国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)
ふりがな
:
きゅうちくごがわきょうりょう
棟名
:
棟名ふりがな
:
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)
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員数
:
1基
種別
:
近代/産業・交通・土木
時代
:
昭和
年代
:
昭和10
西暦
:
1935
構造及び形式等
:
鋼製昇開橋、橋長507.2m
鋼製ワーレントラス2基、鋼製吊上塔2基、鋼製プレートガーダー13基(可動
桁1基を含む)、コンクリート造橋台2基(左岸側翼壁を含む)、鉄筋コンク
リート造橋脚14基、バランスウェイト及び巻上装置1式(機械室を含む)よ
りなる
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02431
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2003.05.30(平成15.05.30)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(二)技術的に優秀なもの
重文指定基準2
:
(三)歴史的価値の高いもの
所在都道府県
:
福岡県
所在地
:
福岡県大川市大字向島地先、佐賀県佐賀市諸富町大字為重地先
保管施設の名称
:
所有者名
:
大川市
諸富町
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
公益財団法人 筑後川昇開橋観光財団
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)
解説文:
詳細解説
旧筑後川橋梁は,有明海に注ぐ筑後川河口より約8.5km上流に位置する昇開式の可動橋である。佐賀線の建設に際して,筑後川の舟運に配慮し,可動橋として計画され,昭和7年4月に起工,同10年5月に竣工した。橋脚及び両端部橋台の下部構造と,可動桁,吊上塔及び控えトラス桁,さらにその両側に配した鈑桁等の上部構造からなり,全体で507.2mと長大である。
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)は,わが国に現存する最古の昇開式の可動橋として,貴重なものである。大規模な構造躯体と技術的完成度の高い可動装置の設計及び施工を,専門を異にする技術者らの高度な協同作業のもとに実現した,鉄道可動橋建設技術の確立を表徴する遺構として,重要といえる。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋) 可動桁詳細
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋) 吊上塔詳細
写真一覧
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)
写真一覧
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋) 可動桁詳細
写真一覧
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋) 吊上塔詳細
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解説文
旧筑後川橋梁は,有明海に注ぐ筑後川河口より約8.5km上流に位置する昇開式の可動橋である。佐賀線の建設に際して,筑後川の舟運に配慮し,可動橋として計画され,昭和7年4月に起工,同10年5月に竣工した。橋脚及び両端部橋台の下部構造と,可動桁,吊上塔及び控えトラス桁,さらにその両側に配した鈑桁等の上部構造からなり,全体で507.2mと長大である。 旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)は,わが国に現存する最古の昇開式の可動橋として,貴重なものである。大規模な構造躯体と技術的完成度の高い可動装置の設計及び施工を,専門を異にする技術者らの高度な協同作業のもとに実現した,鉄道可動橋建設技術の確立を表徴する遺構として,重要といえる。
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詳細解説
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋) 一基 旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)は、有明海に注ぐ筑後川河口より約八・五キロメートル上流に位置する昇開式の可動橋である。 旧筑後川橋梁は、鹿児島本線と長崎本線を接続する佐賀線建設工事(大正一二年四月一三日付鉄道省告示第六一号)の一環として、筑後川の舟運に配慮し、鉄道技師釘宮磐(明治四五年帝国大学工科大学土木工学科卒、昭和四年七月より同九年八月まで鉄道省熊本建設事務所長)を中心に最大八〇〇トン級の船舶に対応しうる大規模可動橋として建設が計画されたもので、鉄道技師稲葉権兵衛(大正一三年東京帝国大学工学部土木工学科卒、昭和一四年まで鉄道省官房研究所に勤務)の橋梁設計、鉄道技手坂本種芳(大正八年米沢高等工業学校機械科卒、昭和一四年まで鉄道省工作局に勤務)の可動装置設計に基づき、昭和七年四月に起工、昭和一〇年五月に竣工した。建設には、これらの他、配置計画及び施工計画において釘宮を補佐した加納倹二(昭和三年京都帝国大学工学部土木工学科卒、昭和八年一一月まで熊本建設事務所勤務)、施工の詳細計画及び現場担当を務めた高原芳夫(昭和五年東京帝国大学工学部土木工学科卒)、施工実施に関与し竣工時に佐賀線担当技師を務めた石田啓次郎(大正一四年東京帝国大学工学部土木工学科卒)が関与している。また、起工年月は加納倹二「佐賀線筑後川橋梁工事に就て」(『建設工事講話会記録』昭和九年四月)、竣工年月は『佐賀線筑後川橋梁架設工事概要』(鉄道省熊本建設事務所、昭和一一年三月)により、同概要によると、レール設置を含む橋梁の躯体工事はすでに昭和一〇年三月に終了している。 建設後、旧筑後川橋梁は筑後川下流部を跨ぐ主要交通路として機能したが、昭和六二年三月の廃線後、平成五年から同八年にかけて筑後川昇開橋整備工事が実施され、現在では可動橋の機能を残しつつ遊歩道として活用されている。 旧筑後川橋梁は、単線仕様の鉄道橋として建設されたもので、計一四基の橋脚と橋桁両端部に橋台を設ける下部構造と、右岸側から九連目を可動桁とし、その両側に吊上塔及び控えトラス桁、さらにその両側に計一二連の鈑桁を配した上部構造からなり、全体で橋長五〇七・二メートルとする。昭和一〇年六月八日発行の『鉄道時報』によると、工事費は五四八六〇〇円で、内、下部構造が三四五八〇〇円、上部構造が二〇二八〇〇円(動力設備、信号設備費含む)である。 下部構造は、軟弱地盤を考慮して、紡錘形平面の鉄筋コンクリート造橋脚の内、中央部一一基に八角形平面の鉄筋コンクリート造井筒基礎、両岸に近い三基に松杭基礎を用いる。施工は飛島組で、井筒基礎の深さは一四・六メートルから一八・〇メートル、杭基礎には五・五メートル長から一七メートル長の松丸太を用いる。橋台はコンクリート造で松杭基礎とし、左岸側橋台には谷積の石造翼壁を築く。 上部構造の可動桁を中心とした三連の昇開部分は、支間二四・二メートルの可動鈑桁の両脇に、下路式ワーレントラスとL字形に連結した三〇・一メートル高の吊上塔を配したもので、左岸側吊上塔の下より第二格間の位置に機械室を設ける。可動装置は、各吊上塔頂部に据えられた滑車を介して可動桁の両端と主バランスウェイトがケーブルで接続し、さらに左岸側のみにおいて可動桁端部及び副バランスウェイトが吊上塔上部の滑車と機械室内の捲揚装置を介してケーブルで繋がる片側牽引式とし、平衡ケーブルが可動桁側面に付けられた滑車を介して右岸側吊上塔上部と左岸側吊上塔下部を繋ぐ。可動桁昇降の際には、桁両端の車輪が吊上塔に取り付けられたガイドレールに沿ってレール面から高さ二三メートルまで動く。坂本種芳「佐賀線筑後川橋梁可動装置の設計に就て」(『土木学会誌』、第二一巻、第一号、昭和一〇年一月)によると、建設当初、昇降時間を短縮するため二種類のモーターを用いて停止前及び始動後の昇降速度を毎分四メートル、その間を毎分二〇メートルとしさらに自動的に速度が切り替わる先端的なシステムが採用されていた。昇開部分は、可動桁の銘板より昭和九年株式会社横河橋梁製作所大阪工場製で、Ⅰ型鋼を八幡製鐵所、アングル材を八幡製鐵所及び日本鋼管株式会社、プレートを浅野造船所、リヴェットを浅野小倉製鋼所が製造しており、二基のトラス桁は長さ四六・八メートル、共に可動桁側を固定端、反対側を可動端とする。また、現在、第一格間の上流側に運転室、下流側に倉庫を設けているが、建設当初は、倉庫の位置に運転室があった。また、機械室、運転室及び倉庫は、平成五年から同八年の整備で改築されており保安装置も取り替えられている。 上部構造の鈑桁部分は、支間三六・四メートルで舟形の上路式鈑桁九連、支間がより短い上路式鈑桁一連及び橋台に取付く下路式鈑桁二連からなる。鈑桁は川崎車輌株式会社の昭和九年製作によるもので、右岸側から下路式支間一六メートル一基、上路式支間三六・四メートル六基、昇開部分を挟んで上路式支間三六・四メートル三基、上路式支間二二・三メートル一基、下路式支間一二・九メートル一基からなり、いずれも川側を固定端、陸地側を可動端とする。また、石田啓次郎・高原芳夫「佐賀線筑後川橋梁の浮船式架設工事に就て」(『土木学会誌』、第二一巻、第七号、昭和一〇年七月)によると、潮位差最大約三メートルという河流状況を考慮して、上部工の架設において、中央部一二連に関して従来の足場式等でなくポンツーン・エレクションを採用している。 旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)は、水陸運の共栄を意図した特殊な構造形式により、地域経済の活性化に寄与した建造物として、筑後川流域の社会基盤形成史上、価値が高い。また、わが国に現存する最古の昇開式の可動橋として貴重である。さらに、大規模な構造躯体と技術的完成度の高い可動装置の設計及び施工を、専門を異にする技術者らの高度な協同作業のもとに実現した、鉄道可動橋建設技術の確立を表徴する遺構として重要である。 【参考文献】 『福岡県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』(福岡県教育委員会 一九九三年) 『動く橋の仲間たち』(長浜町・動く橋シンポジウム実行委員会 一九九四年) 『佐賀県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』(佐賀県教育委員会 二〇〇二年)