国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
鑁阿寺本堂
ふりがな
:
ばんなじほんどう
棟名
:
棟名ふりがな
:
鑁阿寺本堂
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/寺院
時代
:
鎌倉後期
年代
:
正安元
西暦
:
1299
構造及び形式等
:
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、正面向拝三間、軒唐破風付、背面向拝一間、本瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00229
国宝・重文区分
:
国宝
重文指定年月日
:
1908.08.01(明治41.08.01)
国宝指定年月日
:
2013.08.07(平成25.08.07)
追加年月日
:
重文指定基準1
:
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
栃木県
所在地
:
栃木県足利市家富町
保管施設の名称
:
所有者名
:
鑁阿寺
所有者種別
:
寺院
管理団体・管理責任者名
:
鑁阿寺本堂
解説文:
詳細解説
鑁阿寺は、足利市の中心市街にある、真言宗寺院である。境内は足利氏の居館跡と伝え、周囲に土塁と濠がめぐる。
鑁阿寺本堂は、大日如来を本尊とし、現在の建物は7代足利貞氏により正安元年(1299)に建立されたもので、応永14年(1407)から永享4年(1432)の修理により、柱と小屋組を強化して本瓦葺に改められた。その後、室町時代末期までに背面向拝をつけ、江戸時代中期に正面向拝が改造された。
平面は、典型的な密教本堂の形式だが、内外の組物は、禅宗様の詰組とする。
鑁阿寺本堂は、東日本を代表する中世の密教本堂で、当時最新の禅宗様をいち早く導入した建物である。わが国の宗教建築の構造と装飾の発展に寄与した禅宗様の、受容と定着の様相を示す遺構として極めて高い価値が認められる。
また、様式の摂取には要素の選択が認められ、我が国における外来新技術の受容のあり方を示しており、文化史的に深い意義を有している。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
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鑁阿寺本堂
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鑁阿寺本堂
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解説文
鑁阿寺は、足利市の中心市街にある、真言宗寺院である。境内は足利氏の居館跡と伝え、周囲に土塁と濠がめぐる。 鑁阿寺本堂は、大日如来を本尊とし、現在の建物は7代足利貞氏により正安元年(1299)に建立されたもので、応永14年(1407)から永享4年(1432)の修理により、柱と小屋組を強化して本瓦葺に改められた。その後、室町時代末期までに背面向拝をつけ、江戸時代中期に正面向拝が改造された。 平面は、典型的な密教本堂の形式だが、内外の組物は、禅宗様の詰組とする。 鑁阿寺本堂は、東日本を代表する中世の密教本堂で、当時最新の禅宗様をいち早く導入した建物である。わが国の宗教建築の構造と装飾の発展に寄与した禅宗様の、受容と定着の様相を示す遺構として極めて高い価値が認められる。 また、様式の摂取には要素の選択が認められ、我が国における外来新技術の受容のあり方を示しており、文化史的に深い意義を有している。
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詳細解説
鑁阿寺本堂 一棟 鑁阿寺は栃木県の西南部、渡良瀬川左岸の足利市中心市街にあり、金剛山と号する真言宗大日派の本山である。足利源氏二代の義兼が文治五年(一一八九)に居館に設けた持仏堂に始まるとされ、境内は四周に土塁と濠が廻る。三代義氏により伽藍が整えられ、鎌倉時代には幕府の有力御家人であり、室町時代には幕府を開いた足利氏の氏寺として武家の崇敬を受けた注四。中世末には寺勢が衰えるが徳川家康により一山を安堵され、近世には民衆の祈願寺として賑わった。 なお、境内の建造物は本堂と鐘楼(鎌倉後期)が明治四一年八月一日付け、経堂(江戸前期)が昭和五九年一二月二八日付けで、重要文化財に指定されている。 鑁阿寺本堂は大日如来を本尊とする。天福二年(一二三四)上棟の大日如来大殿が、弘安一〇年(一二八七)に雷火により焼損し、正応五年(一二九二)から正安元年(一二九九)にかけて再建されたのが現在の本堂である。その後、応永一四年(一四〇七)から永享四年(一四三二)に組物と身舎台輪を残して、柱、小屋組などを改修して本瓦葺とし、正面向拝を設けて荘厳が高められた。以後、室町時代末期までに背面向拝を付け、元禄期に厨子を新造、元文期に正面向拝を改修、安政期に側廻り組物と屋根葺替などの修理が行われた。昭和六年から九年に行われた解体修理により現在の姿となり、平成二一、二二年には屋根葺替の保存修理が行われた。 本堂は、境内中央に南面して建つ。桁行五間、梁間五間、入母屋造で、正面に軒唐破風付の三間向拝、背面に一間向拝を設ける。軒は二軒繁垂木、屋根は本瓦葺である。内部は前方を間口全幅で奥行二間の広い外陣とし、中央は間口三間、奥行二間の内陣、その両側に脇陣、背面を後陣とする方五間の密教本堂の平面である。中央の方三間を組入天井、周囲一間通りを化粧屋根裏とし、中央を身舎、周囲を廂のように扱う。内部はすべて拭板敷である。身舎の柱間は、桁行が一二尺等間に対し、梁間は中央一六尺、両脇一〇尺とする。側廻り柱間は桁行、梁間とも一〇尺である。内部の建具は外陣奥面に吹寄菱格子欄間を入れるが、他は開放とする。内陣背面中央間の仏壇は後陣側に張り出しをもち、大型の厨子を設ける。 軸部は、頂部に粽をつけた円柱を立て、貫を多用して、頂部に台輪を載せる禅宗様の特徴を示す。身舎柱と側柱は側廻り組物に組込んだ虹梁で繋ぎ、その下に側柱頭貫位置で繋梁を通しており和様の特徴を示す。外陣桁行中央間は身舎柱二本を抜き、大虹梁大瓶束の禅宗様架構を用いる。 側廻りの組物は、禅宗様の尾垂木、拳鼻、実肘木付二手先の詰組とするが、壁付の肘木でも禅宗様の特徴である横への広がりを持たない。内部の組物は拳鼻、実肘木付の禅宗様出組の詰組で、側廻り組物と同寸とする特徴がある。 側廻りの柱間装置は上下藁座吊の禅宗様桟唐戸、正面両端間が和様の縦連子窓、背面東脇間の腰貫下に片引板戸を設け、このほかはすべて禅宗様の縦板張である。 鎌倉の禅宗寺院では、一三世紀頃から諸堂の建立にあたり、最新の中国建築様式である禅宗様が採用された。鑁阿寺本堂は、その禅宗様をいち早く導入した中世の密教本堂であり、室町時代中期の改修により荘厳が高められた。禅宗様はのちに、我が国宗教建築の構造と装飾の発展に寄与するが、その受容と定着の様相を示す遺構の一つとして鑁阿寺本堂は極めて高い価値をもつ。また、様式の摂取と維持にあたっては、要素の選択が認められ、我が国における外来新技術の受容や建造物の継承のあり方を示していて、文化史的に大きな意義を有している。 【参考文献】 『日本建築史基礎資料集成七 仏堂Ⅳ』(関口欣也 一九七五年) 『鑁阿寺本堂調査報告書』(足利市教育委員会 二〇一一年)