国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
絹本著色頼朝先考供養図
ふりがな
:
けんぽんちゃくしょくよりともせんこうくようず
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員数
:
1幅
種別
:
絵画
国
:
日本
時代
:
江戸
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
01940
枝番
:
02
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1996.06.27(平成8.06.27)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
愛知県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
大御堂寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
「義朝最期図」には平治元年(一一五九)十二月の平治の乱に敗れて落ちのびる源義朝が尾州知多郡野間の地で譜代の家臣であった長田庄司忠致父子によって謀殺され、のちに義朝の子頼朝が忠致父子を磔に処する話が描かれ、もう一方の「頼朝先考供養図」には、建久元年(一一九〇)十月、頼朝が上洛の途上に野間に立ち寄り、父の供養のために修した大法会の様子を描く。本図には絵解き台本が伝わっており、その内容はおおむね「平治物語」に依拠している。
本作品は、尾張藩初代藩主徳川義直(一六〇〇-一六五〇)によって大御堂寺に寄進された本図は、以来第一の寺宝として同寺に伝来した。制作年代については、同寺の絵解き台本に「此絵は当国御領祖源敬様の御寄付、絵師は狩野探幽十八歳の筆」とあり、狩野探幽が元和五年(一六一九)に、十八歳で描いたものと伝えている。本図の制作時期をその作風から判断するならば、樹法・岩組の描写が探幽の父である狩野孝信(一五七一-一六一八)の画風に非常に近い。晩年の孝信は元和四年に没するまで狩野派の指導的地位にあり、元和期は本図の制作時期として妥当と思われる。この時期の探幽作品には円郭壺形「守信」印が用いられているが、「義朝最期図」には従来みいだされなかった壺形「守信」印がおされている。しかし、同形の印は『古画備考』に収載されており、また、探幽十歳筆「渡唐天神図」の模本(東京国立博物館)に本作品と酷似する印影が写されている等、この印影をもつ探幽の若書きが今後に発見される可能性はのこされている。
なお、「義朝最期図」に比べて「頼朝先考供養図」は筆致がやや弱く、雲霞の形態等もわずかに相違するので、分担制作が行われた可能性がある。とはいえ、狩野派の中の共同制作の一端と理解しうるわずかな相違である。
本作品は十六歳で幕府の御用絵師となった狩野探幽を中心とする制作である可能性が高く、従来の簡略な描法の作品からは知られなかった若年期の探幽の優れた一面がうかがわれる。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
「義朝最期図」には平治元年(一一五九)十二月の平治の乱に敗れて落ちのびる源義朝が尾州知多郡野間の地で譜代の家臣であった長田庄司忠致父子によって謀殺され、のちに義朝の子頼朝が忠致父子を磔に処する話が描かれ、もう一方の「頼朝先考供養図」には、建久元年(一一九〇)十月、頼朝が上洛の途上に野間に立ち寄り、父の供養のために修した大法会の様子を描く。本図には絵解き台本が伝わっており、その内容はおおむね「平治物語」に依拠している。 本作品は、尾張藩初代藩主徳川義直(一六〇〇-一六五〇)によって大御堂寺に寄進された本図は、以来第一の寺宝として同寺に伝来した。制作年代については、同寺の絵解き台本に「此絵は当国御領祖源敬様の御寄付、絵師は狩野探幽十八歳の筆」とあり、狩野探幽が元和五年(一六一九)に、十八歳で描いたものと伝えている。本図の制作時期をその作風から判断するならば、樹法・岩組の描写が探幽の父である狩野孝信(一五七一-一六一八)の画風に非常に近い。晩年の孝信は元和四年に没するまで狩野派の指導的地位にあり、元和期は本図の制作時期として妥当と思われる。この時期の探幽作品には円郭壺形「守信」印が用いられているが、「義朝最期図」には従来みいだされなかった壺形「守信」印がおされている。しかし、同形の印は『古画備考』に収載されており、また、探幽十歳筆「渡唐天神図」の模本(東京国立博物館)に本作品と酷似する印影が写されている等、この印影をもつ探幽の若書きが今後に発見される可能性はのこされている。 なお、「義朝最期図」に比べて「頼朝先考供養図」は筆致がやや弱く、雲霞の形態等もわずかに相違するので、分担制作が行われた可能性がある。とはいえ、狩野派の中の共同制作の一端と理解しうるわずかな相違である。 本作品は十六歳で幕府の御用絵師となった狩野探幽を中心とする制作である可能性が高く、従来の簡略な描法の作品からは知られなかった若年期の探幽の優れた一面がうかがわれる。