国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
世界及日本図
ふりがな
:
せかいおよびにほんず
日本図
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員数
:
一双
種別
:
歴史資料
国
:
日本
時代
:
安土桃山
年代
:
16~17世紀
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
各隻 縦118.0㎝ 横375.0㎝
品質・形状
:
紙本著色屏風装
ト書
:
八曲屏風
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00169
枝番
:
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2012.09.06(平成24.09.06)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
福井県
所在地
:
福井県小浜市遠敷2-104
保管施設の名称
:
福井県立若狭歴史民俗資料館
所有者名
:
福井県
管理団体・管理責任者名
:
日本図
解説文:
詳細解説
一隻に行基図系日本図、一隻に南蛮系世界図を描く地図屏風。16世紀末から17世紀前半にかけて地図屏風は調度として多数作成されたが、本図のように世界図が卵形図法にて描かれるものは最も古い形式と考えられ、東京・小林家本、福井・浄得寺本(ともに重文)および本図の三例のみが伝存する。この三例は、肥前名護屋から朝鮮への航路をあらわすことや朝鮮東北部の情報を書き記すことから、天正20年(1592)の秀吉の朝鮮出兵後に描かれたものであり、地形、地名表記、描写法など大略一致し、同系統の図と認められるものである。 朝鮮半島・中国東北部から、西欧、新大陸にいたるまで世界全体の地理情報を飛躍的に獲得した時代に制作された遺品として重要である。小浜河村家伝来。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
日本図
世界図
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日本図
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世界図
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解説文
一隻に行基図系日本図、一隻に南蛮系世界図を描く地図屏風。16世紀末から17世紀前半にかけて地図屏風は調度として多数作成されたが、本図のように世界図が卵形図法にて描かれるものは最も古い形式と考えられ、東京・小林家本、福井・浄得寺本(ともに重文)および本図の三例のみが伝存する。この三例は、肥前名護屋から朝鮮への航路をあらわすことや朝鮮東北部の情報を書き記すことから、天正20年(1592)の秀吉の朝鮮出兵後に描かれたものであり、地形、地名表記、描写法など大略一致し、同系統の図と認められるものである。 朝鮮半島・中国東北部から、西欧、新大陸にいたるまで世界全体の地理情報を飛躍的に獲得した時代に制作された遺品として重要である。小浜河村家伝来。
詳細解説▶
詳細解説
世界図と日本図との組み合わせになる一双の地図屏風である。制作当初の伝来場所は未詳であるが、江戸時代中期以降は若狭小浜の商家河村家に伝来し、平成23年の所有となった。世界図は、中央経線と赤道との長さ比を一対二とすること、緯線を直線で等間隔とすること、各緯線の等分点を結んだ曲線を子午線とすることなどの特徴をもち、擬円筒技法にていわゆる卵形地図に描かれる。緯線は、赤道、南北回帰線、南北極線のみを直線であらわす。経線はあらわされず、赤道上に縞線にて一度を表現する。陸地は大西洋を中央とし、オーストラリア大陸、南極大陸以外の各大陸および周辺島嶼を描き、国名・地名などを表記する。海上にはポルトガル・リスボン付近を起点とする世界一周航路をあらわし、その航路の一端は長崎付近に到達する。「未知の南方大陸」(テラ・アウストラリス・インコグニタ)は南極線以南の描写を省略するが、ニューギニアと同大陸との関係性を明示しないこと、ユーラシア大陸東端の描写を省略することなどに16世紀後半の欧州における地理情報を反映する。また、大陸内部の河川や湖を誇張して描写すること、リスボン・ゴア・マラッカを経由する航路や、国名・地名をポルトガル語の音訳地名とすることなどから、本図は南蛮系世界図を基としたものとみなされる。なお、同時代の欧州製地図に本図と同内容のものは見つからない。また、日本列島、朝鮮半島は、同時期の欧州の地理情報では描くことができない地形にあらわされ、この地域については日本国内の地理情報をもって改訂したものと考えられる。 日本図は、各国を平滑な曲線の国境線にて画して国名および郡数を記載し、山城から諸国への経路を表示するなど、中世日本に流布した行基図の特徴を示す。しかし、海岸線の形状は屈曲に富んだものとなり、とくにスペイン・ポルトガル船の来航が盛んであった九州の地形は、他地域と比較して現在の地形により近く、日本図についても欧州の地理情報を反映したものと解される。描図の範囲は、蝦夷最南端部から琉球にいたり、くわえて雲の間に朝鮮半島南東部を描く。島嶼部へは航路が朱線にてあらわされるが、とくに「名越」(肥前名護屋)付近から壱岐・対馬を経由して朝鮮半島へ航路が伸びる点は豊臣秀吉による朝鮮出兵の航路になる。ほぼ同内容の世界及日本図屏風に、東京・小林家本と福井・浄得寺本(ともに重要文化財)がある。両本ともに六曲屏風であるが、図法、地形描写、賦彩、図中文字表記などが大略一致して、ほぼ同時期に類似の地理情報をもとに作成されたと考えられる。これらは、こののち江戸時代を通じて多数制作される地図屏風の最初期の作例になる。 制作年代を検討するうえで、世界図における東北アジア地域の描写および日本図における九州の地名表記が注目される。まず、朝鮮北方の「おらんかい」、明北方の「靼々国」(韃靼国)の表記は、天正20年(1592)以降加藤清正が朝鮮に渡海した際に、地図を含む地理情報を日本に伝え国内における朝鮮およびアジア北方地域に関するより正確な地理知識を普及させたことを反映したものとみなされる。また、半島状に描かれる小林家本と浄得寺本の朝鮮半島の地形についても同様である。しかし、半島状に描かれない本図は同情報が反映されておらず、この点よりみれば両本よりも制作年代が早い可能性も指摘される。後者については、本図は料紙欠失のため判明しないが、小林家本と浄得寺本では外国への窓口となる重要港湾を有した博多・名護屋・長崎の三都市は地名表記のみならずその位置を色丸で明示し、同都市が重視された時代性を示す。以上のように、本世界及日本図は天正二10年を大きく隔てない時期に、来日したイエズス会宣教師等がもたらした欧州の地理情報をもとに日本で制作されたものと思量される。欧州と日本の地理情報を相互に補完した内容をもち、東西の世界地理認識をそれぞれに発展させた。