国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
木造阿弥陀如来立像
ふりがな
:
もくぞうあみだにょらいりゅうぞう
木造阿弥陀如来立像1
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員数
:
1躯
種別
:
彫刻
国
:
時代
:
鎌倉
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
3601
枝番
:
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2013.06.19(平成25.06.19)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
大阪府
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
大通寺
管理団体・管理責任者名
:
木造阿弥陀如来立像1
解説文:
詳細解説
いわゆる定朝様が繊細化した院政期様式による、穏やかで優美な像容をみせる阿弥陀像。像内より八条院の近臣、藤原親行(~1203)に関わる文書の紙背を用いた阿弥陀印仏が確認されたことから、同人の追善のため造像されたとみられる。
関連情報
(情報の有無)
附指定
一つ書
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
木造阿弥陀如来立像1
木造阿弥陀如来立像2
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木造阿弥陀如来立像1
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木造阿弥陀如来立像2
解説文
いわゆる定朝様が繊細化した院政期様式による、穏やかで優美な像容をみせる阿弥陀像。像内より八条院の近臣、藤原親行(~1203)に関わる文書の紙背を用いた阿弥陀印仏が確認されたことから、同人の追善のため造像されたとみられる。
詳細解説▶
詳細解説
髪際【はっさい】で三尺を測り、来迎印を結んで立つ阿弥陀如来像である。頭躰幹部を木心を籠めた一材から彫出【ちょうしゅつ】し、前後に割矧ぎ、内刳の上三道下で割首する。表面には当初の錆下地漆箔仕上げが残っている。 その作風は穏やかな曲線を描く躰の輪郭や浅い彫り口の衣文、抑揚を控えた躰軀など、定朝【じょうちょう】様が繊細化した院政期様式を示しており、製作は一二世紀後半から、降っても一三世紀初めころまでの間に置くことができる。作行は整い、おびただしい遺品が知られる当代の三尺阿弥陀像の中でも優れた部類に属するといえる。 近年の修理によって像内躰部より八綴、計八十一通の納入印仏が取出された。料紙一紙に阿弥陀如来坐像を二四〇躰前後を並べ捺しており、うち七〇紙は表裏にわたり捺している。七一紙分には文書が利用され、いずれも書状とみられる。書状の中には寿永元年(一一八二)十二月の年紀を記すものもあり、これが本像の製作年代の上限となる。 書状の中には、安楽寿院から八条院(一一三七~一二一一)に伝領された播磨国石作庄に関して藤原親行が藤蔵人に送ったもの(右第一綴八・九紙)がある。藤原親行は八条院判官代で、『建春門院中納言日記』(『健寿御前日記』『たまきはる』)には親行が八条院に近侍する様子が記録されている。これと筆跡の類似したものが多数みられることからこれらは親行の手になるものを主体とした書状群である可能性がある。本像は子息で藤原定家の家司であった忠弘など近親者の手になり親行追善像として造立供養されたと考えられる。文書の多くが正文であることから、造立にあたりそれらは発給先より回収されたとも想像される。『明月記』建仁三年(一二〇三)二月十一日条に親行死去の記事がみえ、本造の造立もほぼこのころに置くことができる。 消息等に印仏を捺し並べて像内に納入する行為はその筆者の減罪と極楽往生を祈って行われるもので、『陀羅尼集経』にみえる阿弥陀像十万軀を作ることによって死後阿弥陀仏国に生まれることができるという記述等が典拠となったとみられる。兵庫光行寺阿弥陀如来立像は本像と同じく一紙に阿弥陀の印仏を多数印捺し束にして像内に納めており、願文によれば延応元年(一二三九)に比丘尼覚智の誕生から入滅に至る一万七千四百九十六日分の数が、減罪と阿弥陀の引導を願って印捺されている。これを本像の場合に当てはめれば、印仏の総躰数が一万七千四百八十二躰であることから数えで四九歳での死去となり、親行が久寿二年(一一五五)に生まれたことになるが、これは子息忠弘の活動期間や叔母である定家母が天治元年(一一二四)ころの生まれと推定されているのと矛盾しない。 このように本像は造像年代と発願者がほぼ特定できる基準作例であり、院政期における追善造像の有り様をうかがわせる貴重な遺品である。
関連情報
附指定
附 阿弥陀如来印仏(八十一通)
関連情報
附指定
附名称
:
附 阿弥陀如来印仏(八十一通)
附員数
:
8綴
附ト書
:
紙背藤原親行書状等