国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
絹本墨画淡彩釈迦三尊図〈愚渓筆/〉
ふりがな
:
けんぽんぼくがたんさいしゃかさんぞんず
解説表示▶
員数
:
1幅
種別
:
絵画
国
:
日本
時代
:
南北朝
年代
:
西暦
:
作者
:
愚渓
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
01955
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1997.06.30(平成9.06.30)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
京都府
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
宗教法人万寿寺
管理団体・管理責任者名
:
宗教法人東福寺
解説文:
画面いっぱいに釈迦三尊を三角形に配して表している。三尊はいずれも跪る獣に乗る姿で、とくに釈迦が水牛の背に坐す例は他にみられない珍しい図像である。
釈迦は画面中央上寄りに、顔を向かって左方に斜めに向けてひざまずく水牛の上に、左膝を屈し右足を踏み下げた形に乗る。両手を胸前に合わせるか、あるいは説法印を結ぶのであろうか、左手は偏袒右肩に纏った衲衣にすっぽりと包んでいる。肉髻は低く頭頂が禿げるのみで、多くの禅宗画が好んで表したように、顎髯を伸び放題に生やした苦行後の面相である。
釈迦の右前には六牙の象の背に横座りに右足を垂らした普賢菩薩が、何枚か重ね合わせた葉(写経した多羅葉であろうか)を捧げ持っている。その向かい側、画面右下には獅子の上に両足を垂らして腰掛ける文殊菩薩が、両手に竹杖を握り両足に挟むように地に立てている。両菩薩ともに長髪を方に垂らすが髻を結わず、冠や耳環、釧をつけるものの釈迦と同様に衲衣を偏袒右肩に纏い、通常の菩薩形と異なる。むしろ、禅宗で頻繁に描かれた寒山拾得の姿に通い合うものがあろう。
釈迦が牛に乗る点については、『生経』の「仏説水牛経」等の仏典に根拠が求められるかもしれないが、畠山記念館蔵絹本著色黄老渡竺図、すなわち老子が天竺(インド)に赴く場面を表した画があり、ここでは歩む牛の背に釈迦と同様に表された老子が乗っており、むしろこのほうに関連があると思われる。これは老子が天竺に渡って釈迦となり仏教を立てたとする『老子化胡経』の説に、おそらく関係があるのであろう。中国禅宗と老荘思想との相近さが指摘されており、このような思想が必ずしも仏教を貶めるものとばかりにされていたのではないようである。
以上のように本図は伝統的な釈迦三尊像とは異なり、多分に中国禅林において新たに形成された造形を写しているものと推測される。人物の肉身は細く均質な墨線で象り、衲衣は打ち込みと肥痩のある濃墨の線で表し、獣はより淡く柔らかい墨線で描くなど、線質によって質感を描き分けている。さらに背景には墨の片暈しによって涌雲を表すというように水墨主体であるが、衣の文様や金物等には金泥を用い、肉身のモデリングや唇等には朱を使っている。また、三尊の表情には激しい気迫がみなぎっており、超俗的な、あるいは洒脱で軽妙な多くの禅林水墨画作品とは一線を画した、特異な表現性が本図にはある。
「右恵愚渓筆」と画面右上に墨書がある。愚渓【ぐけい】は万寿寺の鉄舟徳済【てつしゆうとくざい】の弟子とされるが、詳しいことはわからない。しかし、遺された作品の賛等から夢窓派に属し、十四世紀後半期に活躍したことが推測される。遺品には本図のような道釈画のほか山水や花鳥もあり、余技的に墨技をたしなんだ者ではなく、かなり専門化した画僧であったと思われる。日本の初期水墨画史上に活躍した愚渓の遺品のなかで最も力のこもった本図は、特異な図様と表現力をもった優品として貴重である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
画面いっぱいに釈迦三尊を三角形に配して表している。三尊はいずれも跪る獣に乗る姿で、とくに釈迦が水牛の背に坐す例は他にみられない珍しい図像である。 釈迦は画面中央上寄りに、顔を向かって左方に斜めに向けてひざまずく水牛の上に、左膝を屈し右足を踏み下げた形に乗る。両手を胸前に合わせるか、あるいは説法印を結ぶのであろうか、左手は偏袒右肩に纏った衲衣にすっぽりと包んでいる。肉髻は低く頭頂が禿げるのみで、多くの禅宗画が好んで表したように、顎髯を伸び放題に生やした苦行後の面相である。 釈迦の右前には六牙の象の背に横座りに右足を垂らした普賢菩薩が、何枚か重ね合わせた葉(写経した多羅葉であろうか)を捧げ持っている。その向かい側、画面右下には獅子の上に両足を垂らして腰掛ける文殊菩薩が、両手に竹杖を握り両足に挟むように地に立てている。両菩薩ともに長髪を方に垂らすが髻を結わず、冠や耳環、釧をつけるものの釈迦と同様に衲衣を偏袒右肩に纏い、通常の菩薩形と異なる。むしろ、禅宗で頻繁に描かれた寒山拾得の姿に通い合うものがあろう。 釈迦が牛に乗る点については、『生経』の「仏説水牛経」等の仏典に根拠が求められるかもしれないが、畠山記念館蔵絹本著色黄老渡竺図、すなわち老子が天竺(インド)に赴く場面を表した画があり、ここでは歩む牛の背に釈迦と同様に表された老子が乗っており、むしろこのほうに関連があると思われる。これは老子が天竺に渡って釈迦となり仏教を立てたとする『老子化胡経』の説に、おそらく関係があるのであろう。中国禅宗と老荘思想との相近さが指摘されており、このような思想が必ずしも仏教を貶めるものとばかりにされていたのではないようである。 以上のように本図は伝統的な釈迦三尊像とは異なり、多分に中国禅林において新たに形成された造形を写しているものと推測される。人物の肉身は細く均質な墨線で象り、衲衣は打ち込みと肥痩のある濃墨の線で表し、獣はより淡く柔らかい墨線で描くなど、線質によって質感を描き分けている。さらに背景には墨の片暈しによって涌雲を表すというように水墨主体であるが、衣の文様や金物等には金泥を用い、肉身のモデリングや唇等には朱を使っている。また、三尊の表情には激しい気迫がみなぎっており、超俗的な、あるいは洒脱で軽妙な多くの禅林水墨画作品とは一線を画した、特異な表現性が本図にはある。 「右恵愚渓筆」と画面右上に墨書がある。愚渓【ぐけい】は万寿寺の鉄舟徳済【てつしゆうとくざい】の弟子とされるが、詳しいことはわからない。しかし、遺された作品の賛等から夢窓派に属し、十四世紀後半期に活躍したことが推測される。遺品には本図のような道釈画のほか山水や花鳥もあり、余技的に墨技をたしなんだ者ではなく、かなり専門化した画僧であったと思われる。日本の初期水墨画史上に活躍した愚渓の遺品のなかで最も力のこもった本図は、特異な図様と表現力をもった優品として貴重である。