国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
春日神社能舞台
ふりがな
:
かすがじんじゃのうぶたい
棟名
:
棟名ふりがな
:
春日神社能舞台
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/その他
時代
:
江戸末期
年代
:
文久元
西暦
:
1861
構造及び形式等
:
舞台、橋掛、鏡の間及び楽屋よりなる
舞台 桁行5.9m、梁間5.9m、一重、入母屋造、妻入、
背面後座及び控の間附属、桟瓦葺
橋掛 桁行9.8m、梁間2.7m、一重、両下造、桟瓦葺、東面廊下付
鏡の間及び楽屋 桁行8.9m、梁間7.6m、一部二階、切妻造、東面下屋、
西面庇付、桟瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02428
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2003.05.30(平成15.05.30)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
(三)歴史的価値の高いもの
所在都道府県
:
兵庫県
所在地
:
兵庫県篠山市黒岡
保管施設の名称
:
所有者名
:
春日神社
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
春日神社能舞台
解説文:
詳細解説
春日神社は,篠山城の北約350mの地にある。現存する能舞台は,篠山藩主第13代の青山忠良の寄進により,文久元年(1861)に建立されたものである。
入母屋造の舞台は方形で,南に刎高欄付の脇座,東に後座を設ける。この北には橋掛が北東に延び,北側にある鏡の間及び楽屋に接続する。橋掛は両下造,鏡の間及び楽屋は切妻造で,南側が一室の鏡の間,北側が二階建の楽屋になる。
春日神社能舞台は,正統的な格式に加え,床下に音響施設の大甕を具備した構成になり,西日本でも屈指の近世能舞台として,高い価値がある。
造営の経緯、大工、絵師などが明らかとなる歴史史料,舞台用装置などが残ることも重要で,地方における近世芸能文化の展開を知る上で,貴重な遺構といえる。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
春日神社能舞台
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春日神社能舞台
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春日神社能舞台
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解説文
春日神社は,篠山城の北約350mの地にある。現存する能舞台は,篠山藩主第13代の青山忠良の寄進により,文久元年(1861)に建立されたものである。 入母屋造の舞台は方形で,南に刎高欄付の脇座,東に後座を設ける。この北には橋掛が北東に延び,北側にある鏡の間及び楽屋に接続する。橋掛は両下造,鏡の間及び楽屋は切妻造で,南側が一室の鏡の間,北側が二階建の楽屋になる。 春日神社能舞台は,正統的な格式に加え,床下に音響施設の大甕を具備した構成になり,西日本でも屈指の近世能舞台として,高い価値がある。 造営の経緯、大工、絵師などが明らかとなる歴史史料,舞台用装置などが残ることも重要で,地方における近世芸能文化の展開を知る上で,貴重な遺構といえる。
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詳細解説
春日神社能舞台 一棟 春日神社は、篠山城の北約三五〇メートル程の平坦地に境内を構える。草創については、貞観年中(八五九~八七九)に大和国春日大社より勧請したと伝えられているが定かでない。中世の沿革は不明で、松平周防守康重による篠山城の築城に伴い、慶長一四年(一六〇九)に現在地へ遷座した。 近世に入り、寛永九年(一六三二)に拝殿、舞堂等の建立があった。現在の本殿は、篠山城主松平豊前守信慈の材木寄進により、貞享三年(一六八六)に再建されたもので、四間社流造、正面千鳥破風付、銅板葺である。 現存する能舞台は、棟札により、文久元年(一八六一)に篠山藩主第一三代青山忠良(ただなが)を大檀越として建立されたことが判る。大工は稲山嘉七と永井理兵衛、舞台鏡板の絵は松岡曽右衛門の手になる。舞台小屋裏には文久元年の棟札二枚が存置されており、春日神社には文久元年(一八六一)銘のある揚幕の箱(揚幕・紐も保管)が残っている。 また、鏡の間に懸けられている安政五年(一八五八)銘「能組絵馬」によれば、同年三月に京観世の片山家を招いた盛大な能会が行われており、青山忠良は能舞台の建立以前より本格的な能会を催していた。青山忠良は弘化元年から嘉永元年(一八四四~四八)にかけて老中を務めた後、篠山城に戻り、自らの趣好に併せ、江戸城本丸の能舞台に倣い、春日神社に能舞台を建立したとされる。青山家には文久元年一一月銘の「春日神社御寄附御舞臺御取建画図類一式入箱」に能舞台造営にかかる大量の図面や普請文書等の史料が残り、現在は篠山市立青山歴史村で保管されている。 春日神社能舞台は舞台、橋掛、鏡の間及び楽屋からなる。東西棟、入母屋造の舞台は西を正面とし、舞台北面には南北棟の橋掛がついて北東に延び、北側にある南北棟の鏡の間及び楽屋に接続する。舞台から鏡の間にかけての東面には土間廊下がつく。屋根は桟瓦葺であるが、舞台は当初板葺もしくは茅葺と考えられる。また、控の間の土台廻り、東面の縁、楽屋の間仕切と背面下屋の床などに部分的な後世の改造があるが、軸部から小屋組に至る主要部は保存状態が良好である。 舞台は一辺五・九メートル(京間三間)とした方形で、南に刎高欄付の脇座、東に後座を設け、脇座と後座に接続する南東隅に六畳の控の間を附属する。軸部は角柱四本を土台上に立て、縁長押と頭貫で結び、柱上に実肘木付三斗を組み、二つの中備蟇股を配し、桁を受ける。軒は木舞打の二軒疎垂木とする。正面と背面の桁は絵様を施した虹梁形で中央に大瓶束を立てて化粧棟木を受け、天井を木舞打の化粧屋根裏とし、化粧棟木に吊金具をつける。後座は桁から垂木を片流れに葺き、木舞打の化粧屋根裏とし、床はすべて拭板敷とする。南・西・北の柱間装置はなく、通常は板戸で囲っている。後座の東と南の鏡板は縦板壁で、老松と若竹を描き、後座と控の間の境には切戸口を設ける。また、音響効果のため、舞台床下に五個、後座に二個の大甕を設置する。床下の大甕は、その一つに「釜屋村 源助」の銘があり、寛政年間以降に焼かれた丹波焼の無釉大甕と判る。正面と両側面の蟇股は雲文風彫物とするが、舞台と後座境では、牡丹籠彫の蟇股、大瓶束の菊に波涛文の彫物笈形、虹梁形の桁の絵様などの装飾を配して空間を華やかに演出する。 橋掛は西面桁行九・八メートル、梁間二・七メートル、一重、両下造、桟瓦葺である。両側には高欄を付け、土間を挟んで東に板壁を建てる。軸部は角柱を立てて桁を受け、虹梁風の梁に立てた棟束に棟木をのせ、一軒疎垂木を配り、東側を低く葺き降ろす。 鏡の間及び楽屋は、桁行八・九メートル、梁間七・六メートル、切妻造、桟瓦葺で、西面に下屋庇をつけ、軒は一軒疎垂木とする。桁行南側四メートルが一室の鏡の間で、床は板張、天井を設けない。桁行北側四・九メートルが楽屋で、一階は一二畳半の畳敷とし、根太天井を設け、二階は畳敷で天井はない。楽屋の東側には下屋を設け、低い板床の納戸としているが、この境の床の間は後世の改変である。軸部は角柱を立て、真壁造とし、北側面を波形鉄板で覆う。柱間装置は西面を板戸引込み、鏡の間と楽屋の境は襖、鏡の間と橋掛の境は開放で、この西端間には板庇付の窓を設ける。鏡の間の東面北一間は板戸引違いとする。棟木を受ける梁は弓形状で、高い内部空間をつくる工夫がみられる。 なお、控えの間の土台廻りは昭和六三年修理時の改造とみられるが、東面の縁、楽屋の間仕切、背面下屋の床などの改造時期は不明である。楽屋北側面の波形鉄板も後補で、二階には連子窓が残る。昭和六〇年には屋根葺替と控えの間の修理、同六三年には舞台と橋掛の土台修理並びに橋掛・鏡の間の壁修理が行われ、現在に至っている。 春日神社能舞台は、正統的な格式に加え床下に音響施設の大甕を具備した舞台と、橋掛、鏡の間、楽屋が完備した構成で、造形や意匠の質が極めて高く、西日本でも屈指の近世能舞台遺構として価値が高い。また、造営の体制や大工及び絵師などが明らかとなる歴史史料や舞台用装置などが残ることも重要であり、地方における近世芸能文化の展開を知る上で貴重な遺構である。 【参考文献】 『ふるさと伝統文化活性化事業実施報告書』(兵庫県教育委員会 二〇〇二年) 嵐瑞澂『丹波篠山の城と城下町』(一九六〇年) 大槻伸「古丹波の紀年銘」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第八九集下巻二〇〇一年)