国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
金峯山経塚出土紺紙金字経
ふりがな
:
きんぷせんきょうづかしゅつどこんしきんじきょう
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員数
:
8巻
種別
:
書跡・典籍
国
:
日本
時代
:
平安時代
年代
:
西暦
:
作者
:
藤原道長・藤原師通
寸法・重量
:
法量省略
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
286
枝番
:
国宝・重文区分
:
国宝
重文指定年月日
:
1953.03.31(昭和28.03.31)
国宝指定年月日
:
2024.08.27(令和6.08.27)
追加年月日
:
1955.02.02(昭和30.02.02)
所在都道府県
:
奈良県
所在地
:
奈良国立博物館 奈良県奈良市登大路町50
保管施設の名称
:
奈良国立博物館
所有者名
:
金峯神社
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
奈良県・山上ヶ岳山頂の大峯山寺山上本堂周辺に、主に平安時代に営まれた複数の経塚を総称して金峯山経塚という。
藤原道長(九六六~一〇二七)は、寛弘四年(一〇〇七)に金峯山に参詣して、「金銅藤原道長経筒」(国宝・金峯神社所有)に自筆の法華経等十五巻を収めて埋納した。経筒の銘文から、法華経等十巻は長徳四年(九六八)に書写し、残る五巻は寛弘四年に書写したこと等がわかる。長く地中に在ったため各巻共に下半が朽ちて失われているが、残存部分は料紙の状態がよく、金字もはっきりと判読できる。なお、『御堂関白記』の記述からも埋納の経緯を知ることができる。
道長のひ孫にあたる藤原師通(一〇六二~九九)は、寛治二年(一〇八八)と同四年の二度にわたって金峯山に詣でている。現存する師通願経は寛治二年のものであり、同年の「藤原師通願文」(重文)によると金字法華経八巻等十二巻を「銅函」に納めて埋納したことが知られている。経典の天地が完存するものが多く、金字は道長願経に比べるとやや薄いが、ほぼ判読可能である。
道長願経は元禄四年(一六九一)出土と伝えられ、師通願経も明治時代の神仏分離以前に出土したと推測される。これらは、出土後に年月を経て各所に分蔵されるようになった。
金峯神社所有の本経は、金峯山寺所有の一群に次ぐ七十九紙という枚数を誇っている。また、他には小片二例しか伝わっていない表紙断簡七巻分が含まれており、表紙や見返の図像研究にとっても貴重な史料である。表紙の現状から下半を欠くものは道長願経、天地が残る一巻分のみ師通願経のものと判断できる。
これらは、我が国の歴史上、著名な人物の自筆であり、かつ、関係史料から埋納の経緯も知られることから、文化史研究上、学術的にきわめて価値が高く、特に貴重である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
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解説文
奈良県・山上ヶ岳山頂の大峯山寺山上本堂周辺に、主に平安時代に営まれた複数の経塚を総称して金峯山経塚という。 藤原道長(九六六~一〇二七)は、寛弘四年(一〇〇七)に金峯山に参詣して、「金銅藤原道長経筒」(国宝・金峯神社所有)に自筆の法華経等十五巻を収めて埋納した。経筒の銘文から、法華経等十巻は長徳四年(九六八)に書写し、残る五巻は寛弘四年に書写したこと等がわかる。長く地中に在ったため各巻共に下半が朽ちて失われているが、残存部分は料紙の状態がよく、金字もはっきりと判読できる。なお、『御堂関白記』の記述からも埋納の経緯を知ることができる。 道長のひ孫にあたる藤原師通(一〇六二~九九)は、寛治二年(一〇八八)と同四年の二度にわたって金峯山に詣でている。現存する師通願経は寛治二年のものであり、同年の「藤原師通願文」(重文)によると金字法華経八巻等十二巻を「銅函」に納めて埋納したことが知られている。経典の天地が完存するものが多く、金字は道長願経に比べるとやや薄いが、ほぼ判読可能である。 道長願経は元禄四年(一六九一)出土と伝えられ、師通願経も明治時代の神仏分離以前に出土したと推測される。これらは、出土後に年月を経て各所に分蔵されるようになった。 金峯神社所有の本経は、金峯山寺所有の一群に次ぐ七十九紙という枚数を誇っている。また、他には小片二例しか伝わっていない表紙断簡七巻分が含まれており、表紙や見返の図像研究にとっても貴重な史料である。表紙の現状から下半を欠くものは道長願経、天地が残る一巻分のみ師通願経のものと判断できる。 これらは、我が国の歴史上、著名な人物の自筆であり、かつ、関係史料から埋納の経緯も知られることから、文化史研究上、学術的にきわめて価値が高く、特に貴重である。
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詳細解説
奈良県・山上ヶ岳山頂の大峯山寺山上本堂周辺に、主に平安時代に営まれた複数の経塚を総称して金峯山経塚という。 藤原道長(九六六~一〇二七)は、寛弘四年(一〇〇七)八月十一日、金峯山に参詣し山上の本堂前に立てた金銅灯籠の下に経を経筒に納めて埋納した。この経筒は元禄四年(一六九一)出土と伝えられて現存しており、「金銅藤原道長経筒」(金峯神社所有)として国宝指定されている。この経筒の銘文から、道長が埋納した経典は自ら書写した一五巻であり、その内訳は「妙法蓮華経一部八巻、無量義経、観普賢経各一巻、阿弥陀経一巻、弥勒上生下生成仏経各一巻、般若心経一巻」であること、また、「法華経」は「先年奉書・長徳四年(九九八)」したものだが参詣がかなわず京洛に於いて供養したもので、「阿弥陀経」と「弥勒経」は「此度奉書・寛弘四年」したものであることが知られている。これらは、全て下半が欠失しているが、おおむね残存部分の状態は良好で金色の発色もよい。なお、道長の日記『御堂関白記』の記述からも埋納の経緯を知ることができる。 藤原師通(一〇六二~九九)は、道長のひ孫にあたる。師通は寛治二年(一〇八八)七月と同四年八月の二度にわたって金峯山に詣でて埋経した。重要文化財「紙本墨書藤原師通願文」によると、寛治二年には「金泥妙法蓮華経八巻、無量義経、観普賢経、般若心経、金剛寿命経各一巻」計一二巻を「銅函」に納めて埋納したことが知られる。各所に所蔵されている師通願経は、明治時代の神仏分離以前に出土したものと推測されており、なかには天地が完存しているものもある。なお、京都国立博物館保管の重要文化財「紺紙金字法華経巻第八断簡」九紙には「寛治二年七月廿七日」の奥書があり、本経はこれと同様の特徴を備えている。 金峯山経塚出土の紺紙金字経は各所に分蔵されていて、金峯山寺所有の二〇〇紙をはじめ、前述した以外にも重要文化財に指定されたものに限っても東京国立博物館保管三紙および五島美術館所有一八紙がある。この他、未指定のものも加えると総数三五〇紙ほどの現存が確認されている。 重要文化財「大和国金峯山経塚出土品」(金峯神社所有)は鍍銀経箱一合と金銅経箱台残闕一枚、および道長・師通筆紺紙金字経殘闕から成っている。経箱等と紺紙金字経は一具のものとする傍証は無く、別の経典のためのものと考えるのが適当である。 本経は、他所に分蔵される金峯山出土の紺紙金字経と同様の特徴があり、それらと接続するものが多く、また、重複する箇所は皆無であり、もと同一の写経であったことが分かる。紙数は道長筆五六紙、師通筆二三紙、計七九紙に及んでいて、金峯山寺所有の二〇〇紙に次いで多く、藤原道長と師通が自ら書写して金峯山に埋納した極めて著名な紺紙金字経の大部な一括であることから、経箱等と分割して書跡・典籍分野の文化財として評価した。 このたび追加した表紙断簡は、これらの経巻と同様の修理が施されて、同じ保存箱にて保管されてきたものである。これらは、六巻分の表紙断簡であり、道長願経の表紙が五巻分、師通願経の表紙が一巻分と推定できる。表紙の遺例は少なく、道長・師通願経の表紙、見返絵研究にとって有用な資料である。 本経は、我が国の仏教史、文化史研究上、学術的に極めて価値が高く、かつ、特に貴重である。