国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
豫譲<平福百穂筆 大正六年/絹本金地著色 六曲屏風>
ふりがな
:
よじょう ひらふくひゃくすい たいしょうろくねん けんぽんきんじちゃくしょく ろっきょくびょうぶ
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員数
:
1双
種別
:
絵画
国
:
日本
時代
:
近代
年代
:
大正六
西暦
:
1917
作者
:
平福百穂
寸法・重量
:
(各)縦171.9センチ 横372.0センチ
品質・形状
:
絹本著色 屏風装
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
(右隻)百穂「百穂」(朱文方印)
(左隻)「平福貞印」(白文方印)
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
2107
枝番
:
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
東京都
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
公益財団法人永青文庫
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
平福百穂(一八七七~一九三三)は現在の秋田県仙北市角館町に生まれた日本画家で、父の穂庵の手ほどきで画技を習得したのち上京し、川端玉章への入門を経て東京美術学校で日本画を学んだ。明治三十三年に自然主義を掲げた无声会の結成に加わり、東京美術学校西洋画科や太平洋画会研究所でデッサンも修練した。官展や珊瑚会展、金鈴社展への出品を中心に活躍した日本画の大家であるほか、新聞の挿絵、議会や相撲のスケッチなどで人気を獲得し、歌人としても知られる。
本作は第一一回文部省美術展覧会で特選となった百穂の代表作である。描かれるのは中国春秋時代の故事で、豫譲が主君の仇である趙襄子を討とうと躍り出た瞬間を捉える。絵絹の裏側に金箔を貼った屛風に描かれており、やわらかく光る余白と簡潔な構図により高い画品を備える。面的な賦彩を多用するなか、人物の着衣の翻りは勢いある描線であらわされ、静謐で緊迫感のある瞬間を表現する。写生に立脚した軽妙で繊細な作風を展開した百穂の画歴のなかにあり、本作は多彩な表現を駆使しながら簡潔で古格のある画面を実現している。
本作を描くにあたって百穂は資料を博捜しており、豫譲と趙襄子が対峙する構図は後漢の武氏祠画像石(中国山東省)によるものである。衣服の形態や互いに交差し隈を施した衣文線、趙襄子の面貌など、細部表現は女史箴図巻(大英博物館)を範とする。画像石や女史箴図巻に描写される服飾や器財などの素材や形態を知るため、朝鮮で学術研究を進めていた同郷の小場恒吉に参考となる壁画や出土品を問い合わせた書簡も現存している。百穂は本作において、帝国議会のスケッチで経験したような刹那的緊張の表現を目指したといい、画面を単純化するとともに芝居がからないよう心がけたという。また趙襄子の人格を女史箴図巻の元帝の風貌に見いだし、寸分も相違のないように参照したとする。古代の造形を違和感なく近代絵画に応用し、緊迫した一瞬を描き得たことは発表時から高く評価され、百穂の幅広い技量に対する評価が確立するに至った。購入を希望する者は多数にのぼったといい、知る者が少なかった画像石や女史箴図巻への関心が広がり、研究が本格化したとも評された。
以上のように本作は、近代日本画に大きな足跡を残した平福百穂の代表作であることに加え、美術史学や考古学の知見に立脚し、緊迫感のある格調高い画面を高度な画技により実現した傑作として高く評価される。画壇における百穂の評価を確固たるものにした記念碑的な位置にあり、近代美術に多大な影響を与えた古代中国の造形への関心を喚起した点も注目される作品である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
平福百穂(一八七七~一九三三)は現在の秋田県仙北市角館町に生まれた日本画家で、父の穂庵の手ほどきで画技を習得したのち上京し、川端玉章への入門を経て東京美術学校で日本画を学んだ。明治三十三年に自然主義を掲げた无声会の結成に加わり、東京美術学校西洋画科や太平洋画会研究所でデッサンも修練した。官展や珊瑚会展、金鈴社展への出品を中心に活躍した日本画の大家であるほか、新聞の挿絵、議会や相撲のスケッチなどで人気を獲得し、歌人としても知られる。 本作は第一一回文部省美術展覧会で特選となった百穂の代表作である。描かれるのは中国春秋時代の故事で、豫譲が主君の仇である趙襄子を討とうと躍り出た瞬間を捉える。絵絹の裏側に金箔を貼った屛風に描かれており、やわらかく光る余白と簡潔な構図により高い画品を備える。面的な賦彩を多用するなか、人物の着衣の翻りは勢いある描線であらわされ、静謐で緊迫感のある瞬間を表現する。写生に立脚した軽妙で繊細な作風を展開した百穂の画歴のなかにあり、本作は多彩な表現を駆使しながら簡潔で古格のある画面を実現している。 本作を描くにあたって百穂は資料を博捜しており、豫譲と趙襄子が対峙する構図は後漢の武氏祠画像石(中国山東省)によるものである。衣服の形態や互いに交差し隈を施した衣文線、趙襄子の面貌など、細部表現は女史箴図巻(大英博物館)を範とする。画像石や女史箴図巻に描写される服飾や器財などの素材や形態を知るため、朝鮮で学術研究を進めていた同郷の小場恒吉に参考となる壁画や出土品を問い合わせた書簡も現存している。百穂は本作において、帝国議会のスケッチで経験したような刹那的緊張の表現を目指したといい、画面を単純化するとともに芝居がからないよう心がけたという。また趙襄子の人格を女史箴図巻の元帝の風貌に見いだし、寸分も相違のないように参照したとする。古代の造形を違和感なく近代絵画に応用し、緊迫した一瞬を描き得たことは発表時から高く評価され、百穂の幅広い技量に対する評価が確立するに至った。購入を希望する者は多数にのぼったといい、知る者が少なかった画像石や女史箴図巻への関心が広がり、研究が本格化したとも評された。 以上のように本作は、近代日本画に大きな足跡を残した平福百穂の代表作であることに加え、美術史学や考古学の知見に立脚し、緊迫感のある格調高い画面を高度な画技により実現した傑作として高く評価される。画壇における百穂の評価を確固たるものにした記念碑的な位置にあり、近代美術に多大な影響を与えた古代中国の造形への関心を喚起した点も注目される作品である。