国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
摧邪輪
ふりがな
:
さいじゃりん
解説表示▶
員数
:
2帖、1冊
種別
:
書跡・典籍
国
:
日本
時代
:
鎌倉(上~中)、室町(下)
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
02519
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2001.06.22(平成13.06.22)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
京都府
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
仁和寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
『摧邪輪』は、明恵房高弁【みょうえぼうこうべん】(一一七三-一二三二)が法然房源空撰になる『選択本願念仏集』の専修念仏説に反論した書で、専修念仏批判と思想を伝える著述の第一に挙げられるものである。法然入寂の年、建暦二年(一二一二)九月に平基親作の序をつけた建暦版の『選択集』が印行された。これを契機に、高弁は同年十一月二十三日に『摧邪輪』を成し、翌三年三月一日に貴人に進上している。内容は、二か条の非難すべき点を挙げて論難している。論難の第一は菩提心を撥去【はつきょ】する過失、第二は聖道【しょうどう】門を群賊に譬える過失である。
本書は、仁和寺塔中蔵に伝来した二帖、一冊からなる写本で、『摧邪輪』の現存最古本である。
本書の巻上・中の体裁は粘葉装冊子本、巻下は袋綴装冊子本である。外題を「摧邪輪巻上」(左肩)、また右上に「乙第四箱」、右下に「心蓮院」(巻上は墨消、巻下は「真性之」)と墨書する。料紙には楮紙を用い、押界を施している。首題「於一向専修宗選擇集中摧邪輪巻上」以下、尾題「選擇集中摧邪輪巻上」までを完存する。
本文は各過失を示し、次に『選択集』を引用し、その後、『無量寿経』『観無量寿経』の浄土経典をはじめ、浄土五祖の曇鸞【どんらん】・善導【ぜんどう】らの所説を引きながら、私見を問答形式で展開している。
奥書によれば、巻上は正和五年(一三一六)十二月に書写され、翌六年二月に点を加えている。その後、善財院御房から本書を給った奝怡【ちょうい】は、享禄三年(一五三〇)に寺家本で校合【きょうごう】・校点【こうてん】を行っている。
巻中は元応元年(一三一九)六月に「宗雅」によって書写・校合が行われた。本書は高山寺閼伽井坊の所持本であったものを、奝怡が一期の間借り受け、享禄三年十二月に寺家本と善財院本とによって校合・校点を加えている。底本としたのは、本奥書から建暦三年(一二一三)神護寺南房において覚玄が書写・校合したもので、賢弁が所持していたものであることが知られる。
巻下は享禄三年に 怡が田中坊本を底本として書写している。そして、寺家の二本によって校合し、寺家本で交点を加えている。奝怡(?-一五七九)は『仁和寺諸院家記(恵山書写本)』によれば、仁和寺心蓮院の住僧で、和気明重の子、初名を「真性」と称したことが知られる。
いずれの巻にも、稠密に墨仮名・返点【かえりてん】が付されている。このように、本書は高山寺山内で書写・校合・借覧などが行われたことを示している。この伝来の異なる二帖、一冊は 怡によって取り合わせされたもので、以後仁和寺心蓮院において一具の『摧邪輪』として襲蔵されてきたものである。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
『摧邪輪』は、明恵房高弁【みょうえぼうこうべん】(一一七三-一二三二)が法然房源空撰になる『選択本願念仏集』の専修念仏説に反論した書で、専修念仏批判と思想を伝える著述の第一に挙げられるものである。法然入寂の年、建暦二年(一二一二)九月に平基親作の序をつけた建暦版の『選択集』が印行された。これを契機に、高弁は同年十一月二十三日に『摧邪輪』を成し、翌三年三月一日に貴人に進上している。内容は、二か条の非難すべき点を挙げて論難している。論難の第一は菩提心を撥去【はつきょ】する過失、第二は聖道【しょうどう】門を群賊に譬える過失である。 本書は、仁和寺塔中蔵に伝来した二帖、一冊からなる写本で、『摧邪輪』の現存最古本である。 本書の巻上・中の体裁は粘葉装冊子本、巻下は袋綴装冊子本である。外題を「摧邪輪巻上」(左肩)、また右上に「乙第四箱」、右下に「心蓮院」(巻上は墨消、巻下は「真性之」)と墨書する。料紙には楮紙を用い、押界を施している。首題「於一向専修宗選擇集中摧邪輪巻上」以下、尾題「選擇集中摧邪輪巻上」までを完存する。 本文は各過失を示し、次に『選択集』を引用し、その後、『無量寿経』『観無量寿経』の浄土経典をはじめ、浄土五祖の曇鸞【どんらん】・善導【ぜんどう】らの所説を引きながら、私見を問答形式で展開している。 奥書によれば、巻上は正和五年(一三一六)十二月に書写され、翌六年二月に点を加えている。その後、善財院御房から本書を給った奝怡【ちょうい】は、享禄三年(一五三〇)に寺家本で校合【きょうごう】・校点【こうてん】を行っている。 巻中は元応元年(一三一九)六月に「宗雅」によって書写・校合が行われた。本書は高山寺閼伽井坊の所持本であったものを、奝怡が一期の間借り受け、享禄三年十二月に寺家本と善財院本とによって校合・校点を加えている。底本としたのは、本奥書から建暦三年(一二一三)神護寺南房において覚玄が書写・校合したもので、賢弁が所持していたものであることが知られる。 巻下は享禄三年に 怡が田中坊本を底本として書写している。そして、寺家の二本によって校合し、寺家本で交点を加えている。奝怡(?-一五七九)は『仁和寺諸院家記(恵山書写本)』によれば、仁和寺心蓮院の住僧で、和気明重の子、初名を「真性」と称したことが知られる。 いずれの巻にも、稠密に墨仮名・返点【かえりてん】が付されている。このように、本書は高山寺山内で書写・校合・借覧などが行われたことを示している。この伝来の異なる二帖、一冊は 怡によって取り合わせされたもので、以後仁和寺心蓮院において一具の『摧邪輪』として襲蔵されてきたものである。