国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
栃木県上神主・茂原官衙遺跡出土刻書瓦
ふりがな
:
とちぎけんかみこうぬし・もばらかんがいせきしゅつどこくしょがわら
刻書瓦
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員数
:
1461点
種別
:
考古資料
国
:
日本
時代
:
奈良時代
年代
:
8世紀
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
679
枝番
:
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2024.08.27(令和6.08.27)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
栃木県
所在地
:
栃木県宇都宮市竹下町380-1
保管施設の名称
:
とびやま歴史体験館
所有者名
:
宇都宮市・上三川町
管理団体・管理責任者名
:
刻書瓦
解説文:
詳細解説
上神主・茂原官衙遺跡は、古代下野国河内郡衙と考えられる。本一括はその内、8世紀後半の礎石瓦葺建物跡から出土した刻書瓦である。
その内容はほとんどが人名で、主に当時の郷名と共通する氏、および名が刻書される。最多の氏は「酒マ (※)」次いで「雀マ 」であり、「丈マ 」「大麻マ 」「白マ 」なども比較的多い。主に当時の河内郡にあった郷名と共通し、酒部郷・丈部郷・大續(大麻)郷・真壁(白髪 )郷と関連する。「神主マ 」や「雀マ」は、「上神主・下神主」「雀宮」という現在に残る地名と関係する。
同一の氏・名においても、文字遣いや筆跡が異なる刻書があり、2名から3名の書き手の存在がうかがえる。
これらは礎石瓦葺建物に関する、河内郡およびその周辺氏族の関わり方や、瓦の生産・供給の在り方をうかがい知ることができる、貴重な遺構出土の一括である。
※「部」の略字として、つくり(阝)の部分のみが使用される。これをさらに略して「マ」の字状に表現される。ここでは、形が近い片仮名のマで記載している。
関連情報
(情報の有無)
附指定
一つ書
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
刻書瓦
上神主・茂原官衙遺跡出土刻書瓦・軒丸瓦
「酒部」氏の刻書瓦
「神主部」氏の刻書瓦
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刻書瓦
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上神主・茂原官衙遺跡出土刻書瓦・軒丸瓦
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「酒部」氏の刻書瓦
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「神主部」氏の刻書瓦
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解説文
上神主・茂原官衙遺跡は、古代下野国河内郡衙と考えられる。本一括はその内、8世紀後半の礎石瓦葺建物跡から出土した刻書瓦である。 その内容はほとんどが人名で、主に当時の郷名と共通する氏、および名が刻書される。最多の氏は「酒マ (※)」次いで「雀マ 」であり、「丈マ 」「大麻マ 」「白マ 」なども比較的多い。主に当時の河内郡にあった郷名と共通し、酒部郷・丈部郷・大續(大麻)郷・真壁(白髪 )郷と関連する。「神主マ 」や「雀マ」は、「上神主・下神主」「雀宮」という現在に残る地名と関係する。 同一の氏・名においても、文字遣いや筆跡が異なる刻書があり、2名から3名の書き手の存在がうかがえる。 これらは礎石瓦葺建物に関する、河内郡およびその周辺氏族の関わり方や、瓦の生産・供給の在り方をうかがい知ることができる、貴重な遺構出土の一括である。 ※「部」の略字として、つくり(阝)の部分のみが使用される。これをさらに略して「マ」の字状に表現される。ここでは、形が近い片仮名のマで記載している。
詳細解説▶
詳細解説
栃木県宇都宮市南端および上三川町北西端の台地上に立地する、上神主・茂原官衙遺跡から出土した、奈良時代の刻書瓦一括である。7世紀後葉から9世紀前葉にかけての古代下野国河内郡の官衙跡と考えられており、本一括はこのうち8世紀後半の礎石瓦葺建物跡からの出土品で、刻書瓦1461点で構成される。附として釈読不可の刻書瓦残欠831点、軒丸・軒平瓦・道具瓦59点を含む。 本刻書瓦は、釈読できたものはほとんどが人名で、主に当時の郷名や地名と共通する氏、および名が刻書される。最多の氏は「酒マ(「マ」は「部」の略字)」、次いで「雀マ」であり、「丈マ」「大麻マ」「白マ」なども比較的多い。主に当時の河内郡にあった郷名と共通し、酒部郷・丈部郷・大續(大麻)郷・真壁(白髪)郷と関連する。また少量であるが、芳賀郡の郷名に共通する氏も認められ、「若麻マ」「氏マ・宇遅マ・氏家」「物マ」は若続(若麻績)郷・氏家郷・物部郷と関連している。「雀マ」や「神主マ」の刻書は、遺跡名の由来ともなった「上神主・下神主」、および「雀宮」という現代の地名と関係する。 また、同一の氏・名であっても、文字遣いや筆跡が異なる刻書も認められることから、少なくとも本人のみの刻書とは限定し得ず、2名から3名の書き手が存在していたと考えられる。 本刻書瓦の中に含まれる「君子」という刻書に関し、天平宝字元年(757)以降は「吉美侯」と改められることが『続日本紀』に記されているため、年代は757年以前となる。また、伴出している軒丸・軒平瓦が下野国分寺創建期の瓦とおよそ同段階であることから、その年代は国分寺建立の詔勅が出された天平13年(741)以後とも考えられている。 これらは、礎石瓦葺建物に伴う瓦生産とその供給に際しての、河内郡およびその周辺における氏族の関わり方を解明するうえで重要である。わが国の古代官衙における瓦の生産・供給の在り方を窺い知ることができる、遺構出土の一括として稀有な事例であり、高い学術的価値を有している。
関連情報
附指定
刻書瓦残欠
軒丸・軒平・道具瓦
関連情報
附指定
附名称
:
刻書瓦残欠
附員数
:
831点
附ト書
:
関連情報
附指定
附名称
:
軒丸・軒平・道具瓦
附員数
:
59点
附ト書
: