国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
雑司ケ谷鬼子母神堂
ふりがな
:
ぞうしがやきしもじんどう
棟名
:
棟名ふりがな
:
雑司ヶ谷鬼子母神堂 拝殿 外観(南東から見る)
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/神社
時代
:
江戸中期
年代
:
寛文4/元禄13
西暦
:
1664/1700
構造及び形式等
:
本 殿 桁行三間、梁間三間、一重、流造、
相の間 桁行三間、梁間一間、一重、両下造、
拝 殿 桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風付
総銅板葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02646
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2016.07.25(平成28.07.25)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
(三)歴史的価値の高いもの
所在都道府県
:
東京都
所在地
:
東京都豊島区雑司が谷三丁目
保管施設の名称
:
所有者名
:
法明寺
所有者種別
:
寺院
管理団体・管理責任者名
:
雑司ヶ谷鬼子母神堂 拝殿 外観(南東から見る)
解説文:
詳細解説
雑司ヶ谷鬼子母神堂は,江戸時代を通じて安産などの鬼子母神像信仰により庶民の崇敬を集めた。鬼子母神堂は,本殿の前面に相の間を介して拝殿を接続する複合建築である。本殿は寛文4年(1664)に広島藩主浅野光晟の正室,自昌院の寄進により建立され,細部に安芸地方の社寺建築の特徴を示す。
拝殿は元禄13年(1700)の建立で,豊かな装飾をもち,正面一間を吹き放しとするなど近世建築らしい華やかな礼拝空間を創出する。
雑司ヶ谷鬼子母神堂は,建立年代が明らかで,江戸における大名家による寺社造営状況や,拝殿組物を略式に改めるなど幕府による建築規制への対応過程をよく示しており,歴史的価値が高い。
※「鬼」は上の点がない文字。
関連情報
(情報の有無)
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添付ファイル
なし
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雑司ヶ谷鬼子母神堂 拝殿 外観(南東から見る)
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雑司ヶ谷鬼子母神堂 拝殿 外観(南東から見る)
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解説文
雑司ヶ谷鬼子母神堂は,江戸時代を通じて安産などの鬼子母神像信仰により庶民の崇敬を集めた。鬼子母神堂は,本殿の前面に相の間を介して拝殿を接続する複合建築である。本殿は寛文4年(1664)に広島藩主浅野光晟の正室,自昌院の寄進により建立され,細部に安芸地方の社寺建築の特徴を示す。 拝殿は元禄13年(1700)の建立で,豊かな装飾をもち,正面一間を吹き放しとするなど近世建築らしい華やかな礼拝空間を創出する。 雑司ヶ谷鬼子母神堂は,建立年代が明らかで,江戸における大名家による寺社造営状況や,拝殿組物を略式に改めるなど幕府による建築規制への対応過程をよく示しており,歴史的価値が高い。 ※「鬼」は上の点がない文字。
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詳細解説
雑司ヶ谷鬼子母神堂 一棟 東京都豊島区 宗教法人法明寺 雑司ヶ谷鬼子母神堂は池袋駅の南方約一キロメートルの地にあって、日蓮宗法明寺に属している。南の参道には欅並木があり、鬼子母神堂は平坦な境内の北寄りにほぼ南東を正面として建つ。 鬼子母神は古くから児女を護る善神として信仰され、子宝や安産などが祈念されてきた。雑司ヶ谷鬼子母神堂の由来は、永禄四年(一五六一)に鬼子母神像が出現したことに始まり、天正六年(一五七八)に雑司ヶ谷の村人の手で建てられた草堂に安置された。寛永二年(一六二五)には社殿の造営があり、正保三年(一六四六)には宮殿が寄進された。鬼子母神像が託された法明寺塔頭の東陽坊は後に大行院となり、江戸時代を通じて鬼子母神堂は大行院が別当として管理した。鬼子母神堂には江戸時代前期より将軍の御成があり、鬼子母神の信仰は江戸時代を通じて武家から庶民に至るまで幅広く浸透し、大いに盛況を呈した。 雑司ヶ谷鬼子母神堂は、本殿・相の間・拝殿が巧妙に連結した複合建築、いわゆる権現造で、屋根は総銅板葺である。本殿内の奥には禅宗様須弥壇を設けて宮殿を安置する。本殿背面には妙見宮が北西に面して建つ。本殿は小屋束の墨書より寛文四年(一六六四)一〇月二〇日に上棟したもので、広島藩二代藩主の浅野光晟の正室、満姫の寄進で建立された。拝殿・相の間は金物刻銘などから元禄一三年(一七〇〇)の建築と判明する。後世の主な修理では、本殿は享保四年(一七一九)と延享二年(一七四五)に檜皮屋根が葺替えられたことが知られ、明治一七年に相の間とともに銅板葺に改められた。一方、拝殿がとち葺から桟瓦葺に改められたのは寛政年間と考えられる。昭和三五年二月一三日付けで東京都有形文化財に指定され、昭和五四年に半解体修理が完了した。この際、拝殿は桟瓦の錣葺から銅板の平葺(とち葺型)へ変更し、全体が銅板葺屋根となって、現在に至っている。 本殿は、三間社流造で、身舎が桁行三間、梁間(側面)二間の規模であるが、海老虹梁で繋ぐ正面の庇も両側面を壁とし、身舎と庇の境に柱を立てず、内部は方三間の一室となる。畳敷の床に、折上格天井とし、両側は擬宝珠高欄付の切目縁を廻し、脇障子を付ける。軒は正面・背面とも二軒繁垂木で、庇の軒先は相の間の内側に入り込んで接続する。軸部は身舎が円柱、庇が面取角柱で、長押・貫で結ぶ。組物は身舎が実肘木付出組、庇が実肘木付三斗で、ともに内側へ肘木を出し、巻斗で天井桁を受ける。中備は身舎・庇ともに彫刻蟇股である。妻飾は二重虹梁大瓶束架構で、虹梁間の中央に雲文をあしらった大型の蟇股を入れ、破風拝みと桁隠に猪目懸魚をつける。内部はすべて黒漆塗、天井の廻縁や格天井板を金箔押とするが、外部は内法長押までが黒漆塗、頭貫より上は素木とし、中備の蟇股の彫物や手挟などには彩色を施す。 本殿と拝殿をつなぐ相の間は、桁行三間、梁間一間、両下造で、中央に階段三級、両側面に縁を設け、床は畳敷、天井は格天井である。軸部は面取角柱を貫で結び、組物はなく、一軒疎垂木とする。 拝殿は桁行五間、梁間四間、入母屋造、正面千鳥破風付で、正面には軒唐破風付の一間向拝が付き、背面中央で相の間と繋がる。正面と両側面に擬宝珠高欄付の切目縁を廻し、脇障子を付ける。内部は梁間の正面一間通りを吹放しの外陣、梁間奥三間を内陣とし、その境に格子戸と桟唐戸を入れて区画し、内陣の両側面と背面は舞良戸引違や横板壁とする。内陣は畳敷、外陣は板張とし、内陣中央の正面寄りには床に賽銭箱を組み入れる。天井は内陣と外陣の区分ではなく、構造的な身舎と庇で区分し、内陣中央の三間に二間は格天井とするが、その四周の庇は内側半間が鏡天井、外側半間が垂木を見せる化粧屋根裏になる。軸部は内部を円柱、側廻りを角柱として、長押・頭貫で結び、組物は実肘木付の三斗組であるが、側廻りの外側は舟肘木になり、中備は間斗束とする。向拝は几帳面取角柱を立てて虹梁で結び、連三斗で桁・手挟を受ける。軒は二軒疎垂木、妻飾は虹梁大瓶束架構で、虹梁中央を力士像で支える。拝殿の装飾は龍彫物、獅子鼻、象鼻、手挟などで向拝上部を派手に飾るが、内外陣境にも彫物欄間が入れられている。 本殿は庇を室内に取り込み、外観を神社本殿形式の流造としながら、内部を方三間仏堂の空間とするところに特色がある。妻飾の細部をみると、細い彫りながらやや楕円形に移行しつつある虹梁の絵様、渦巻と嘴状の端部を備えた頭貫木鼻などは、同時期の広島藩の寺社建築に類例がある。つまり、鬼子母神堂は江戸にありながら広島藩による造営であって、広島藩在住の工匠が携わったから、本殿の意匠や造形には安芸地方の特長が反映されたと考えられる。 拝殿と相の間は、本殿の妻飾にみる虹梁の絵様や蟇股の意匠などとかなり相違しており、三六年の間隔以上の差異が認められ、元禄一〇年(一六九七)の護国寺本堂に近い。拝殿は、寛文八年(一六六八)規制との関連がある。拝殿は梁間を京間三間とすること、側廻り組物を変更していること、屋根を錣葺としていたことなど、建築規制令への対処が明らかになっている。 宮殿は、二重基壇に建つ。身舎は上の基壇にあり、桁行、梁間とも一間で、桁行が梁間の一・五倍になる長方形平面とし、正面に両折桟唐戸を設ける。正側面には逆蓮頭親柱の高欄付の縁を廻して脇障子をたてる。軸部は礎盤に上下粽付の円柱を立てて、地覆・足元長押・頭貫・台輪で固め、木鼻をつける。屋根は入母屋造、瓦棒板葺、二軒繁垂木(背面軒を省略)で、正面に一軒繁垂木の縋破風の庇を延ばし、中央に軒唐破風を付け、下の基壇の両脇に柱を立てて桁を受ける。軸部から尾垂木付三手先組物まで禅宗様を基調とし、要所の飾金具や彫物など華やかな意匠になり、頭貫や軒桁の金箔下には置上彩色が残っている。さらに、唐破風の大瓶束両側の小壁や両折桟唐戸の幕板には鬼子母神を象徴した柘榴の彫物を入れている。年代は細部と記録から正保三年と考えられる。これを置く禅宗様の須弥壇も同時期とみられる。 近世における日蓮宗では、北極星の精を北辰妙見大菩薩とし、厄難病苦や息災延命の守護として篤く信奉した。妙見宮は、こけら葺型銅板葺の一間社流造で、正面に両折桟唐戸を設け、正側面に刎高欄付の切目縁を廻して脇障子をたて、庇には浜縁を付ける。軒は二軒繁垂木、組物は実肘木付出組、妻飾は虹梁大瓶束とする。棟札から天明八年(一七八八)の建築と判明し、虹梁や木鼻の絵様細部、木鼻や中備の彫物など、時代相応のつくりになる。 雑司ヶ谷鬼子母神堂は、寛文期の本殿と元禄期の拝殿からなり、異なる意匠と造形を具備した複合建築で、本殿に大名家による寺社造営状況、拝殿に幕府による建築規制への対応過程がみられ、江戸における寺社造営の実像を示すものとして歴史的価値が高い。また、本殿が細部意匠に安芸地方の寺社建築の特長を備えているのに対し、大型の拝殿は正面の軒唐破風付向拝や千鳥破風、装飾的に扱った架構材など、江戸時代中期における華やかな意匠で構成された礼拝空間を創出しており、重層的な特性を備えた近世建築のひとつとして価値が高い。 ※「鬼」は上の点がない文字。 【参考文献】 『都指定有形文化財法明寺鬼子母神堂修理工事報告書』(都指定有形文化財法明寺鬼子母神堂修理委員会 一九七九年) 『東京都近世社寺建築調査報告書』(東京都教育委員会 一九八九年) 『江戸時代に生まれた庶民信仰の空間 音羽と雑司ヶ谷』(日本女子大学 二〇一〇年) 『雑司ヶ谷鬼子母神堂』(日本女子大学総合研究所 二〇一六年)
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宮殿
妙見宮
棟札
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宮殿
附員数
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一棟
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妙見宮
附員数
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一棟
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棟札
附員数
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一枚