国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
臥龍山荘
ふりがな
:
がりゅうさんそう
棟名
:
臥龍院
棟名ふりがな
:
がりゅういん
臥龍山荘 臥龍院 壱是(北東から見る)
写真一覧▶
地図表示▶
解説表示▶
員数
:
1棟
種別
:
近代/住居
時代
:
明治
年代
:
明治38
西暦
:
1905
構造及び形式等
:
木造、建築面積129.72㎡、茅葺、北面炊事場、浴室及び便所附属、桟瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02652
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2016.07.25(平成28.07.25)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
愛媛県
所在地
:
愛媛県大洲市大洲字勘兵衛屋敷411番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
大洲市
所有者種別
:
市区町村
管理団体・管理責任者名
:
臥龍山荘 臥龍院 壱是(北東から見る)
解説文:
詳細解説
臥龍山荘は,肱川を望む景勝地に建つ,貿易商・河内寅次郎の別荘である。地元大工の中野寅雄により,不老庵が明治34年,文庫が同37年,臥龍院が同38年に建てられた。
臥龍院は,松皮菱の花頭窓など,桂離宮をはじめとする名建築に着想を得た細部意匠を持つ茅葺屋根の建物で,数寄屋技法の濃淡により室毎の趣向に変化をもたせている。不老庵は,肱川を見下ろす崖地に懸造で張り出す,特異な造形になる茅葺の小庵である。
臥龍山荘の各建物は,吟味された材料と熟練した技術により,全体構成から細部に至るまで,極めて独創的な数寄屋の意匠にまとめ上げており,四国地方における近代の数寄屋建築の優品として高い価値を有している。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
写真一覧
臥龍山荘 臥龍院 壱是(北東から見る)
写真一覧
臥龍山荘 臥龍院 壱是(北東から見る)
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
臥龍山荘は,肱川を望む景勝地に建つ,貿易商・河内寅次郎の別荘である。地元大工の中野寅雄により,不老庵が明治34年,文庫が同37年,臥龍院が同38年に建てられた。 臥龍院は,松皮菱の花頭窓など,桂離宮をはじめとする名建築に着想を得た細部意匠を持つ茅葺屋根の建物で,数寄屋技法の濃淡により室毎の趣向に変化をもたせている。不老庵は,肱川を見下ろす崖地に懸造で張り出す,特異な造形になる茅葺の小庵である。 臥龍山荘の各建物は,吟味された材料と熟練した技術により,全体構成から細部に至るまで,極めて独創的な数寄屋の意匠にまとめ上げており,四国地方における近代の数寄屋建築の優品として高い価値を有している。
詳細解説▶
詳細解説
臥龍山荘 三棟 臥龍院、不老庵、文庫 愛媛県大洲市 大 洲 市 臥龍山荘は、大きく蛇行する肱川の、臥龍の淵をのぞむ景勝地に建つ。木蝋の輸出で財をなした大洲市新谷出身の貿易商河内寅次郎(一八五三~一九〇九)が建てた別荘で、明治三〇年頃寅次郎がこの地を購入し、同三三年から建築を開始した。まず不老庵が明治三四年に建てられ、文庫が同三七年に上棟、臥龍院が同三八年に上棟した。地元大洲市中村渡場の大工中野寅雄(一八七〇~一九三五)が棟梁を務め、臥龍院の細部造作には金物師中川浄益や塗師中村宗哲など千家の茶道具の職家が関わった。その後明治四二年の寅次郎没後は一族親戚が居住管理してきたが、昭和五三年に大洲市の所有となり、同五五年から一般公開されている。 敷地は肱川の流れに沿って南北に長く、北に入口を構える。入口に近い敷地北寄りに臥龍院が建ち、その北に文庫が接続する。敷地南端には崖地に張り出すように不老庵が建つ。臥龍山荘の建造物は、昭和五七年四月二一日付けで大洲市指定有形文化財に、昭和六〇年二月一五日付けで愛媛県指定文化財になっている。また、庭園は昭和三一年九月三〇日付けで「臥竜及び亀山公園」として大洲市指定名勝となっている。 臥龍院は、寄棟造、茅葺の主屋で、桁行一二・三メートル、梁間七・四メートルで東面北半を突出させ、北面西寄りに炊事場、東寄りに浴室及び便所を、いずれも切妻造、桟瓦葺で附属する。平面は南に一三畳半の「壱是」、北に九畳半の「清吹」を並べ、「清吹」の東に仏間「始定」を挟んで八畳の「霞月」を置く。「霞月」の北は三畳の「迎礼」とし、東に土間の玄関を突出させる。「壱是」の南から東面にかけて畳廊下の「佐屋間」を廻し、その外に榑縁を張る。「霞月」の南と「清吹」の北に半間幅の廊下、「霞月」の東、「清吹」の西に高欄付の縁を付す。 「壱是」は、西面に奥行一間の大床を構えて床脇に棚と物入を作り、南の付書院に松皮菱黒漆塗の花頭窓を付け、欄間の屋久杉板に鳳凰の透彫を飾る。天井は棹縁天井である。能舞台としての使用も想定し、床下を掘り込み、備前焼の甕を一二個埋める。「佐屋間」は天井を化粧屋根裏とし、欄間に丸い下地窓を千鳥に配す。軒は細丸太の垂木を深く差し出して茅屋根を軽やかに見せ、榑縁はツガの良材で、浄益銘の飾り釘が打たれる。 「清吹」は、北西隅に琵琶床を作り、その東に半間幅の床と平書院を並べ、南側に一間半幅の大書院を備える。床に籐の敷物を敷き、大書院の奥を障子引違とし、欄間に花筏の透彫を飾るなど夏向きの趣向を見せる。大書院上部に神棚を作り、神棚前部の壁止めを雲状の曲線とする。平書院の水紋や南面欄間の菊水の透彫、東面壁の雪輪形の窓など、随所に趣向を凝らし、流水を主題とした数寄屋造の空間を創出する。「始定」は一畳強の広さの仏間で、北の仏壇境には籃胎に溜塗を施した壁面に黒漆の木瓜枠を持つ障子窓を開け、天井を桐の一枚板とする。 「霞月」は、北面を踏込とし奥行の浅い床と太鼓襖の出入口を設け、西面に棚と押入を据える。床には炉を切り、天井は一面の紙張とする。棚は三段の霞棚を設えて壁面に丸窓を開け、裏手にあたる「清吹」からの光を取り込み、満月を思わせる仕組みとする。押入の引戸金具は蝙蝠形とする。東面平書院の欄間は瓢箪の透彫とし、障子は細い台形断面の組子を用いる。東縁の高欄は斜め桟を組み合わせた時雨意匠とする。廊下の床板はマツの一枚板だが、化粧目地で縁甲板風に見せる。 「迎礼」は玄関から続く小間で、三畳の東に一段低い一畳分の竹簀子床を付す。玄関は土間で天井は化粧屋根裏とする。 不老庵は、桁行四・九メートル、梁間三・九メートル、寄棟造、茅葺の離座敷で、北面西寄りに切妻造桟瓦葺の茶室を附属する。本体の過半を基礎の石垣から張り出した懸造とし、皮付きのスギ丸太を半間毎に立て並べ、貫四段で固める。西面には葉のついた槇の立木をそのまま使い、軒を受ける。内部は八畳の一室で西面に幅二間の踏込床を設け、天井は一枚の竹網代をヴォールト状に張り込む。西を除く三方を開放して高欄付きの縁を廻らし障子をたてる構成で、崖下の肱川の眺望を得る。茶室は三畳の規模で、南面を床、北を物入とし西に出入口を付す。床にはナンテンの古木の落掛、サクラの皮付床柱を用い、天井は赤松小丸太の棹縁天井とするなど、趣向を凝らす。 文庫は、桁行四・六メートル、梁間三・七メートル、二階建の土蔵で、屋根は寄棟造、桟瓦葺の置屋根で軒を扇垂木とする。石垣上に建ち、外壁は下部に舟板を竪板張とし、上部にひしゃぎ竹を張り、軒廻りのみ土壁を現す。開口部には片開の銅板扉を開き外観のアクセントとする。内部は板敷で、壁は真壁漆喰塗である。 臥龍山荘は、桂離宮などの名建築から着想を得た細部意匠を引用しつつ再構成した臥龍院、肱川を見下ろす懸崖上に大胆に張り出す不老庵など、いずれも吟味された材料と熟練した技術により、全体構成から細部に至るまで、極めて独創的で濃密な数寄屋の意匠にまとめ上げており、四国地方における近代の数寄屋建築の優品として、高い価値を有している。 【参考文献】 『愛媛県の近代和風建築』(愛媛県教育委員会 二〇〇六年) 『水郷の数寄屋 臥龍山荘』(愛媛県大洲市 二〇一二年) 矢ヶ崎善太郎「臥龍山荘の造営体制と大工・中野寅雄―「京風」の写しと伝播について」(日本建築学会学術講演梗概集(東海) 二〇一二年)
関連情報
附指定
棟札
関連情報
附指定
附名称
:
棟札
附員数
:
二枚