国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
木造十二神将立像(所在本堂)
ふりがな
:
解説表示▶
員数
:
12躯
種別
:
彫刻
国
:
日本
時代
:
鎌倉
年代
:
1227
西暦
:
1227
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
うち一躯の像内に嘉禄三年七月、大仏師南京三川公蓮慶等の銘がある
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
03479
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1999.06.07(平成11.06.07)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
山梨県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
大善寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
大善寺本堂(国宝)内陣須弥壇上の本尊厨子の左右に六躯ずつ安置される十二神将像である。各像は、いずれも四尺を超え、頭部に標幟を表し、着甲像や上半身裸形像などもあり、甲制やその体勢も多彩で変化に富み、平安後期から鎌倉期の十二神将の図像に則りながら変化を加えている。
各像ともヒノキ材製で、玉眼(午神のみ珠を外から当てる)を嵌入する。一木造の戌・午神像や、頭体別材製(巳神〈頭部・躰部とも各前後矧〉、卯神〈頭部は前後矧、躰部は前後左右の四材製〉)のものもあるが、それ以外の像はおおむね頭体を通して前後矧の上割首・割足の構造をなす。
寅神像内銘により嘉禄三年(一二二七)七月十三日、大仏師南京三川公蓮慶によって造られたことが判明する。『甲斐国志』大善寺条には、十二神将中の午・酉・未神の像内に嘉禄三年と安貞二年(一二二八)に大仏師運慶三河公が造り始めた旨の銘記があることが記録されている。現在、すべての像内銘を確認することはできないが、寅神の墨書銘からみれば、『甲斐国志』に記される運慶とは蓮慶の誤りとみなされ、他の像も蓮慶とその一派による造像と考えられる。
蓮慶は、同県御坂町福光園寺吉祥天像(寛喜三年〈一二三一〉、重文)の像内銘に大仏子蓮慶大徳と称する銘文があるが、特に吉祥天の脇侍である持国天・多聞天像は、前後二材矧の上割首・割足とする構造技法に本像と共通するものがあり、動勢を控えた穏やかな姿態など作風も非常に類似している。このころの十二神将像の優品として知られる興福寺東金堂像(建永二年〈一二〇七〉、国宝)の激しい動勢に比べれば穏健な表現で、こうした点が蓮慶の作風ともとれる。この特徴は、嘉禄元年(一二二五)に仏師蓮慶が造った奈良県吉野水分神社の伝若宮神像にも同様の指摘ができ、これらはいずれも同一人の作と考えて差し支えなく、これまで作風の明らかでなかった蓮慶の作品が新たに加わった意義は大きい。
本一具は、蓮慶銘を有する寅神に作風の類似する子・酉神や、ひときわ眼の大きい丑・辰・巳・未・申・亥神像、一木造の午・戌神像などはそれぞれに作風等に若干の違いがあり、幾人かの仏師の参加が想定される。しかしながら作風に多少の違いはあるが蓮慶を中心とする仏師により製作されたものとすべきであろう。
このうち午神は面相部の忿怒表現が異様に誇張され、他の像に比べて体躯が著しく痩身で、本一二躯の中でも異色な像である。他に比較すべき作例は求めがたく、こうした表現が製作時期の遅れを示すものとも考えられるものの、大きく降らないころには造像されていたと考えられる。
いずれにしても本像が一具として伝来してきたことは大いに推賞され、単に蓮慶の事績を物語るのみならず、鎌倉前期十二神将像の基準作として、慶派仏師の作風の発展・伝播を考える貴重な作例となりえよう。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
大善寺本堂(国宝)内陣須弥壇上の本尊厨子の左右に六躯ずつ安置される十二神将像である。各像は、いずれも四尺を超え、頭部に標幟を表し、着甲像や上半身裸形像などもあり、甲制やその体勢も多彩で変化に富み、平安後期から鎌倉期の十二神将の図像に則りながら変化を加えている。 各像ともヒノキ材製で、玉眼(午神のみ珠を外から当てる)を嵌入する。一木造の戌・午神像や、頭体別材製(巳神〈頭部・躰部とも各前後矧〉、卯神〈頭部は前後矧、躰部は前後左右の四材製〉)のものもあるが、それ以外の像はおおむね頭体を通して前後矧の上割首・割足の構造をなす。 寅神像内銘により嘉禄三年(一二二七)七月十三日、大仏師南京三川公蓮慶によって造られたことが判明する。『甲斐国志』大善寺条には、十二神将中の午・酉・未神の像内に嘉禄三年と安貞二年(一二二八)に大仏師運慶三河公が造り始めた旨の銘記があることが記録されている。現在、すべての像内銘を確認することはできないが、寅神の墨書銘からみれば、『甲斐国志』に記される運慶とは蓮慶の誤りとみなされ、他の像も蓮慶とその一派による造像と考えられる。 蓮慶は、同県御坂町福光園寺吉祥天像(寛喜三年〈一二三一〉、重文)の像内銘に大仏子蓮慶大徳と称する銘文があるが、特に吉祥天の脇侍である持国天・多聞天像は、前後二材矧の上割首・割足とする構造技法に本像と共通するものがあり、動勢を控えた穏やかな姿態など作風も非常に類似している。このころの十二神将像の優品として知られる興福寺東金堂像(建永二年〈一二〇七〉、国宝)の激しい動勢に比べれば穏健な表現で、こうした点が蓮慶の作風ともとれる。この特徴は、嘉禄元年(一二二五)に仏師蓮慶が造った奈良県吉野水分神社の伝若宮神像にも同様の指摘ができ、これらはいずれも同一人の作と考えて差し支えなく、これまで作風の明らかでなかった蓮慶の作品が新たに加わった意義は大きい。 本一具は、蓮慶銘を有する寅神に作風の類似する子・酉神や、ひときわ眼の大きい丑・辰・巳・未・申・亥神像、一木造の午・戌神像などはそれぞれに作風等に若干の違いがあり、幾人かの仏師の参加が想定される。しかしながら作風に多少の違いはあるが蓮慶を中心とする仏師により製作されたものとすべきであろう。 このうち午神は面相部の忿怒表現が異様に誇張され、他の像に比べて体躯が著しく痩身で、本一二躯の中でも異色な像である。他に比較すべき作例は求めがたく、こうした表現が製作時期の遅れを示すものとも考えられるものの、大きく降らないころには造像されていたと考えられる。 いずれにしても本像が一具として伝来してきたことは大いに推賞され、単に蓮慶の事績を物語るのみならず、鎌倉前期十二神将像の基準作として、慶派仏師の作風の発展・伝播を考える貴重な作例となりえよう。