国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
中村家住宅
ふりがな
:
なかむらけじゅうたく
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
おもや
中村家住宅 主屋 外観
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員数
:
1棟
種別
:
近代/住居
時代
:
明治
年代
:
明治20
西暦
:
1887
構造及び形式等
:
木造、建築面積340.40㎡、一部二階建、西面及び東面庇付、桟瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
2629
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2015.07.08(平成27.07.08)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
所在都道府県
:
福井県
所在地
:
福井県南条郡南越前町河野一字北ノ町五五番
保管施設の名称
:
所有者名
:
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
中村家住宅 主屋 外観
解説文:
詳細解説
中村家住宅は,越前海岸沿いの狭隘な河野浦にある。北前船主の大規模邸宅で,敷地は西に敦賀湾をのぞみ,村道を挟んで山側に主屋,新座敷等,海側に土蔵群が並んでいる。主屋は明治20年の建築である。高大なダイドコロと狭いニワ,簡明な本座敷に近世以来の伝統形式を継承しつつ,明かり窓や中廊下式の接客部などに近代的な萌芽が窺える。新座敷は大正2年の建築で,望楼を持つ三階建とし,繊細な数寄屋意匠を駆使したつくりになる。土蔵群は,ケヤキを多用するなど,近代的な指向も見られる。
中村家住宅は,充実した質と規模を有する主屋,趣向を凝らした繊細な意匠になる三階建の新座敷など,近代的な形式や造形が導入された和風建築として価値がある。屋敷構成は伝統を継承しつつも近代の発展過程を内包しており,宅地と併せて保存を図る。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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中村家住宅 主屋 外観
中村家住宅 主屋 台所
中村家住宅 主屋 中の間次の間
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中村家住宅 主屋 外観
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中村家住宅 主屋 台所
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中村家住宅 主屋 中の間次の間
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解説文
中村家住宅は,越前海岸沿いの狭隘な河野浦にある。北前船主の大規模邸宅で,敷地は西に敦賀湾をのぞみ,村道を挟んで山側に主屋,新座敷等,海側に土蔵群が並んでいる。主屋は明治20年の建築である。高大なダイドコロと狭いニワ,簡明な本座敷に近世以来の伝統形式を継承しつつ,明かり窓や中廊下式の接客部などに近代的な萌芽が窺える。新座敷は大正2年の建築で,望楼を持つ三階建とし,繊細な数寄屋意匠を駆使したつくりになる。土蔵群は,ケヤキを多用するなど,近代的な指向も見られる。 中村家住宅は,充実した質と規模を有する主屋,趣向を凝らした繊細な意匠になる三階建の新座敷など,近代的な形式や造形が導入された和風建築として価値がある。屋敷構成は伝統を継承しつつも近代の発展過程を内包しており,宅地と併せて保存を図る。
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詳細解説
中村家住宅 10棟 主屋、新座敷、背戸蔵、新蔵、西蔵、バンゲグラ、前蔵、米蔵、塩物蔵・浜蔵、正門 中村家住宅は、福井県のほぼ中央に位置する南越前町の西方、越前海岸沿いの狭隘な河野浦に所在している。河野浦は越前西街道(馬借街道)と通じ、国府と直結する港であったことから、古くから敦賀港との物資輸送の中継地として重要な役割を担った。 中村家は室町時代に当地へ移り住んだと伝え、江戸時代は河野浦の高持家のひとつで、代々三郎右衛門を名乗り、江戸後期には巡見使や福井藩主の上使宿を務めた家柄であった。廻船業も江戸初期から手掛けたが、江戸末期から明治期にかけては北前船主として財をなした。江戸末期以降の北前船廻船の隆盛に伴って、河野浦には北前船主の大規模な住宅がつくられた。南ノ町の南端には右近権左衛門家住宅、中村家の北には元禄期に分家した中村吉右衛門家住宅、その北には刀禰新左衛門家住宅があり、北前船主の集落景観を形成している。 西に敦賀湾を臨む敷地は、南北に通る道で西と東に別れ、西が海岸線、背後となる東が急峻な崖地で区切られ、それぞれ南北に細長い形状である。山側の東には北より新蔵、主屋、新座敷、背戸蔵が並び建ち、道を挟んだ海側の西には正門を構え、その北に西蔵とバンゲ蔵、南に前蔵と米蔵を配し、さらに西に塩物蔵・浜蔵を備えている。正門は主屋の式台玄関と通じており、西側の土蔵群は主屋側に正面を向けている。 建築年代は、中村家の所蔵文書より主屋が明治二〇年で最も古く、背戸蔵は主屋と同じ明治二〇年であるが、大正二年に南へ移動した。さらに所蔵文書より、新蔵は明治二四年、新座敷が大正二年の建築と判明する。西側にある正門と各土蔵は明確な年代を欠くが、主屋と同時期の明治中期とみられる。塩物蔵・浜蔵は海岸を埋め立てて拡張した明治二九年以降、明治後期と判断される。いずれにせよ、明治四三年六月撮影の古写真から、現存する建築群がそれまでに完備していたことがわかる。 主屋は、南北棟の切妻造、全長31.7mと長大な平入で、西面して建つ。南側の桁行18.5mは二階建で、西・南・東に庇を設ける。北側の桁行13.3mは平屋建で、西・北・東に庇を廻して、北面東半を突出する。屋根はすべて桟瓦葺である。主屋の一階は南半を玄関と狭い土間床のニワ、その奥を広大な板敷のダイドコロとし、東面にコエン、ヘヤ、ミズヤを配する。中央の式台玄関の奥には中の間、オイエ、ナンドが続き、その北の西側に次の間と本座敷、東側に仏間、隠居間を配し、北側に休足の間を突出する。ダイドコロ中央部は太い六本の柱を立ち上げ、梁組をあらわして吹き抜けの高大な火袋をつくる。高大な火袋は、長い冬を室内で暮らす北陸の風土が生み出したものと考えられる。その西・北・東の三方に二階の居室を配置するが、二階は大きさや座敷飾が異なる座敷からなり、これに使用人部屋を加える。二階建部は弁柄塗を施した上質のケヤキ普請、平屋建部は素木のトガ普請である。 三階建の新座敷は、一階と二階が東西9.7m、南北4.6mの同規模で、三階の望楼は方3.7mの寄棟造、屋根は桟瓦葺である。一階と二階は八畳の主座敷と次の間からなる構成で、棹縁天井を張り、東と西に化粧屋根裏の縁を設ける。三階は、東面に床・棚を飾った六畳で、棹縁天井を張り、軒も出桁造の扇垂木一軒とする。南・西・北の三面は窓として海に臨み、高欄付の縁を廻らし、南面東に脇障子を設ける。二階北東隅の踊り場から登る階段は、巧緻につくった湾曲部を持ち、手摺を洋風とする。一階と二階はツガ普請であるが、座敷飾にモミジ、ケヤキ、カリン、シタンなどの銘木を用いて趣向を凝らし、異なる意匠の床・棚として変化をつけている。 背戸蔵は、桁行9.4m、梁間4.4m、東面に下屋庇を設けて扉口とする。窓には桟瓦葺の小庇を付け、軒は漆喰で塗り込める。内部は各階とも一室とし、真壁造、漆喰塗である。 新蔵は、桁行5.7m、梁間3.6m、西面に下屋庇を設けて扉口とする。側廻りは半間ごとに通し柱を入れ、軒廻りは漆喰で塗り込める。内部は各階とも一室である。 西蔵は、桁行7.5m、梁間5.6m、東面に設けた下屋庇は扉口を漆喰壁で囲う。北と西の外壁は簓子下見板張とし、各階とも一室の内部は腰を横羽目板張、上を漆喰塗とする。二階の西面には二つの円窓をつくる。 背戸蔵と新蔵及び西蔵は、東西棟の切妻造、桟瓦葺、妻入の土蔵造で、家財道具類を収納した。いずれも堅牢なつくりの二階建で、柱や梁には上質のケヤキを用い、和小屋で弓状に反った小屋梁を入れ、棟木から桁に太い垂木を架ける点で共通している。 バンゲ蔵は、桁行3.3m、梁間5.6mである。当地ではバンゲを「焚きもの」という意味で用いられている。一階は土間床の東側には薪などを収納し、板床の西側には道具類を収納し、二階は間仕切のない一室である。正面の東に下屋庇付の扉口を設けるが、南面にも片引き板戸を入れ、南面と西面を縦羽目板張で覆う。 前蔵は、桁行4.5m、梁間7.5m、各階とも一室で、家財道具類を収納した。東面の扉口に庇を設け、北面は腰を海鼠壁、西面と南面の一部は黒塗の簓子下見板張とする。軒には鉢巻を廻し、二階北面窓には唐破風を模した庇を付ける。 米蔵は、桁行5.5m、梁間6.5m、各階とも一室である。柱や梁は上質のケヤキで、腰を横羽目板張、上を漆喰塗とする内部は西蔵と同じである。軒裏と螻羽は漆喰塗り込めで、鉢巻を廻す。西面と南面は外壁を黒塗の縦羽目板張で覆う。 バンゲ蔵と前蔵及び米蔵は、用途が違うため、規模が異なるが、南北棟の切妻造、桟瓦葺、二階建で平入の土蔵造で共通している。 塩物蔵・浜蔵は、桁行9.5m、梁間4.1mの二階建、土蔵造である。南半を浜蔵、北半を塩物蔵としてそれぞれに階段を設けるが、一階と二階で間仕切位置を変える。南北棟の切妻造、桟瓦葺、平入で、東に下屋庇を設けて扉口をつくり、南・西・北の三面は外壁の腰を簓子下見板張とし、蔵前の腰は目板張とする。浜蔵の西面には片引板戸の開口部を開ける。 正門は、一間薬医門で、一軒半繁垂木、切妻造、桟瓦葺である。門口は2.4m、両側に板葺の袖塀を設け、床には煉瓦を敷き詰めている。柱から冠木、扉板まで上質のケヤキを用いている。 袖門及び北塀は、主屋の式台玄関から新蔵までを連結し、本座敷の表庭と道を区画する。北塀は延長11.5m、土塀で南と北に矩折れで潜口をつくり、桟瓦葺屋根を架ける。 中門及び南塀は、主屋南西隅と背戸蔵を連結して、新座敷の表庭と道を区画する。中門は切妻造の一間腕木門、土塀の南塀は折曲がり延長11.8m、ともに桟瓦葺である。 主屋は、上部が火袋の高大なダイドコロと狭いニワの構成、簡明なつくりの本座敷などに、近世以来の伝統形式が継承されているが、採光の明かり窓、中廊下式とした接客部や二階居室部の構成などには近代的な萌芽が窺える。新座敷は繊細な数寄屋意匠を駆使したつくりで、海側の三階の望楼は近代らしい趣向に凝っている。主屋を普請した大工棟梁は、近在の丹生郡別所村の田中長八とわかり、新蔵の普請にも関係していた。これに対し、新座敷の普請は敦賀の吉田吉之助が棟梁で、大阪の藤原又一など、多くの大工が加わったことがわかり、凝った数寄屋の意匠と造形には遠方からの優れた大工の登用があった。また、主屋と土蔵群が道を挟んで対面する配置は、潮風から主屋を防御する伝統であるが、個々の蔵は上質なケヤキを多用するなど、近代の指向が導入されている。 中村家住宅は、北陸地方を代表する北前船で財をなした船主の大規模邸宅であり、充実した質と規模を有する主屋、趣向を凝らした繊細な意匠になる三階建の新座敷など、近代的な形式や造形が導入された和風建築として高い価値がある。土蔵群を含めた屋敷構成は、気候風土から生成された伝統を継承しつつも、近代の発展過程を内包しており、土地と併せて保存を図る。 【参考文献】 『福井県の近代和風建築ー福井県近代和風建築総合調 査報告書』(福井県教育委員会 二〇一二年) 『中村家住宅調査報告書』(南越前町教育委員会 二〇一五年)
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袖門及び北塀
中門及び南塀
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附名称
:
袖門及び北塀
附員数
:
一棟
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附名称
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中門及び南塀
附員数
:
一棟