国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧中島家住宅
ふりがな
:
きゅうなかじまけじゅうたく
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
おもや
旧中島家住宅 全景(南より望む)
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員数
:
1棟
種別
:
近代/住居
時代
:
昭和
年代
:
昭和5
西暦
:
1930
構造及び形式等
:
車寄部 木造、建築面積253.70㎡
客室部 木造、建築面積243.55㎡
居間部 木造、建築面積213.49㎡、二階建
食堂部 木造、建築面積185.11㎡
総桟瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02644
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2016.07.25(平成28.07.25)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
群馬県
所在地
:
群馬県太田市押切町1417番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
太田市
所有者種別
:
市区町村
管理団体・管理責任者名
:
旧中島家住宅 全景(南より望む)
解説文:
詳細解説
旧中島家住宅は,戦前の航空機産業を牽引した中島飛行機製作所社主の中島知久平が建てた大規模住宅で,設計は宮内省内匠寮出身の中里清五郎と伊藤藤一により,主屋が昭和5年に完成し,翌年には敷地内の建物が概ね整った。
主屋は,和洋の意匠を巧みに折衷した車寄部,雄大で気品ある内部空間の客室部,利根川河川敷に設けた飛行場を眺望した二階建の居間部など,用途の異なる建物を口字形に配して中庭を囲むという,当時の大規模邸宅の特徴を良く示している。我が国の昭和初期を代表する邸宅として,規模,意匠とも充実しており,価値が高い。敷地内には当時の素封家の生活様態を示す附属施設もよく保存されており,土地とともに保存を図る。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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旧中島家住宅 全景(南より望む)
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解説文
旧中島家住宅は,戦前の航空機産業を牽引した中島飛行機製作所社主の中島知久平が建てた大規模住宅で,設計は宮内省内匠寮出身の中里清五郎と伊藤藤一により,主屋が昭和5年に完成し,翌年には敷地内の建物が概ね整った。 主屋は,和洋の意匠を巧みに折衷した車寄部,雄大で気品ある内部空間の客室部,利根川河川敷に設けた飛行場を眺望した二階建の居間部など,用途の異なる建物を口字形に配して中庭を囲むという,当時の大規模邸宅の特徴を良く示している。我が国の昭和初期を代表する邸宅として,規模,意匠とも充実しており,価値が高い。敷地内には当時の素封家の生活様態を示す附属施設もよく保存されており,土地とともに保存を図る。
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詳細解説
旧中島家住宅 四棟 主屋、土蔵、氏神社、正門及び門衛所、土地 群馬県太田市 太 田 市 旧中島家住宅は、利根川左岸の自然堤防上に、約一万平方メートルに及ぶ敷地を占める。施主の中島知久平は、我が国の航空機産業黎明期を牽引した中島飛行機製作所を創設した実業家で、本住宅は中島家の本邸として建設された。利根川河川敷にはかつて中島飛行機製作所の飛行場が設けられ、屋敷から、飛行場を離着陸する航空機を眺めることができた。この住宅は中島飛行機製作所の接客に用いられるとともに、主として知久平の両親が居住した。設計は宮内省内匠寮出身の中里清五郎と伊藤藤一を中心として大正一五年に開始された。昭和五年四月に主屋が上棟され、翌六年には附属建物の整備も行われた。 敷地は東辺に屈曲を持つ不等辺五角形で、周囲を鉄筋コンクリート造の外塀で囲繞し、西辺に門衛所を備えた正門を構える。敷地南側に芝庭が広がり、北寄りに主屋を、主屋の東に土蔵を接続して建てる。敷地北西隅には氏神社を祀り、北辺に沿って西から番頭部屋、洗濯場、高架水槽及びポンプ室、外便所、変電所、附属屋といった附属建物を並べる。また主屋車寄部南西端から折曲がりに西方へ塀を延ばし、中央付近に中門を開ける。旧中島家住宅は、平成二一年五月二〇日付けで太田市重要文化財に指定されている。 主屋は、西面する車寄部、南側に客室部、東に居間部、北に食堂部の四棟を口字形に並べて廊下や縁によって接続し、「中庭園」に池泉庭園を作る。 車寄部は、平屋建、入母屋造、桟瓦葺、建築面積二五三・七〇平方メートルの南北棟で、中央に大きな唐破風造の「車寄」を張り出し、西面南端の切妻破風の妻に二重虹梁蟇股を飾る。車寄は屋根を銅板葺とし、唐戸面取角柱を立てて三斗を組み、中備に蟇股を配する。主体部の軸部は角柱を立て、柱上に舟肘木を置く。平面は車寄から玄関を経て「広間」に至り、その南に「第二応接室」と「第一応接室」、北には「事務室」、「内玄関」、「書生室」、「便所」が各々南北に並び、東に廊下を通す。広間は床を寄木張にして、柱上に大斗と実肘木を、中備に蟇股を置き、吹寄格天井とし、シャンデリアを吊る。第一応接室と第二応接室は二室続きの洋間としても使えるようになっており、それぞれフルーティングを施した柱形を並べて、腰に嵌板を張り、壁上部に布張、天井際にコーニス状の装飾を付ける。天井は梁形を表して内側に漆喰飾を施し、中央にシャンデリアを吊る。床は寄木張で、両室とも東面にマントルピースを設ける。窓は上下窓で、上部にはステンドグラスの欄間を嵌める。 客室部は南面して建つ、平屋建、入母屋造、桟瓦葺、建築面積二四三・五五平方メートルの東西棟で、銅板葺の庇を廻らす。車寄部の廊下南端から東に廊下を延ばし、南に二八畳と二一畳の二室を配する。東を床、棚、書院を備えた「客間」、西を「次之間」とする。柱には床柱も含めてヒノキの角材を用い、内法長押と蟻壁長押を廻す。いずれも畳敷で、折上格天井にシャンデリアを吊る。室内の壁や襖には波や雲、千鳥を描き、華やいだ意匠とする。室境には緻密な組子欄間を嵌める。内法を高め、座敷飾も大振りで、客間の床では框を一段高く据えて広壮な内部空間との調和を図る。三方を廻る入側縁は榑縁とするが、当初は室内側の一間分を畳敷としていた。北西に「表両便所」を付属する。 居間部は、二階建、入母屋造、桟瓦葺、建築面積二一三・四九平方メートルの東西棟で、二階軒先と、一階下屋を銅板葺とする。一階は「居間」と「仏間」を東西に並べ、居間は東に、床、棚、書院を備える。居間、仏間とも、天井は幅広の厚板を大和張とする。四周を縁や廊下で囲み、北東隅に土蔵の蔵前部分を有し、便所を付属する。北側西寄りに納戸と階段を配し、さらに北側には「化粧室」、「脱衣室」、「浴室」を設ける。二階は大振りの床を構えた「座敷」と、西に「次之間」を配し、東西南三方に縁を廻らす。座敷は棹縁天井とし、北面東に床、西に棚を設けて丸窓を開けて上部を網代天井とする。次之間の襖には四季の草花を描く。 食堂部は、南面して建つ、平屋建、寄棟造、桟瓦葺、建築面積一八五・一一平方メートルの東西棟で、南面の軒先を銅板葺とする。平面は廊下で東西に二分され、東半は知久平の両親のための「食堂」と「茶之間」、西半を「女中室」二室とし、北に「厨房」と「出入口」、便所を備える。食堂は畳敷、折上格天井で、東側に小規模な床と棚を設ける。茶之間は棹縁天井とする。 土蔵は主屋と同じく昭和五年の建設である。木造、二階建、切妻造、桟瓦葺、建築面積三九・六七平方メートルの東西棟で、居間部北東隅の蔵前に接続して妻入とする。土台上に柱を立て、小屋はキングポストトラスを組む。軸部の外側に壁や鉢巻、水切、窓枠を鉄筋コンクリートで作った上で漆喰塗とし、屋根は野地板上に鉄網コンクリートを打つ。内壁は板張とする。出入口は、一階西面中央に戸口を設けて鉄扉を吊る。一、二階とも、東南北の三方に窓を開け、木製の庇を付ける。 氏神社は敷地の北西隅に南面して建ち、昭和五年一二月に地鎮祭を行った記録より、この頃の建設である。切石積基壇上に建つ一間社流造で、軒は二軒繁垂木、屋根を銅板葺とする。組物は舟肘木で、妻飾は虹梁に大瓶束を立てて棟を受け、虹梁下に蟇股を中備として配する。渦文などを彫らず装飾を抑えるが、蟇股や脇障子の竹の節欄間、刎高欄などは伸びやかな意匠を見せる。 正門は、昭和六年に建設された。間口三・六メートルの一間薬医門、切妻造、本瓦葺で、北方に潜戸、南方に袖塀が付く。良材を用いて木太い軸部を持ち、門扉にはケヤキの一枚板を用いて重厚な表構えを見せる。北側に付属する門衛所は、棟札より昭和六年七月上棟である。木造平屋建、入母屋造、桟瓦葺、建築面積一九・八三平方メートルで、西正面に板葺の出格子を張り出す。 番頭部屋は氏神社の東に東西棟で建つ。平屋建、切妻造、桟瓦葺で、桁行六・四メートル、梁間三・六メートルである。内部は二室からなるが、もとは東に風呂場を併設していた。その東には高架水槽が設けられ、基部の一辺が一・八メートル、鉄骨造、高さ六・一メートルで、上部にタンクを置く。当初より上下水道と電気に関わる施設が整備されており、これら設備が良く保存されている。 附属屋は、敷地北東隅に南北棟で西面して建つ。木造、平屋建、切妻造、桟瓦葺で、桁行一三・二メートル、梁間四・五メートルの建物である。内部は使用人の作業場などに用いられた四室と便所等からなる。 外塀は、鉄筋コンクリート造、桟瓦葺で、総延長は三八〇・二メートルを測る。基部は外周道路のなだらかな傾斜に合わせて高さを変え、切石積風の石張とする。 中門は、切妻造、間口二・〇メートル、桟瓦葺の一間腕木門である。塀は木造、桟瓦葺、総延長三三・六メートル、下部を簓子下見板張、上部漆喰塗で、控柱を持つ。 旧中島家住宅主屋は、宮内省出身の技術者により設計され、和洋の意匠を巧みに折衷した応接施設である車寄部、大床を構え、気品ある内部空間を創る客室部、飛行場への眺望と日常生活を意図した居間部などからなる。機能を明確に区分した建物を口字形に配して中庭園を囲むという、当時の大規模邸宅の特徴を良く示し、我が国の昭和初期を代表する邸宅として、規模、意匠とも充実しており価値が高い。敷地内には当時の素封家の生活様態を示す附属施設もまとまって残り、土地とともに保存を図る。 【参考文献】 『群馬県の近代和風建築 群馬県近代和風建築総合調査報告書』(群馬県教育委員会 二〇一二年) 『中島知久平邸調査報告書二〇一五』(群馬県太田市教育委員会 二〇一五年) 『中島知久平邸整備工事報告書二〇一五』(群馬県太田市教育委員会 二〇一五年)
関連情報
附指定
番頭部屋
附属屋
外塀
中門及び塀
関連情報
附指定
附名称
:
番頭部屋
附員数
:
一棟
関連情報
附指定
附名称
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附属屋
附員数
:
一棟
関連情報
附指定
附名称
:
外塀
附員数
:
一棟
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附名称
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中門及び塀
附員数
:
一棟