国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧長谷川家住宅(三重県松阪市魚町)
ふりがな
:
きゅうはせがわけじゅうたく
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
おもや
旧長谷川家住宅 主屋 外観 正面
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/民家
時代
:
江戸中期
年代
:
江戸中期
西暦
:
1883-1897
構造及び形式等
:
桁行30.2m、梁間15.9m、切妻造、西面風呂及び便所、便所、台所附属、切妻造、桟瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02648
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2016.07.25(平成28.07.25)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
所在都道府県
:
三重県
所在地
:
三重県松阪市魚町1653番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
松阪市
所有者種別
:
市区町村
管理団体・管理責任者名
:
旧長谷川家住宅 主屋 外観 正面
解説文:
詳細解説
長谷川家は,江戸大伝馬町で木綿問屋を営んだ松坂を代表する豪商で,住宅は旧松坂城下の町人町に所在する。主屋の中心部と大蔵が江戸時代中期に建てられ,その後,両側の敷地を順次取得して拡張するとともに,座敷の増築や,土蔵群の建築が行われ,明治期には背面側の広大な敷地を購入し,庭園が築かれた。
旧長谷川家住宅は,江戸時代中期に遡る主屋の主体部を中核として,家業の隆盛とともに拡張と充実を遂げた大型の町家建築で,豪壮な屋敷構え全体が良好に保存されている。伊勢における江戸店持ち商人の住宅の発展過程が明瞭に理解される遺構として価値が高い。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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旧長谷川家住宅 主屋 外観 正面
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旧長谷川家住宅 主屋 外観 正面
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解説文
長谷川家は,江戸大伝馬町で木綿問屋を営んだ松坂を代表する豪商で,住宅は旧松坂城下の町人町に所在する。主屋の中心部と大蔵が江戸時代中期に建てられ,その後,両側の敷地を順次取得して拡張するとともに,座敷の増築や,土蔵群の建築が行われ,明治期には背面側の広大な敷地を購入し,庭園が築かれた。 旧長谷川家住宅は,江戸時代中期に遡る主屋の主体部を中核として,家業の隆盛とともに拡張と充実を遂げた大型の町家建築で,豪壮な屋敷構え全体が良好に保存されている。伊勢における江戸店持ち商人の住宅の発展過程が明瞭に理解される遺構として価値が高い。
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詳細解説
旧長谷川家住宅(三重県松阪市魚町)八棟 主屋、大正座敷、大蔵、新蔵、米蔵、西蔵、表蔵、離れ 三重県松阪市 松 阪 市 旧長谷川家住宅は松坂城跡の北東に位置する旧町人町の魚町通りに東面して建つ。広い間口をもつ町家で、主屋後方の背割下水を越えて、旧武家町の殿町にまたがる広大な屋敷地を占める。 長谷川家は、寛永一二年(一六三五)に長谷川市左衛門(東家)が江戸大伝馬町で木綿仲買を営んだことを創始とし、ここで支配人を務めた長谷川本家三代の次郎兵衛政幸が延宝三年(一六七五)に独立し、同じ大伝馬町で創業、本店とした。その後、政幸は江戸店を支配人に任せて松坂へ戻り、松坂で伊勢産木綿などを仕入れて江戸に回送するほか資産管理などを行い、江戸店では木綿のほか米、煙草などを販売した。いわゆる江戸店持ちの伊勢商人で、松坂においては、三井家を別格として、小津清左衛門家と長井嘉左衛門家とともに松坂の御三家と後に称された豪商である。 敷地は、政幸が延宝三年に独立した頃に、魚町通りに面する現状の間口の中央寄り七間分ほど、奥行は背割下水までを取得して主屋主体部を建て、のち享保六年(一七二一)に後方に大蔵を建てたとみられる。その後、享保二〇年頃に北側、明和五年(一七六八)頃に南側、天明二年(一七八二)頃と文政一〇年(一八二七)頃に北側、明治元年に、奉行所のあった殿町側の敷地を購入し、さらに明治前期に南側の敷地を順次買い足すなど拡張を繰り返すとともに建物の増改築を重ね、その間、回遊式の池泉庭園が築かれた。 主屋を敷地東辺に構え、北西に大正座敷を雁行させ、主屋南隣の敷地角に表蔵を配して屋敷の表構えを構成し、江戸時代の敷地西辺を画す背割下水沿いに、南から米蔵、大蔵、新蔵、西蔵を建て並べる。また近代に拡張した殿町側敷地には、中島を囲む池の東に、離れと四阿、北に稲荷社を配する。 旧長谷川家住宅の建造物は、平成二七年三月五日付けで三重県指定有形文化財(建造物)となり、屋敷地も同日付けで三重県指定史跡及び名勝に指定されている。 主屋は、中央南寄りの通り庭と北側の居室二列を主体部とし、北側に大座敷部を張り出し、南側では東寄りに表座敷部、西寄りに新座敷部の二列を張り出し、その間を板の間する。いずれも切妻造、桟瓦葺である。 主屋主体部は建ちの低いつし二階建で、正面構えは本屋、庇とも出桁造とし、居室部前面に出格子をたて、屋根の両端に本うだつを上げて袖壁も設け、銅板葺の庇に幕板を付す、当地方の伝統的な町家形式を示している。平面は通り庭沿いの列の正面からミセノマ、イタマ、オイエ、ダイドコロとし、上手列は同じくミセノマ、オウセツマ、ハチジョウノマ、オクノマとする。ハチジョウノマとオクノマは桁行を広めて北に張り出し、ハチジョウノマ北側に茶室と仏間を配する。軸部は、通り庭まわりでは矩形の梁を井桁に組み、居室部との境は差物で固めるなど、重厚かつ簡明な構成になる。長押は使わず、通り庭前半と居室部の下手列などを根太天井とし、ほかは棹縁天井を張る。ミセノマ南半部の前面には摺上戸をたて、茶室は四畳席で、北西の枡床の柱を楊枝柱とし、棹縁を細丸竹とする。仏間は格天井で、上手一畳を占める仏壇は照り起りの天井とし、いずれも漆塗で仕上げる。 大座敷部は棟札から天明二年の建築とわかる。魚町通りから前庭を介して建ち、居室を二列南北に並べ、背面側に風呂及び便所を張り出し、濡縁をのばす。居室の南列は東からオオザシキツギノマ、オオザシキとし、東・西面に縁を通す。北列は、茶室と仏間を東西に並べる、主屋主体部と同様の構成になる。オオザシキとツギノマは丸太柱を使うなど数寄屋を加味し、オオザシキ北面に床と床脇を備える。茶室は裏千家又隠の構成を取り入れた四畳半席で、北面に台目床を備え、天井は東面三尺分を掛込天井とする。 表座敷部と新座敷部は一八世紀後期の増築とみられ、表座敷部は明治二一年に改修を受けている。表座敷部は北からオモテザシキツギノマ、オモテザシキとし、オモテザシキに床を備える。新座敷部は東列の北からオトコベヤ、シンザシキツギノマ、シンザシキとし、シンザシキの西面に床を設え、西列をスイジバなどとする。両座敷部間の板の間はもとは中庭で、新座敷部側に内縁があったが、戦後の改修で室内化された。 大正座敷は、棟札より大正三年上棟とわかり、棟梁は長谷田甚之助である。平面は桁行一五・三メートル、梁間一一・七メートルのL字形を呈し、二階建、寄棟造、桟瓦葺である。東に玄関を構え、一階南・西面に廻らす縁を銅板葺とする。一階平面はヒロマとツギノマを南北に並べ、玄関とヒロマの間に東からオモテノマ、ハチジョウノマ、畳廊下を連ねる。ヒロマは本住宅の中で最も上質な造作で、北面に一間半の床を構え、東に違棚、西に半間の踏込床をおいて付書院を設ける。いずれもツガの良材を使い、縁を廻らす南・西面は柱を極力省き、開放的な構成とする。二階は床付の八畳と六畳の二室で、一階同様、南・西面に縁を廻らして開放し、八畳に床を備える。総体として、玄関は軸部、軒とも丸太で、入母屋造銅板葺屋根に起りを持たせ、またオモテノマに丸窓を穿ち、ハチジョウノマの天袋に網代を張るなど随所に数寄屋意匠を取り入れた軽妙なつくりとし、ヒロマなどとの明瞭な対比を示す構成としており、洗練された近代和風の座敷棟としてまとめている。 大蔵は棟札より享保六年上棟とわかる。桁行九・〇メートル、梁間七・三メートル、土蔵造、二階建、切妻造、本瓦葺である。砂岩切石の布基礎に建ち、外壁黒漆喰塗で鉢巻と水切を廻らせ、南・東面に下屋を設ける。内部は上下階とも一室で、一階東面の戸口に内面を赤色塗とする鉄扉を開く。小屋は登梁形式で両妻は和小屋を組む。かつて道具類を収めた蔵で、当住宅内で年代の明らかな最古の建物で、かつ最大規模の土蔵である。 新蔵は主人の私物を収めていたと伝え、棟札より享保二〇年上棟とわかる。桁行七・一メートル、梁間五・四メートル、土蔵造、二階建、切妻造、桟瓦葺である。花崗岩切石積基礎に建ち、外壁は黒漆喰塗を基本として鉢巻と水切を廻らせ、一部をモルタル塗などとする。内部は上下階とも一室で、一階南面に下屋を設け、東寄りを戸口とする。小屋は大蔵と同様の形式とする。 米蔵は棟札より明和五年の上棟とわかる。桁行七・三メートル、梁間五・四メートル、土蔵造、二階建、切妻造、桟瓦葺である。外壁黒漆喰塗で、鉢巻と水切を廻らせ、東面に下屋を設ける。内部は上下階とも一室で、一階東面北寄りを戸口とする。小屋は大蔵と同様の形式とする 西蔵はもと文庫蔵で、江戸時代末期の建築とみられる。桁行九・一メートル、梁間四・五メートル、土蔵造、二階建、南北棟の切妻造、桟瓦葺である。花崗岩布積(西面は亀甲積)基礎に建ち、外壁は黒漆喰塗で鉢巻と水切を廻らせ、西・北面は鉄板で覆う。内部は上下階とも一室で、一階南妻面を戸口とする。小屋は和小屋を組む。 表蔵は什器や漆器類を収めた蔵で、梁下面の墨書により明治三五年上棟とわかる。桁行七・二メートル、梁間五・四メートル、土蔵造、二階建、切妻造、桟瓦葺である。花崗岩布積基礎に建ち、外壁は黒漆喰塗で、鉢巻と水切を廻らせ、一階北面に下屋を設け、戸口を開く。内部は上下階とも一室で、小屋は登梁と和小屋を併用する。 離れは座敷棟と茶室棟からなる平屋建で、木札から明治二八年の建築とわかる。座敷棟は寄棟造の周囲に下屋を廻らし、桟瓦葺とする。平面は一〇畳二室を並べて主室に床と床脇を備え、南・東面に縁を廻らせ、東側下屋に玄関を構える。茶室棟は四畳半茶室と六畳、水屋からなる。 袴附は大正座敷の玄関脇に東西棟で建つ。桁行二・八メートル、梁間一・九メートル、切妻造、桟瓦葺である。江戸時代後期の建築とみられ、西背面に水屋を附属する。 表塀は魚町通りに面して主屋の南北にのびる桟瓦葺の塀で、南表塀は腰を簓子下見板張、北表塀は竪板張目板打とし、主屋大座敷部の茶室向かいに待合を造る。 中門は、大蔵と米蔵間の通路の背割下水石垣上に開き、大蔵の蔵前から桟瓦葺屋根を葺き下ろす。中門の南北に桟瓦葺の中塀を建て、腰を竪板張目板打とする。 庭塀は大正座敷の庭園と土蔵を画す塀で、クリなぐりの柱にスギ網代張で、目板瓦を伏せる。 物置は主屋新座敷部と米蔵の間に東西棟で建ち、切妻造、桟瓦葺で、東西に二室に分ける。 稲荷社は明治二〇年頃の建立とみられ、桁行三間、梁間一間、入母屋造、妻入、桟瓦葺で、正面一間通りを吹放し、内部に見世棚造の小社二棟を祀る。 四阿は四方をほぼ開放し、北面西寄りで出入りする形式をもつ。柱に皮付き丸太、壁止めに丸竹を使うなど数寄屋を基調とした瀟洒な建物である。 旧長谷川家住宅は、江戸時代中期に遡る主屋の主体部を中核として、江戸時代後期から大正期にかけて家業の隆盛とともに拡張と充実を遂げた大型の町家建築で、正面構えや角座敷を設けた平面構成などに当地方の伝統的な町家形式を良く示すとともに、高い格式も具備している。豪壮な屋敷構え全体が良好に保存され、また各建物の棟札や絵図なども豊富に残されており、伊勢における江戸店持ち商人の屋敷地や住宅の発展過程が明瞭に理解される遺構として、高い価値を有している。 【参考文献】 『旧長谷川家住宅調査報告書』(三重県松阪市教育委員会 二〇一四年)
関連情報
附指定
祈祷札
袴附
表塀
中門及び中塀
庭塀
物置
稲荷社
四阿
絵図
関連情報
附指定
附名称
:
祈祷札
附員数
:
一枚
関連情報
附指定
附名称
:
袴附
附員数
:
一棟
関連情報
附指定
附名称
:
表塀
附員数
:
二棟
関連情報
附指定
附名称
:
中門及び中塀
附員数
:
一棟
関連情報
附指定
附名称
:
庭塀
附員数
:
一棟
関連情報
附指定
附名称
:
物置
附員数
:
一棟
関連情報
附指定
附名称
:
稲荷社
附員数
:
一棟
関連情報
附指定
附名称
:
四阿
附員数
:
一棟
関連情報
附指定
附名称
:
絵図
附員数
:
五枚