国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要伝統的建造物群保存地区
主情報
名称
:
福山市鞆町
ふりがな
:
ふくやましともちょう
福山市鞆町
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種別1
:
港町
種別2
:
面積
:
8.6 ha
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
選定年月日
:
2017.11.28(平成29.11.28)
追加年月日
:
選定基準1
:
(二)伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
選定基準2
:
選定基準3
:
所在地
:
広島県福山市
福山市鞆町
解説文:
詳細解説
福山市鞆町は沼隈半島東南端に位置する港町で、周囲の島々と共に鞆の浦と呼ばれる景勝を成し、鞆の浦の地名は『万葉集』の大伴旅人の歌に初見される。古代より潮待ちの港とされ、瀬戸内の海上交通の要衝として栄え、近世には醸造業や船金具・農具・漁網等の製造業も盛んとなり、明治中期以降に海運が衰退しても、これらの産業が町を支えた。江戸中期から昭和戦前までの伝統的な主屋が、中世を基盤として江戸中期までに整えられた地割と共に良く残り、石垣や石階段等の工作物、浜蔵や常夜燈、雁木、舟繋石等の港湾施設と一体となって、港町としての歴史的風致を良く留める伝統的建造物群保存地区。
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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福山市鞆町
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福山市鞆町
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解説文
福山市鞆町は沼隈半島東南端に位置する港町で、周囲の島々と共に鞆の浦と呼ばれる景勝を成し、鞆の浦の地名は『万葉集』の大伴旅人の歌に初見される。古代より潮待ちの港とされ、瀬戸内の海上交通の要衝として栄え、近世には醸造業や船金具・農具・漁網等の製造業も盛んとなり、明治中期以降に海運が衰退しても、これらの産業が町を支えた。江戸中期から昭和戦前までの伝統的な主屋が、中世を基盤として江戸中期までに整えられた地割と共に良く残り、石垣や石階段等の工作物、浜蔵や常夜燈、雁木、舟繋石等の港湾施設と一体となって、港町としての歴史的風致を良く留める伝統的建造物群保存地区。
詳細解説▶
詳細解説
福山市鞆町は、瀬戸内海に突き出た沼隈半島南東部の港町で、その中心の鞆は、江戸時代の町人地を引き継ぐ。潮待ちの港としての好条件を備え、古来より海上交通の要衝として栄えた。周辺の島々と共に成す景勝は、「鞆の浦」として万葉集にも歌われている。 室町時代後期には、すでに相当の町場が形成されており、慶長5年(1600)に安芸・備後両国を領した福島正則が、海を見渡す小丘の鞆城を中心に城下町としての整備を行い、鞆城北麓は武家地、南麓から東麓にかけては町人地とされた。元和5年(1619)から元禄11年(1698)までの水野氏の時代には、福山に城下町が整備されて、鞆には奉行所や船番所などが置かれ、港町としての性格を強めていった。この頃までに町人地は7町に区分され、18世紀初頭には現在の市街地の基礎が整った。江戸中期の7町の人口は、5,800人規模である。 保存地区は、江戸時代の町人地のうち、廻船業の中核を成し、近代以降の地割の変化が少なく、江戸時代の町家主屋が良く残る8.6ヘクタールの区域である。2間を標準とする狭い間口の敷地が集積する一方、隣接地を買い取りながら敷地を拡大した商家も見られ、その代表例として重要文化財太田家住宅及び太田家住宅朝宗亭がある。町家主屋は、切妻造、平入、2階建を基本とする。正面に「オダレ」と呼ぶ下屋を設け、本瓦葺とするのが江戸時代から明治時代に続く古い形式で、庇が連なる景観を特徴の一つとする。 寺社の境内には建物と共に石垣や燈籠、石碑等の石造物が残り、福禅寺本堂及び客殿対潮楼は史跡「朝鮮通信使遺跡」として知られる。港には、江戸後期から明治前期までに整備された、雁木や船繋石、常夜燈、浜蔵が残る。 福山市鞆町伝統的建造物群保存地区には、中世の骨格を引き継ぎながら江戸中期までに整えられた地割に、江戸時代からの伝統的な町家や寺社、石垣等の石造物、港湾施設などが一体となって良好に残り、瀬戸内の港町としての歴史的風致を良く伝える。