国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
絹本著色両界曼荼羅図
ふりがな
:
けんぽんちゃくしょくりょうがいまんだらず
絹本著色両界曼荼羅図
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員数
:
2幅
種別
:
絵画
国
:
日本
時代
:
鎌倉
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
01983
枝番
:
2
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2000.12.04(平成12.12.04)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
奈良県
所在地
:
奈良国立博物館 奈良県奈良市登大路町50
保管施設の名称
:
奈良国立博物館
所有者名
:
独立行政法人国立文化財機構
管理団体・管理責任者名
:
絹本著色両界曼荼羅図
解説文:
倶利迦羅竜剣二童子図は中央に蓮華上に立つ三鈷剣に纏わりつく倶利迦羅竜王を大きく表し、竜王の右に矜羯羅童子、左に制〓迦童子を配した図である。竜王と二童子は遍身火焔に包まれており、いずれも海中の巌上に立っている。
剣を四足で掴み刃先から呑み込もうとする竜王は金色身で、首に如意宝珠を付け、額に玉角一本が生え背には鋭い背鰭が尾先に至る。熾烈に燃え盛る火焔は、画面左上部にちぎれ飛ぶ火の玉まで表している。また蕨手状に立ち上がる炎を丹で表している。
二童子は肥満した滑稽味のある表現で、矜羯羅童子は右手に持った棍棒を地に立て、赤紐で鈴を付けた棒端を押さえる右手甲に顎を乗せる。左手は腰脇につけて独鈷杵を握る。制〓迦童子は左手に棍棒、右手には三鈷杵を握り、竜王を見上げる。矜羯羅童子は白肉色身で、頭頂を剃り前髪を揃えて真っ直ぐに両目上まで垂らしている。両肩に青布を巻き、条帛は長く左腰下に及ぶ。制〓迦童子は赤色身で結んだ口の端に小牙を出す。黄土色の髪は左右に扇状に広がり額を露わす。豪華な金色の胸飾を懸け、広布を右肩で結び余を左腕から体正面に垂らしている。二童子の火焔は光背状に丹を薄く地塗りし、制〓迦童子では朱で描き、矜羯羅童子では丹に片暈し風に朱を塗っている。
倶利迦羅竜および二童子は『尊勝悉地法』(善無畏訳『仏頂尊勝心破地獄転業障出三界秘密三身仏果三種悉地真言儀軌』)に不動明王の変成身として説かれる。これはいわゆる不動十九想観とも共通する道場観の一過程であり、本図はこれを絵画化したものと考えられるが、竜を不動明王に見立てるならば通例の不動明王二童子像の一変形と見られなくもない。一方、除病や降雨を祈り造像されることが『説矩里迦龍王像法』に説かれており、画面が薫染により汚れていることをも考えれば、本図はそのような倶利迦羅法の本尊として造像されたと解することも可能であろう。
倶利迦羅竜の画像例は、兵庫・鶴林寺太子堂内陣の西北柱に五童子を従えた倶利迦羅竜剣図があり、石山寺に白描倶利迦羅竜三童子図像があるが、本図の竜の表現は後者に近い。一方、本図の二童子の配置は通例と逆であり、その表現は例を見ない独特のもので、両者ともに火焔光背を表していることも珍しい。特に火焔を伴う二童子像は滋賀・恵光院蔵不動明王二童子像(重文)のような例があるものの極めて稀で、他には智証大師様とされる不動明王三童子五使者像の三童子に火焔を表しているくらいである。
本図の表現を見ると、例えば波飛沫の表現は平安時代作であるフリア美術館蔵如意輪観音像中のものに近似する。火焔に墨色を用いることは滋賀・大林院蔵不動明王二童子像(重文)に見られるが、矜羯羅童子の火焔のように朱暈で丹の炎を表すことは珍しく、火焔の形状には京都国立博物館保管烏枢沙摩明王像(重文)に類した特徴的な弧線の繰り返しが認められる。竜の表現が石山寺白描本に近く、波の表現などに平安風をよく残しているが、本図の制作時期は鎌倉時代前期に想定される。さらに、真言宗ながら立地的に天台の図像が入りやすかった石山寺を一応除外するとしても、以上の諸類例から本図が天台系寺院で制作されたと推測することが許されよう。
本図は以上のように図像学的な貴重さにとどまらず、的確かつ勢いのある線描、二童子や火焔にみられるような豊かな表現性を持っており、絵画史上重要な遺品ということができよう。
本図は両界曼荼羅二幅と同一の箱に納められ伝来した。
金剛界曼荼羅は成身会一会からなる八十一尊曼荼羅。大略は白描叡山本金剛界曼荼羅図像と共通するが、若干の差異も存す。特に降三世明王が立像で大自在天と烏摩妃を踏む点が大きく異なる。
胎蔵界曼荼羅は各尊像が白描叡山本胎蔵界曼荼羅図像と共通する。開敷花王如来の右手を指先を下に向け、天鼓雷音如来の右手を膝ではなく足首に近く置くこと、功徳天が右手掌を正面に向けず地に向けることなど、微細な点を除き、よく一致する。
両幅は保存状態が悪く彩色の剥落が進んでおり、特に金剛界曼荼羅図では上部に大きな後補部分があり、白色の補彩が画面全体に施されて画面を著しく損ねている。しかし、両幅ともに同時の制作とみられ、的確で歯切れの良い象形から鎌倉時代半ばを降らない作と思われる。特に胎蔵界曼荼羅では白描叡山本図像と同様に頭部を大きく表した尊像表現は筆致が優れ、画面に対して各尊を大きめに配したために密度が生まれ、特に胎蔵界は曼荼羅としては稀な生動感が生じている。注目されるのは金剛界が八十一尊曼荼羅であり、胎蔵界曼荼羅も白描叡山本大悲胎蔵大曼荼羅(永暦元年銘、醍醐寺蔵)系統の図像と目され、天台系の両界曼荼羅図であると見なされることである。
以上の三幅は同一の表装であったが、胎蔵界曼荼羅の旧軸木に以下の修理銘がある。…全文
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
写真一覧
絹本著色両界曼荼羅図
絹本著色両界曼荼羅図
絹本著色両界曼荼羅図
絹本著色両界曼荼羅図
絹本著色両界曼荼羅図
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絹本著色両界曼荼羅図
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解説文
倶利迦羅竜剣二童子図は中央に蓮華上に立つ三鈷剣に纏わりつく倶利迦羅竜王を大きく表し、竜王の右に矜羯羅童子、左に制〓迦童子を配した図である。竜王と二童子は遍身火焔に包まれており、いずれも海中の巌上に立っている。 剣を四足で掴み刃先から呑み込もうとする竜王は金色身で、首に如意宝珠を付け、額に玉角一本が生え背には鋭い背鰭が尾先に至る。熾烈に燃え盛る火焔は、画面左上部にちぎれ飛ぶ火の玉まで表している。また蕨手状に立ち上がる炎を丹で表している。 二童子は肥満した滑稽味のある表現で、矜羯羅童子は右手に持った棍棒を地に立て、赤紐で鈴を付けた棒端を押さえる右手甲に顎を乗せる。左手は腰脇につけて独鈷杵を握る。制〓迦童子は左手に棍棒、右手には三鈷杵を握り、竜王を見上げる。矜羯羅童子は白肉色身で、頭頂を剃り前髪を揃えて真っ直ぐに両目上まで垂らしている。両肩に青布を巻き、条帛は長く左腰下に及ぶ。制〓迦童子は赤色身で結んだ口の端に小牙を出す。黄土色の髪は左右に扇状に広がり額を露わす。豪華な金色の胸飾を懸け、広布を右肩で結び余を左腕から体正面に垂らしている。二童子の火焔は光背状に丹を薄く地塗りし、制〓迦童子では朱で描き、矜羯羅童子では丹に片暈し風に朱を塗っている。 倶利迦羅竜および二童子は『尊勝悉地法』(善無畏訳『仏頂尊勝心破地獄転業障出三界秘密三身仏果三種悉地真言儀軌』)に不動明王の変成身として説かれる。これはいわゆる不動十九想観とも共通する道場観の一過程であり、本図はこれを絵画化したものと考えられるが、竜を不動明王に見立てるならば通例の不動明王二童子像の一変形と見られなくもない。一方、除病や降雨を祈り造像されることが『説矩里迦龍王像法』に説かれており、画面が薫染により汚れていることをも考えれば、本図はそのような倶利迦羅法の本尊として造像されたと解することも可能であろう。 倶利迦羅竜の画像例は、兵庫・鶴林寺太子堂内陣の西北柱に五童子を従えた倶利迦羅竜剣図があり、石山寺に白描倶利迦羅竜三童子図像があるが、本図の竜の表現は後者に近い。一方、本図の二童子の配置は通例と逆であり、その表現は例を見ない独特のもので、両者ともに火焔光背を表していることも珍しい。特に火焔を伴う二童子像は滋賀・恵光院蔵不動明王二童子像(重文)のような例があるものの極めて稀で、他には智証大師様とされる不動明王三童子五使者像の三童子に火焔を表しているくらいである。 本図の表現を見ると、例えば波飛沫の表現は平安時代作であるフリア美術館蔵如意輪観音像中のものに近似する。火焔に墨色を用いることは滋賀・大林院蔵不動明王二童子像(重文)に見られるが、矜羯羅童子の火焔のように朱暈で丹の炎を表すことは珍しく、火焔の形状には京都国立博物館保管烏枢沙摩明王像(重文)に類した特徴的な弧線の繰り返しが認められる。竜の表現が石山寺白描本に近く、波の表現などに平安風をよく残しているが、本図の制作時期は鎌倉時代前期に想定される。さらに、真言宗ながら立地的に天台の図像が入りやすかった石山寺を一応除外するとしても、以上の諸類例から本図が天台系寺院で制作されたと推測することが許されよう。 本図は以上のように図像学的な貴重さにとどまらず、的確かつ勢いのある線描、二童子や火焔にみられるような豊かな表現性を持っており、絵画史上重要な遺品ということができよう。 本図は両界曼荼羅二幅と同一の箱に納められ伝来した。 金剛界曼荼羅は成身会一会からなる八十一尊曼荼羅。大略は白描叡山本金剛界曼荼羅図像と共通するが、若干の差異も存す。特に降三世明王が立像で大自在天と烏摩妃を踏む点が大きく異なる。 胎蔵界曼荼羅は各尊像が白描叡山本胎蔵界曼荼羅図像と共通する。開敷花王如来の右手を指先を下に向け、天鼓雷音如来の右手を膝ではなく足首に近く置くこと、功徳天が右手掌を正面に向けず地に向けることなど、微細な点を除き、よく一致する。 両幅は保存状態が悪く彩色の剥落が進んでおり、特に金剛界曼荼羅図では上部に大きな後補部分があり、白色の補彩が画面全体に施されて画面を著しく損ねている。しかし、両幅ともに同時の制作とみられ、的確で歯切れの良い象形から鎌倉時代半ばを降らない作と思われる。特に胎蔵界曼荼羅では白描叡山本図像と同様に頭部を大きく表した尊像表現は筆致が優れ、画面に対して各尊を大きめに配したために密度が生まれ、特に胎蔵界は曼荼羅としては稀な生動感が生じている。注目されるのは金剛界が八十一尊曼荼羅であり、胎蔵界曼荼羅も白描叡山本大悲胎蔵大曼荼羅(永暦元年銘、醍醐寺蔵)系統の図像と目され、天台系の両界曼荼羅図であると見なされることである。 以上の三幅は同一の表装であったが、胎蔵界曼荼羅の旧軸木に以下の修理銘がある。…全文
関連情報
添付ファイル
重要文化財1983解説文