国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
多賀城関連遺跡群出土木簡
ふりがな
:
たがじょうかんれんいせきぐんしゅつどもっかん
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員数
:
105点
種別
:
古文書
国
:
日本
時代
:
奈良~平安時代
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
法量等省略
品質・形状
:
木造・墨書
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
745
枝番
:
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2024.08.27(令和6.08.27)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
宮城県
所在地
:
宮城県多賀城市中央2-27-1
保管施設の名称
:
多賀城市埋蔵文化財調査センター
所有者名
:
多賀城市
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
陸奥国府・鎮守府であった多賀城には、その南方の城外地域にも国府域が広がっている。ここには、奈良時代に多賀城の南西部に集落がつくられ、その後、奈良時代末から平安時代にかけて、南北大路と東西大路を基準として、小路により方格に区画された町並みがつくられた。多賀城関連遺跡群とは、この城外地域の山王遺跡と市川橋遺跡を指す。
木簡の内容は、荷札や付札、文書木簡、題籤軸、習書などである。荷札、付札の地名では現在の宮城県・福島県が、品目では米が中心であるが、保存食品、調度品、繊維製品や馬もみられる。また題籤軸木簡では「右大臣殿 餞馬収文」の文字が特に注目され、出土地は陸奥守の邸宅跡であろうとされる。
本木簡は、古代の多賀城にもたらされた物品や朝廷と多賀城の具体的な関わりを示しており、またこれにより人の移動や、方格地割を形成する道路の年代などを明らかにし、東北古代史および社会経済史研究においても、たいへん貴重である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
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解説文
陸奥国府・鎮守府であった多賀城には、その南方の城外地域にも国府域が広がっている。ここには、奈良時代に多賀城の南西部に集落がつくられ、その後、奈良時代末から平安時代にかけて、南北大路と東西大路を基準として、小路により方格に区画された町並みがつくられた。多賀城関連遺跡群とは、この城外地域の山王遺跡と市川橋遺跡を指す。 木簡の内容は、荷札や付札、文書木簡、題籤軸、習書などである。荷札、付札の地名では現在の宮城県・福島県が、品目では米が中心であるが、保存食品、調度品、繊維製品や馬もみられる。また題籤軸木簡では「右大臣殿 餞馬収文」の文字が特に注目され、出土地は陸奥守の邸宅跡であろうとされる。 本木簡は、古代の多賀城にもたらされた物品や朝廷と多賀城の具体的な関わりを示しており、またこれにより人の移動や、方格地割を形成する道路の年代などを明らかにし、東北古代史および社会経済史研究においても、たいへん貴重である。
詳細解説▶
詳細解説
陸奥国府・鎮守府であった多賀城には、城外地域としてその南方にも国府域が広がっている。ここには、まず奈良時代に多賀城の南西部に、区画溝と材木塀で囲まれた集落が形成される。その後、奈良時代の終わりから平安時代にかけて、政庁中軸線上の南北大路と多賀城外郭南辺に平行する東西大路を基準として、小路により方格に区画された町並みが形成され、そこには国守館が存在した。また延暦九年(七九〇)を上限として、旧河川を改修した運河が整備されていた。方格地割の広さは東西約一五〇〇メートル、南北約九〇〇メートルに及び、南側を区切る区画溝が発見されている。多賀城関連遺跡群とは、この城外地域に広がる山王遺跡と市川橋遺跡を指す。なお令和五年重文指定の「多賀城跡出土木簡」(宮城県所有)のうち、多賀城南方の国府域から出土した木簡は、発掘地区を宮城県と多賀城市で分けたうちの宮城県分である。 木簡一〇五点の内訳は、山王遺跡四点、市川橋遺跡一〇一点である。木簡が多く出土した地点は、南北大路と東西大路の交差点付近および運河付近である。 木簡の内容は、荷札や付札、文書木簡、題籤軸、習書などである。 市川橋遺跡においては荷札、付札の多さが目立ち、記された地名は下総国千葉郷を除き、陸奥国伊具郡、安積郡、信夫郡など、現在の宮城県南部と福島県内にあたる。品目は米が中心であるが、内子や腊などの保存食品、薦や長筥などの調度品、絹などの繊維製品、馬もみられる。 このような物資は、太平洋に注いでいた七北田川を遡り、運河を通じてこの地に運ばれたと考えられる。また陸路の場合は、主に東山道駅路を通りこの地域にもたらされたとみられ、南北大路や運河の周辺一帯は、物資の集積所ないし経済活動の場としての役割を担っていたと推定されている。 南北大路と東西大路の交差点北東エリアからは、兵士が「馬庭」の修理に従事していたことを示す文書木簡が出土している。多賀城跡と異なり城外では数少ない兵士関連の内容で、なおかつこの場が馬の訓練や飼育の場であったことが知られる。 山王遺跡では、山王遺跡第九次調査出土の題籤軸木簡が注目され、「右大臣殿 餞馬収文」の文字から、出土地は陸奥守の邸宅跡であろうとされた。場所は東西大路に面した北側で、発掘調査の成果を踏まえると、東西大路沿いには国司クラスの邸宅が置かれたと考えられている。 出土木簡の全体的な特徴については、多賀城内は軍事を含めた政治色の濃い内容であるのに対し、多賀城の南面遺跡は生活物資や経済活動に関するものである。 多賀城関連遺跡群出土木簡は、古代の多賀城にもたらされた物品や朝廷と多賀城の具体的な関わりを示しており、またこれにより人の移動や、方格地割を形成する道路や運河の年代などを明らかにし、東北古代史および社会経済史研究においても、たいへん貴重である。