国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧亀岡家住宅
ふりがな
:
きゅうかめおかけじゅうたく
棟名
:
棟名ふりがな
:
旧亀岡家住宅 外観(南西から見る)
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員数
:
1棟
種別
:
近代/住居
時代
:
明治
年代
:
明治37頃
西暦
:
1904頃
構造及び形式等
:
座敷部 木造、建築面積222.99㎡、二階建、塔屋及び尖塔、二基付。居住部 木造、建築面積194.91㎡。総桟瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02643
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2016.07.25(平成28.07.25)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
所在都道府県
:
福島県
所在地
:
福島県伊達市保原町大泉字宮脇265番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
伊達市
所有者種別
:
市区町村
管理団体・管理責任者名
:
旧亀岡家住宅 外観(南西から見る)
解説文:
詳細解説
旧亀岡家住宅は,蚕種製造を手がけた亀岡家が明治37年頃に桑折町に建てた住宅を,平成7年に保原総合公園内に移築したものである。福島県技手の江川三郎八が設計に関与し,地元の大工小笠原国太郎が施工したとみられる。
外観は,正面中央に半八角形平面の塔屋状の突出部を持つなど,明治期の当地方における木造洋風建築に通ずる威風を備えている。一方で,内部は和風の座敷を中心に構成し,銘木を多用して造作に技巧を凝らすなど,外観,内部ともに優れた意匠でまとめている。福島県技術者と地元大工の協働により成立した独創的な造形には,地方的特色も認められ,東北地方における近代建築の展開を理解する上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧亀岡家住宅 外観(南西から見る)
旧亀岡家住宅 座敷部二階東四室(南西から見る)
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旧亀岡家住宅 外観(南西から見る)
写真一覧
旧亀岡家住宅 座敷部二階東四室(南西から見る)
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解説文
旧亀岡家住宅は,蚕種製造を手がけた亀岡家が明治37年頃に桑折町に建てた住宅を,平成7年に保原総合公園内に移築したものである。福島県技手の江川三郎八が設計に関与し,地元の大工小笠原国太郎が施工したとみられる。 外観は,正面中央に半八角形平面の塔屋状の突出部を持つなど,明治期の当地方における木造洋風建築に通ずる威風を備えている。一方で,内部は和風の座敷を中心に構成し,銘木を多用して造作に技巧を凝らすなど,外観,内部ともに優れた意匠でまとめている。福島県技術者と地元大工の協働により成立した独創的な造形には,地方的特色も認められ,東北地方における近代建築の展開を理解する上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
旧亀岡家住宅 一棟 福島県伊達市 伊 達 市 旧亀岡家住宅は、伊達市保原町の保原総合公園内に所在する。元は現在地より三・八キロメートルほど北の桑折町大字伊達崎にあった亀岡家の主屋を移築したものである。 亀岡家は、明治初期に亀岡金太郎が本家亀岡源四郎家から分家して成立し、以後蚕種製造で財をなした農家で、金太郎の婿養子亀岡正元の代である明治中期には本家を凌ぐ地元有数の豪農となった。 建物は、接客のために多くの座敷を備えた住宅として計画され、文書から明治三七年頃には完成していたとみられる。正元の構想を基本に、設計には福島県技手の江川三郎八が関与し、施工は飯坂町の大工小笠原国太郎が行ったとみられる。江川三郎八(一八六〇~一九三九)は、会津藩御普請方小奉行を務めた藩士の家に生まれ、大工修行の後明治二〇年に福島県雇、同二四年に福島県の技手となり、以降福島県庁で同三五年まで公共建築の設計及び現場監督をつとめた。明治三五年には岡山県へ転任し、旧遷喬尋常小学校校舎(明治四〇年 重要文化財)、旧旭東幼稚園園舎(明治四一年 重要文化財)など県内の学校建築を中心に数多くの公共建築の設計、工事監理を行った。 建物は住宅として使用された後、戦後は紡績工場や結婚式場として使われたが、昭和六一年に隣町の保原町(現伊達市)に建物が寄贈され、解体格納された。平成五年から現位置で組立工事がはじまり、同七年三月に竣工した。工事完了後の平成八年三月二二日付けで福島県重要文化財に指定された。 建物は、公園のほぼ中央に南面して建つ。座敷部とその背面やや西寄りに接続する居住部よりなる。 座敷部は木造、桁行一七・七メートル、梁間一二・三メートル、二階建で、屋根は寄棟造桟瓦葺とし、正面中央に塔屋、大棟両端に尖塔二基、中央に装飾の煉瓦造煙突を付す。居住部は木造平屋建、桁行一四・九メートル、梁間一二・五メートルで、屋根は北面を破風の小さな入母屋造桟瓦葺とし、東面に煉瓦造煙突、北面屋根に宝形造の明かり取りを突き出す。小屋組はいずれもクイーンポストトラスに近い形とするが、下弦材として丸太の梁を架け渡すなど和小屋の要素も混在する。 平面は、座敷部一階は南面中央に玄関を開き、玄関東の内玄関、四畳半の奥へ伸びる廊下を挟んで東に洋室と和室二室、西に一五畳二室、六畳、一〇畳の四室を田の字形に並べ、外周部西から南面に板敷の廊下を廻らす。二階は一階北の階段から登り、中央廊下を挟んで東に田の字形に一〇畳四室、西に一五畳を二室並べ、四周に板敷の廊下を廻らす。南面突出部には回り階段を置き、八角形平面の塔屋へ至る。居住部は東半南を土間と板間の炊事場とし、北を井戸と石敷の洗場を持つ台所とする。西半は主人の座敷で、南に一五畳、北に一〇畳を並べ、東を除く三方に板敷の廊下を廻らし、西面中央に便所を付す。 外観は、座敷部は石積布基礎上に土台を伏せ、柱や楣などを現しとし、小壁には襷状に飾りの筋違を入れ、鉄格子付の引違ガラス窓を並べて壁は銅板張とし、一階に水切蛇腹、二階に持送付の軒蛇腹を廻らすなど、洋風の意匠とする。特に南面中央の玄関部は一階から二階まで半八角形に張り出し、正面柱二本を垂下柱とし、内寄りにアーチを架けて折上格天井を支持するなど装飾的に見せる。これらの技法は福島県内の明治期の公共建築や、後に江川三郎八が岡山県で建てた公共建築に類似性が見いだせる。居住部は、布基礎上の土台に柱を立てるのは共通だが、壁は真壁漆喰塗あるいは竪板張とやや簡素である。 内部は、外観とは対象的にほぼ純粋な和風要素で構成されるが、座敷部南西に板敷で腰壁付の洋室を設け、部屋境の襖以外をガラス障子とするなど一部に洋風技法を取り込む。座敷部一階の西一五畳は、スギを主材とし、天井は格間の大きな折上格天井で、幅広の床、付書院とクロガキによる違棚を備える。二階の東一〇畳北の床廻りは最も意匠密度が濃く、床脇の西壁を斜交いにして違棚と天袋を付し、奥に明障子、床の東面に付書院を付す。上下に分断された床柱はカリン、床框はタガヤサン、床板はケヤキ、違棚、天袋、窓はクロガキなど様々な銘木を用いる。居住部の座敷はケヤキを主材として用い、床廻りの地板に亀や鶴の形の埋木を意匠的に施す。天井は格間の大きな折上格天井で、幅広のケヤキ板を嵌め、透漆塗とする。その他、障子戸の亀甲紋の組子、階段まわりの簓桁や棹縁天井にみられる曲面的な造作など、随所に優れた大工技術を見せる。 旧亀岡家住宅は、外観を洋風としながら内部は和風で統一するという対比的な構成を持つ大規模な上層住宅で、明治期における木造洋風公共建築に通ずる威風を備えた外観、良材や技巧を駆使した内部の和風座敷など、意匠的に優れている。福島県技術者と地元大工の協働により成立した独創的な造形には、当地の明治期洋風建築の特徴も認められ、福島県の近代建築の展開を理解する上で重要である。 【参考文献】 『旧亀岡家住宅調査及び移築保存工事報告書』(福島県伊達郡保原町・保原町教育委員会 一九九六年) 清水重敦「旧亀岡家住宅とその設計者、施工者」(日本建築学会学術講演梗概集(近畿) 二〇〇五年) 『福島県の近代化遺産』(福島県教育委員会 二〇一〇年)