浴室便所とともに、大正期までに整えられた屋敷構えを含め、入来麓伝統的建造物群保存地区を代表する近代住居として深い意義がある。