国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
対馬宗家関係資料
ふりがな
:
つしまそうけかんけいしりょう
対馬宗家関係資料
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員数
:
895点
種別
:
歴史資料
国
:
日本
時代
:
江戸~明治
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00152
枝番
:
0
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2008.07.10(平成20.07.10)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
東京都
所在地
:
東京都港区三田2-15-45
保管施設の名称
:
学校法人慶應義塾
所有者名
:
学校法人慶應義塾
管理団体・管理責任者名
:
対馬宗家関係資料
解説文:
江戸時代に朝鮮国との外交・貿易を独占的に管掌した対馬宗家の江戸藩邸で作成・保存された資料である。明治初年から江戸の菩提寺養玉院で保管されていたが、後に大半は南葵文庫と慶応義塾とに分割して購入された。慶應義塾所有となった資料のうち重要文化財の対象は、原則として明治政府の外交権接収により、宗家がその役割を外務省に継承した明治五年(一八七二)までの資料である。
中心をなす朝鮮通信使記録は、通信使と関係する各役職で作成された文書をもとに、対馬宗家において編纂したもので、清書に近い段階の下書きである。正確さを期して数度の校訂が重ねられ、清書に準ずる本記録は江戸に、清書本は国許に備えられたと考えられる。本記録の原表紙には「信使記録下書」「清書済」「読合済」等とあり、本文中の訂正の跡から清書に至る校訂の過程がうかがえる。なお、清書本は現在韓国国史編纂委員会に所蔵されている。
本記録は江戸時代に一二回来日した使節のうち、徳川綱吉の襲職を祝う天和二年(一六八二)の通信使から、最後となる文化八年(一八一一)の対馬における易地聘礼までの後半六回の記録であり、さらに天保期以降の来聘・延聘交渉の記録からなる。中でも新井白石が応接儀礼の大改変を行った正徳元年(一七一一)の通信使記録は一四五冊を数え、最もまとまっている。
記録の内容は、通信使派遣要請に伴う交渉・準備段階から通信使が帰国するまでの一連の有様をきわめて詳細に記したもので、聘礼等の儀礼、国書の書式、贈答品、饗応の献立、途次の通信使の動向など通信使来聘に伴う各事項毎に、整然と分類整理されている。また、来聘御用掛の幕閣や馳走役の大名からの先例問い合わせとその返答も独立にまとめて記録されている。これらからは幕府外交儀礼中最上級の応接基準で催された盛大な儀式・饗応の様子や、周到な準備の子細がうかがえるだけでなく、本記録が実務上に繰り返し参照されたことが知られる。
これら朝鮮通信使記録は、将軍襲職祝賀を目的とした通信使として恒例化し、安定をみた時期から、その衰退・廃絶までの推移を概観できるもので、質量ともに充実した記録である。
ともに伝わった記録類は、幕末以降のものが多い。「朝鮮往復書」は、大半が以酊庵の輪番僧による外交文書の記録「本邦朝鮮往復書」の写しである。「公義被仰上」は対馬藩から幕府への報告の記録で、明清交替時や欧米列強の脅威に対する中国・朝鮮国内の動静等の情報も散見され、海外情報収集の窓口としての対馬宗家の役割が現れている。ほかに江戸と国許等の間で交わされた往復書状の控や、祐筆間・留守居方の日記、編纂資料のもととなる通信使関係の覚書や書状等も含まれる。
以上の対馬宗家関係資料は、江戸時代の日本と朝鮮国との友好関係を象徴する朝鮮通信使について、天和期以降の全体像を伝える国内では最もよくまとまった資料群であり、一括して伝えられた記録類とともに、朝鮮国との外交史等を研究する上での基礎資料として価値が高い。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
添付ファイル
なし
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対馬宗家関係資料
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対馬宗家関係資料
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解説文
江戸時代に朝鮮国との外交・貿易を独占的に管掌した対馬宗家の江戸藩邸で作成・保存された資料である。明治初年から江戸の菩提寺養玉院で保管されていたが、後に大半は南葵文庫と慶応義塾とに分割して購入された。慶應義塾所有となった資料のうち重要文化財の対象は、原則として明治政府の外交権接収により、宗家がその役割を外務省に継承した明治五年(一八七二)までの資料である。 中心をなす朝鮮通信使記録は、通信使と関係する各役職で作成された文書をもとに、対馬宗家において編纂したもので、清書に近い段階の下書きである。正確さを期して数度の校訂が重ねられ、清書に準ずる本記録は江戸に、清書本は国許に備えられたと考えられる。本記録の原表紙には「信使記録下書」「清書済」「読合済」等とあり、本文中の訂正の跡から清書に至る校訂の過程がうかがえる。なお、清書本は現在韓国国史編纂委員会に所蔵されている。 本記録は江戸時代に一二回来日した使節のうち、徳川綱吉の襲職を祝う天和二年(一六八二)の通信使から、最後となる文化八年(一八一一)の対馬における易地聘礼までの後半六回の記録であり、さらに天保期以降の来聘・延聘交渉の記録からなる。中でも新井白石が応接儀礼の大改変を行った正徳元年(一七一一)の通信使記録は一四五冊を数え、最もまとまっている。 記録の内容は、通信使派遣要請に伴う交渉・準備段階から通信使が帰国するまでの一連の有様をきわめて詳細に記したもので、聘礼等の儀礼、国書の書式、贈答品、饗応の献立、途次の通信使の動向など通信使来聘に伴う各事項毎に、整然と分類整理されている。また、来聘御用掛の幕閣や馳走役の大名からの先例問い合わせとその返答も独立にまとめて記録されている。これらからは幕府外交儀礼中最上級の応接基準で催された盛大な儀式・饗応の様子や、周到な準備の子細がうかがえるだけでなく、本記録が実務上に繰り返し参照されたことが知られる。 これら朝鮮通信使記録は、将軍襲職祝賀を目的とした通信使として恒例化し、安定をみた時期から、その衰退・廃絶までの推移を概観できるもので、質量ともに充実した記録である。 ともに伝わった記録類は、幕末以降のものが多い。「朝鮮往復書」は、大半が以酊庵の輪番僧による外交文書の記録「本邦朝鮮往復書」の写しである。「公義被仰上」は対馬藩から幕府への報告の記録で、明清交替時や欧米列強の脅威に対する中国・朝鮮国内の動静等の情報も散見され、海外情報収集の窓口としての対馬宗家の役割が現れている。ほかに江戸と国許等の間で交わされた往復書状の控や、祐筆間・留守居方の日記、編纂資料のもととなる通信使関係の覚書や書状等も含まれる。 以上の対馬宗家関係資料は、江戸時代の日本と朝鮮国との友好関係を象徴する朝鮮通信使について、天和期以降の全体像を伝える国内では最もよくまとまった資料群であり、一括して伝えられた記録類とともに、朝鮮国との外交史等を研究する上での基礎資料として価値が高い。
関連情報
一つ書
一、朝鮮通信使記録
一、記録類
関連情報
一つ書
一つ書主名称
:
一、朝鮮通信使記録
一つ書員数
:
四百十七点
ト書
:
関連情報
一つ書
一つ書主名称
:
一、記録類
一つ書員数
:
四百七十八点
ト書
: