国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
東大寺二月堂
ふりがな
:
とうだいじにがつどう
棟名
:
棟名ふりがな
:
東大寺二月堂
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/寺院
時代
:
江戸中期
年代
:
寛文9
西暦
:
1669
構造及び形式等
:
懸造、桁行十間、梁間七間、一重、寄棟造、本瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00224
国宝・重文区分
:
国宝
重文指定年月日
:
1944.09.05(昭和19.09.05)
国宝指定年月日
:
2005.12.27(平成17.12.27)
追加年月日
:
重文指定基準1
:
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
奈良県
所在地
:
奈良県奈良市雑司町
保管施設の名称
:
所有者名
:
東大寺
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
東大寺二月堂
解説文:
詳細解説
東大寺二月堂は,大仏殿の東方にあり,8世紀後期の成立と考えられている。現在の堂は,寛文9年(1669)に再建された正面7間,奥行10間に及ぶ大建築で,前半が礼堂と西局及び舞台など,後半が内陣と外陣及び局で構成されている。
全体として,材料は精選された良材を用いており,施工も入念である。また,精緻な比例や強固な構造技法など,近世的な建築技術が随所にみられる。
東大寺二月堂は,古代から中世に拡充・発展させた平面や空間の特質を継承しつつ,近世の建築技術を駆使し高い完成度をもっており,江戸幕府による大規模な造営になる代表的な建築のひとつといえる。
古代から連綿と続く修二会ときわめて密接に結びついている類いまれな建築として,文化史的にも特に深い意義を有している。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
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東大寺二月堂
東大寺二月堂 内部
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東大寺二月堂
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東大寺二月堂 内部
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解説文
東大寺二月堂は,大仏殿の東方にあり,8世紀後期の成立と考えられている。現在の堂は,寛文9年(1669)に再建された正面7間,奥行10間に及ぶ大建築で,前半が礼堂と西局及び舞台など,後半が内陣と外陣及び局で構成されている。 全体として,材料は精選された良材を用いており,施工も入念である。また,精緻な比例や強固な構造技法など,近世的な建築技術が随所にみられる。 東大寺二月堂は,古代から中世に拡充・発展させた平面や空間の特質を継承しつつ,近世の建築技術を駆使し高い完成度をもっており,江戸幕府による大規模な造営になる代表的な建築のひとつといえる。 古代から連綿と続く修二会ときわめて密接に結びついている類いまれな建築として,文化史的にも特に深い意義を有している。
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詳細解説
東大寺二月堂 一棟 東大寺二月堂は、若草山の麓、東大寺大仏殿の東方の小高い地にある。 成立については、平安時代後期に成立した寺誌『東大寺要録』などによると、東大寺開山良辨(ろうべん)僧正の高弟である実忠が(じっちゅう )十一面観音を本尊とする十一面悔過(けか)所として創立したものとされ、少なくとも八世紀後期には堂があったと考えられている。東大寺の十一面悔過の行法は天平勝宝四年(七五二)に始められたとされており、二月に勤修されたことから修二会と称され、これにより堂も二月堂の名を得るようになった。ちなみに修二会は、陰暦二月(現在の三月)初めに国家の隆盛を祈る法会のことであり、『寛平年中日記』(『東大寺要録』巻五)の年中節会支度より、東大寺では遅くとも九世紀後期には二月堂の名で呼ばれていたことが知られる。 二月堂は、治承及び永禄の火難を免れ、古代・中世を通じて存続したが、寛文七年(一六六七)二月、修二会の行法中に内陣から出火して焼失した。現在の堂は、同九年(一六六九)一二月に将軍徳川家綱を檀越として再建されたもので、『諸伽藍略録』二月堂の項には「一。本堂 雖為寛文七丁未年二月十四日炎上。厳有院様御再興。寛文九己酉年五月九日上棟。(後略)」とある。 再建の事情は『二月堂修中練行衆日記』に詳しく記されている。寛文十年の項には、「法隆寺住 平井金右衛門藤原信休、同 平井市郎兵衛藤原正治、大坂住向井太郎右衛門政易、法隆寺住 辻子勘十郎藤原清定」と、法隆寺住の平井金右衛門ほか三名の大工が知られる。なお、小屋内には寛文九年の銘がある木札が残っているが、これは再建にあたっての寄進に関わるものである。 二月堂は、西に向かって傾斜する崖地に西面して建つ。正面七間、奥行一〇間に及ぶ大規模な建築で、前半を礼堂と西局及び舞台など、後半を内陣と外陣及び局で構成している。東西棟で寄棟造の大屋根を架け、正面の吹放しは礼堂とともに懸造とする。軒は二軒繁垂木、屋根は本瓦葺である。 平面は、堂の中心となる桁行三間・梁間三間を内陣とし、側・背面をコの字型に外陣が囲み、さらにその外側を局と呼ばれる参籠所または聴聞所の小部屋が取り巻く。内陣の中心は四本の柱で方一間に区画して本尊を安置する。内陣・外陣の前面には桁行五間・梁間三間の礼堂があり、この西に西局、南に例時(れいじ)の間、北に勧進(かんじん)の間を配し、コの字型平面の正面一間通りを吹放しとして、南・西・北の三面に高欄付の切目縁を廻し、特に西面を舞台と称する。 軸部は円柱を立て、貫・長押・台輪で固め、組物は出組(でぐみ)とし、中備に撥束(ばちづか)を入れ、側廻りでは繋虹梁を出組に組み込む。内陣は、低い円柱を立て、実肘木(さねひじき)付の三斗を組み、虹梁・蟇股で化粧棟木を受け、切妻造の屋根を架けた形式で、堂全体からは独立した扱いとなっている。また西側の縁は挿(さし)肘木(ひじき)三手先(みてさき)の腰組で受ける。 内部は基本的に板敷で、局の一部や例時の間及び勧進の間を畳敷、外陣と礼堂の内陣寄りのみ石敷とする。天井は、内陣を切妻形の化粧屋根裏天井、外陣と礼堂及び西局を格天井、外陣側の局を棹縁天井、例時の間と勧進の間及び正面の吹放しを化粧屋根裏天井とする。 柱間装置は板戸・桟唐戸・蔀戸・格子戸等を用い、壁を板壁とする。礼堂に面した内陣正面は、内法上の小壁に中央を唐破風とした軒を突き出している。 全体として、材料は精選された良材を用いており、施工も入念である。また、支割(しわり)による精緻な比例や強固に連結した構造技法など、近世的な建築技術が随所にみられる。後世の改造は部分的なもので、当初の形態がよく保持されている。 修二会は奈良時代に流行した悔過法会に起源をもち、修正会などとともに、現在も各所で勤修されている。なかでも二月堂の修二会は、悔過を主要な内容とする奈良時代の形態を詳細に伝えるだけでなく、仏教行事の枠に納まらない多彩な行事を併せ備えており、他に類を見ない貴重な法会とされている。このように、二月堂修二会は古代から今日まで絶えることなく継続されてきた法会として、我が国の仏教史や芸能史においても、重要な意義を有している。二月堂の寛文再建は、先規に違わざることを旨として行われ、内陣・外陣・礼堂・局などからなる平面形式、独立的に扱われた内陣などは、先規をよく踏襲している。これは八世紀以来連綿と受け継がれてきた修二会と、その場としての二月堂の建築空間が重視されたことによると考えられる。 東大寺二月堂は、古代から中世に拡充・発展させた平面や空間の特質を継承しつつ、近世の建築技術を駆使し高い完成度をもち、江戸幕府による大規模な造営になる代表的な建築のひとつといえる。平面形式や空間構成が古代から連綿と勤修されている修二会ときわめて密接に結びついている類いまれな建築として、文化史的意義においても特に高い価値を有している。 【参考文献】 『奈良六大寺大観』第九巻(一九七〇年) 『東大寺二月堂 修二会の研究』史料編(一 九七九年) 山岸常人『中世寺院社会と仏堂』(一九九〇 年) 藤井恵介『密教建築空間論』(一九九八年) 佐藤道子『悔過会と芸能』(二〇〇二年)