国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
大角家住宅(滋賀県栗太郡栗東町)
ふりがな
:
おおすみけじゅうたく
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
しゅおく
大角家住宅(滋賀県栗太郡栗東町) 主屋
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/民家
時代
:
江戸中期
年代
:
元禄頃
西暦
:
1688-1703頃
構造及び形式等
:
店舗、製薬所、台所及び居間 桁行19.4m、梁間19.1m、切妻造、
北面、東面及び南面庇付、西面下屋、南面突出部附属、本瓦、
桟瓦及び銅板葺
玄関及び座敷 桁行8.8m、梁間8.5m、切妻造、北面及び東面庇付、
玄関千鳥破風付、南面下屋附属、南面突出部 桁行5.1m、梁間7.0m、
入母屋造、南面及び西面庇付、桟瓦葺及び銅板葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
01266
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1954.03.20(昭和29.03.20)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
滋賀県
所在地
:
滋賀県栗東市六地蔵402番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
大角家住宅(滋賀県栗太郡栗東町) 主屋
解説文:
詳細解説
大角家住宅は、旧東海道の草津宿と石部宿に所在する、薬種業を営んだ商家である。街道に北面して店舗を構え、その東脇には本陣座敷(書院)を設け、背後には庭園を造る。また、街道をはさんだ向かい側に隠居所を配する。
店舗は細い通りニワを置いて左右に分け、左側は三〇畳大の広大な東ミセ、右側は板敷の西ミセとし、製薬機械を設置する。小庇の持送りや腕木鼻等に繰形彫刻を施し、豪壮華麗に仕上げる。本陣座敷は、店舗横の正門とその奥の玄関式台、小座敷、次の間、上段の間の四部屋からなる。
隠居所は、本屋が本陣に利用されている間、家族の住居にあてられたといわれる臨時の建物であるにもかかわらず、玄関回りを本屋に準じたつくりとする。
大角家住宅は、街道筋の商家としては最も古く、また最も規模の大きな家で、附属屋もそのまま残り、また保存されている石臼や製薬機械など各種の製薬用具も文化史上貴重である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
写真一覧
大角家住宅(滋賀県栗太郡栗東町) 主屋
大角家住宅(滋賀県栗太郡栗東町) 主屋 ミセ
大角家住宅(滋賀県栗太郡栗東町) 全景
大角家住宅(滋賀県栗太郡栗東町) 主屋 上段の間
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大角家住宅(滋賀県栗太郡栗東町) 主屋
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大角家住宅(滋賀県栗太郡栗東町) 主屋 ミセ
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大角家住宅(滋賀県栗太郡栗東町) 主屋 上段の間
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解説文
大角家住宅は、旧東海道の草津宿と石部宿に所在する、薬種業を営んだ商家である。街道に北面して店舗を構え、その東脇には本陣座敷(書院)を設け、背後には庭園を造る。また、街道をはさんだ向かい側に隠居所を配する。 店舗は細い通りニワを置いて左右に分け、左側は三〇畳大の広大な東ミセ、右側は板敷の西ミセとし、製薬機械を設置する。小庇の持送りや腕木鼻等に繰形彫刻を施し、豪壮華麗に仕上げる。本陣座敷は、店舗横の正門とその奥の玄関式台、小座敷、次の間、上段の間の四部屋からなる。 隠居所は、本屋が本陣に利用されている間、家族の住居にあてられたといわれる臨時の建物であるにもかかわらず、玄関回りを本屋に準じたつくりとする。 大角家住宅は、街道筋の商家としては最も古く、また最も規模の大きな家で、附属屋もそのまま残り、また保存されている石臼や製薬機械など各種の製薬用具も文化史上貴重である。
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詳細解説
大角家住宅(滋賀県栗太郡栗東町) 三棟 大角家の所在する六地蔵は旧東海道の草津宿と石部宿の中間に位置し、古来から間の宿として栄えたところである。大角家は屋号を「ぜざいや」といい、この付近に多かった和中散の製造販売を営む薬店の中でも特に「本舗」と称し、また間の茶屋本陣を兼ねていた。その大きな店構えは東海道名所図絵にも描かれ、古くから人に知られた家で、史跡にも指定されている。住宅は街道に北面して間口十間の店舗を構え、店奥に台所と部屋十室を並べた主屋が続く。その東脇には正門と式台玄関、座敷からなる本陣座敷(書院)を設け、背後には庭園を造り、土蔵、納屋、物置、茶室などが建ち並ぶ大邸宅である。また、街道をはさんだ向かい側にも馬繋ぎ(長屋)、隠居所、薬師堂などを配している。家伝系図によると大角家は慶長元年に与三郎清孝が現在地に移り住み、代々弥右衛門を名乗って薬種業を営んできた。 現在の住宅の建築年代は系図の三代正俊の項に「中興当家一大普請不残立替」とあり、これは貞享から元禄初年(一六八四~九三頃)に比定され、このころに再建されたと考えられる。構造手法からも一七世紀末頃の建築とみてよい。主屋は桁行十間、梁間八間で屋根は切妻造とし、両妻に卯建をあげて本瓦葺とする。ただし表側は弘化二年に上段と下段に区切って下段を桟瓦葺に変更している。 主屋の表構えは街道に面する十間をすべて摺揚戸をはめた間口としている。しかしこれは安永四年(一七七五)の改造で、もとは板戸引込みであった。店舗は細い通りニワを置いて左右に分け、左側は三〇畳大の広大な東ミセで、右側は細長い小部屋を介して板敷の西ミセとし、ここには大きな製薬機械を設置して実演販売を行っていた。また店舗部分と台所には丁字形につし二階を設けており、表側には小庇を付けて外観上の区画を設けている。この小庇は軒の出一・六メートルと深く、各柱筋と中間に突き出した腕木と持送りで荷重を支えるが、この持送りや腕木鼻、出桁下の肘木は繰形彫刻を施した豪壮華麗なもので、店構えに重厚さを加味している。店奥は広い土間と台所、男衆部屋、ナカノマ、仏間、座敷などを三列三行に配置した居住部分で、さらに下屋を葺き下ろして女中部屋、ナンドを設ける。土間は敷地に合わせた三角形になっている。構造は梁間八間の中央に棟を置いた超大型の切妻屋根に相応じた高い軸部をもち、柱は中央部のほとんどを一・五メートル程度の頭継ぎが施されている。柱は表側が一九~二〇センチメートル、座敷でも一六センチメートルを超える太さで、大面取りとする。ミセや台所の広い持放し部分は背の高い差物を一間ごとに入れて支えるほか、各部屋の間仕切りも同様の差鴨居で固めている。小屋組は登梁を架けた和小屋である。 本陣部分は店舗に並ぶ正門と、その奥の玄関式台、小座敷、次の間、上段の間の四部屋からなる。 正門は一間薬医門で、左右に袖塀をめぐらす。座敷は上段の間から小座敷にかけて矩折れの縁を設け、その外側が築山泉水庭となっている。屋根は主体部の玄関、小座敷をやや高くした切妻造とし、これに入母屋造の上段の間を隅部に付した複雑な外観をとる。現在は桟瓦葺であるが、もとはこけら葺であった。この座敷部分は主屋に斜めに取り付き、また不要な痕跡がかなりあることから主屋と同時の建築ではなく、古材を利用してやや遅れて建てられたものと思われる。玄関は宝暦一一年(一七六一)から同一三年にかけて改造された結果、現在のように千鳥破風を付し、大型の透彫欄間を入れた立派な外観となった。 街道を隔てた向かい側にある隠居所は本屋が本陣に利用されている間、家族の住居にあてられたといわれ、墨書により享保一九年(一七三四)の建築であることが分かる。街道に向かって玄関を構え、土間、台所のほかにオクノマ、仏間、四畳の間、六畳の間の六室を矩の手に配する。屋根も同高の棟を矩の手にもつ入母屋造とし、四周の半間ないし一間幅の下屋部分は屋根を一段下げた重層で、本瓦葺とする。また玄関には本屋と同様に千鳥破風を置く。構造は要所に差鴨居を用いて固めるが、座敷部には用いず長押を回している。 この隠居所は臨時の建物であるにもかかわらず玄関回りを本屋に準じたつくりとし、全体の立面意匠も本格的なものである。このほか、この一画には馬繋ぎ、薬師堂などがあり、ともに大角家の豪壮な家構えを構成している。 また大角家には「古来作事并諸覚帳」が伝わり、享保以降の修理状況が克明に分かる。これによる西ミセの製薬機械は寛政七年(一七九一)に背後の部屋を改造して設置し、その後、文政一三年(一八三〇)に現在の場所に移動したものである。また本陣としての構えは享保から宝暦にかけて整備されたらしい。 大角家住宅は、街道筋の商家としては最も古く、また最も規模の大きな家で、附属屋もそのまま残り、また保存されている石臼や製薬機械など各種の製薬用具も文化史上貴重である。
関連情報
附指定
古来作事并諸覚帳
製薬機
関連情報
附指定
附名称
:
古来作事并諸覚帳
附員数
:
1冊
関連情報
附指定
附名称
:
製薬機
附員数
:
1式