国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
皆川家文書(六十一通)
ふりがな
:
みながわけもんじょ
皆川家文書(六十一通) [旧重美](頼朝袖判下文)
写真一覧▶
解説表示▶
員数
:
7巻、9通
種別
:
古文書
国
:
日本
時代
:
鎌倉~江戸
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00178
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2000.12.04(平成12.12.04)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
東京都
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
国(文化庁)
管理団体・管理責任者名
:
皆川家文書(六十一通) [旧重美](頼朝袖判下文)
解説文:
下野国の皆川家に伝来した古文書群である。皆川家は、小山政光の次男で有力御家人の長沼宗政(一一六二-一二四〇)の孫にあたる宗員が、下野国皆川庄(現栃木市)に居を構え、皆川四郎左衛門尉を称したのに始まる。宗員の系統は、元亨三年(一三二三)六代宗常のとき、執権北条高時に背き、所領を没収されて断絶する。一方、宗員の弟宗泰の系統は、長沼惣領家を継承し、南北朝時代に陸奥国に移住した後、室町時代中期に皆川庄に本拠を置いて皆川姓を名乗った。天正元年(一五七三)に家督を継いだ広照は、宇都宮氏、後北条氏の麾下に属し、小田原征伐を契機に徳川家康に仕えて譜代大名となり、のち改易されるが、子孫は旗本として続いた。
本文書は、『皆川家文書』の主要部分をなすもので、戦前に皆川家より巷間に流出し、昭和十二年五月に重要美術品に認定された後、所在不明となっていたが、近年その存在が明らかになり、平成十年三月に文化庁が購入するにいたったものである。
本文書中、頼朝の乳母である小山朝光(宗政弟)母堂を「下野國寒河郡并阿志土郷」の地頭職に補任した文治三年(一一八七)十二月一日附源頼朝袖判下文が最古の文書である。『吾妻鏡』同日条には、「今日、小山七郎朝光母〈下野大掾政/光入道後家〉、給下野國寒河郡并網戸郷、是雖爲女姓依有大功也、」とみえている。宗政を美濃国大榑庄地頭職に補任した正治二年(一二〇〇)十一月九日附源頼家袖判下文は、遺例の少ない頼家発給文書として貴重である。また承久の乱後に宗政を摂津国、淡路国の守護職に補任した承久三年(一二二一)六月廿五日附、同七月廿日附の関東下知状や、長沼惣領家による淡路国守護職相承を示す永仁五年(一二九七)十一月十日附関東御教書などもみられる。
南北朝時代の足利尊氏、義詮の軍勢催促状は、観応の擾乱における一族の動向などを伝えて注目される。また応永年間(一三九四-一四二八)に長沼義秀と鎌倉公方足利持氏との間でやりとりされた一二通の文書は、持氏との密接な関係や、上杉禅秀の乱とその後の禅秀余党岩松、小栗らに対する討伐の状況をうかがわせる。さらに天正九年(一五八一)葦毛馬一疋を進上したことに対する礼状である織田信長朱印状は、小田原征伐前後の皆川広照の活動を考える上で興味深いとともに、当初の姿を残しており、料紙の使い方や封式を考える際の資料としても注目される。
本文書は、鎌倉時代前期から室町時代にいたる武家発給文書を多く含んでいるのが特徴である。また皆川氏が中世の戦乱を経て、徳川の譜代大名へと成長した変遷を伝えるもので、中世東国史研究上に重要である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
写真一覧
皆川家文書(六十一通) [旧重美](頼朝袖判下文)
写真一覧
皆川家文書(六十一通) [旧重美](頼朝袖判下文)
解説文
下野国の皆川家に伝来した古文書群である。皆川家は、小山政光の次男で有力御家人の長沼宗政(一一六二-一二四〇)の孫にあたる宗員が、下野国皆川庄(現栃木市)に居を構え、皆川四郎左衛門尉を称したのに始まる。宗員の系統は、元亨三年(一三二三)六代宗常のとき、執権北条高時に背き、所領を没収されて断絶する。一方、宗員の弟宗泰の系統は、長沼惣領家を継承し、南北朝時代に陸奥国に移住した後、室町時代中期に皆川庄に本拠を置いて皆川姓を名乗った。天正元年(一五七三)に家督を継いだ広照は、宇都宮氏、後北条氏の麾下に属し、小田原征伐を契機に徳川家康に仕えて譜代大名となり、のち改易されるが、子孫は旗本として続いた。 本文書は、『皆川家文書』の主要部分をなすもので、戦前に皆川家より巷間に流出し、昭和十二年五月に重要美術品に認定された後、所在不明となっていたが、近年その存在が明らかになり、平成十年三月に文化庁が購入するにいたったものである。 本文書中、頼朝の乳母である小山朝光(宗政弟)母堂を「下野國寒河郡并阿志土郷」の地頭職に補任した文治三年(一一八七)十二月一日附源頼朝袖判下文が最古の文書である。『吾妻鏡』同日条には、「今日、小山七郎朝光母〈下野大掾政/光入道後家〉、給下野國寒河郡并網戸郷、是雖爲女姓依有大功也、」とみえている。宗政を美濃国大榑庄地頭職に補任した正治二年(一二〇〇)十一月九日附源頼家袖判下文は、遺例の少ない頼家発給文書として貴重である。また承久の乱後に宗政を摂津国、淡路国の守護職に補任した承久三年(一二二一)六月廿五日附、同七月廿日附の関東下知状や、長沼惣領家による淡路国守護職相承を示す永仁五年(一二九七)十一月十日附関東御教書などもみられる。 南北朝時代の足利尊氏、義詮の軍勢催促状は、観応の擾乱における一族の動向などを伝えて注目される。また応永年間(一三九四-一四二八)に長沼義秀と鎌倉公方足利持氏との間でやりとりされた一二通の文書は、持氏との密接な関係や、上杉禅秀の乱とその後の禅秀余党岩松、小栗らに対する討伐の状況をうかがわせる。さらに天正九年(一五八一)葦毛馬一疋を進上したことに対する礼状である織田信長朱印状は、小田原征伐前後の皆川広照の活動を考える上で興味深いとともに、当初の姿を残しており、料紙の使い方や封式を考える際の資料としても注目される。 本文書は、鎌倉時代前期から室町時代にいたる武家発給文書を多く含んでいるのが特徴である。また皆川氏が中世の戦乱を経て、徳川の譜代大名へと成長した変遷を伝えるもので、中世東国史研究上に重要である。
関連情報
添付ファイル
皆川家文書目録