国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
木造大日如来坐像
ふりがな
:
もくぞうだいにちにょらいざぞう
解説表示▶
員数
:
1躯
種別
:
彫刻
国
:
日本
時代
:
鎌倉
年代
:
1318
西暦
:
1318
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
像内に文保二年、元徳三年、建武二年、南都興福寺大仏師法眼康俊、金剛仏子興尊等の銘がある
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
03428
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1991.06.21(平成3.06.21)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
大分県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
金剛宝戒寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
本寺の金堂に本尊として安置される胎蔵界【たいぞうかい】の大日如来坐像である。
檜材を用いた寄木造りの像で、表面はサビ下地の上に漆箔を施し、目には玉眼を嵌入している。頭・躰幹部の木寄せは、各数材を箱状に寄せるもので、頭部は中心部をあけて四材を組み、これに面相部材などを寄せている。躰幹部は、正背面各左右三材と躰側材を中心に組み上げ、さらに正背面に各正中二材の材を矧付けており、これに大略三材からなる両足部などの材を寄せている。
像内は各部材とも丁寧に内刳りが施されているが、そのほぼ全面にわたって、願文【がんもん】や結縁交名【けちえんきようみよう】、大日如来ほかの真言の類が記されている。特に後頭部には、作者である南都興福寺大佛師法眼康俊【こうしゆん】と子息康盛らの名前や文保二年五月の年紀が記されている。また左胸から腹部にかけては同年十二月の年紀と共に金剛佛子興尊の名がみえる。興尊は、『豊後旧記』などに記される本寺中興開山西大寺僧幸尊と考えられ、本像造立の願主にあたるかと思われる。なお、像内にはこのほか、元徳三年(一三三一)と建武二年(一三三五)の年紀も認められ、光背、台座などを含めた造像のすべての完成までにはかなりの期間を要したとも考えられるが、少なくとも本躰部に関しては、前記文保二年五月から十二月の間に造られたとみるのが妥当なところであろう。
興福寺大仏師あるいは、東寺大仏師、さらに運慶五代ないし六代の孫とも自称する作者の康俊は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、当代を代表する南都仏師である。その遺例は現在十数例が知られており、そのうち九州地方には本像の他、大分・永興寺四天王立像(元亨元-二年銘・一三二一-二)佐賀・竜田寺普賢延命菩薩騎象像(正中三年銘・一三二六)、宮崎・大光寺騎獅文殊菩薩及脇侍像(貞和四年銘・一三四八)の三件(いずれも重要文化財)が伝えられている。これらの像はいずれも等身大以下の像がほとんどであり、丈六の大きさを誇る本像は、これを破綻なく見事にまとめ上げた康俊の力量をうかがうに足る大作として貴重な存在である。
なお、本寺は中世、西大寺を中心とする真言律の寺であったことが知られるが、康俊の遺品を伝える永興、竜田の両寺ともかつては西大寺末であり、本丈六像は、九州の西大寺系寺院の造像に康俊が深い関わりを有したことを新たに証する作例としても注目されよう。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
本寺の金堂に本尊として安置される胎蔵界【たいぞうかい】の大日如来坐像である。 檜材を用いた寄木造りの像で、表面はサビ下地の上に漆箔を施し、目には玉眼を嵌入している。頭・躰幹部の木寄せは、各数材を箱状に寄せるもので、頭部は中心部をあけて四材を組み、これに面相部材などを寄せている。躰幹部は、正背面各左右三材と躰側材を中心に組み上げ、さらに正背面に各正中二材の材を矧付けており、これに大略三材からなる両足部などの材を寄せている。 像内は各部材とも丁寧に内刳りが施されているが、そのほぼ全面にわたって、願文【がんもん】や結縁交名【けちえんきようみよう】、大日如来ほかの真言の類が記されている。特に後頭部には、作者である南都興福寺大佛師法眼康俊【こうしゆん】と子息康盛らの名前や文保二年五月の年紀が記されている。また左胸から腹部にかけては同年十二月の年紀と共に金剛佛子興尊の名がみえる。興尊は、『豊後旧記』などに記される本寺中興開山西大寺僧幸尊と考えられ、本像造立の願主にあたるかと思われる。なお、像内にはこのほか、元徳三年(一三三一)と建武二年(一三三五)の年紀も認められ、光背、台座などを含めた造像のすべての完成までにはかなりの期間を要したとも考えられるが、少なくとも本躰部に関しては、前記文保二年五月から十二月の間に造られたとみるのが妥当なところであろう。 興福寺大仏師あるいは、東寺大仏師、さらに運慶五代ないし六代の孫とも自称する作者の康俊は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、当代を代表する南都仏師である。その遺例は現在十数例が知られており、そのうち九州地方には本像の他、大分・永興寺四天王立像(元亨元-二年銘・一三二一-二)佐賀・竜田寺普賢延命菩薩騎象像(正中三年銘・一三二六)、宮崎・大光寺騎獅文殊菩薩及脇侍像(貞和四年銘・一三四八)の三件(いずれも重要文化財)が伝えられている。これらの像はいずれも等身大以下の像がほとんどであり、丈六の大きさを誇る本像は、これを破綻なく見事にまとめ上げた康俊の力量をうかがうに足る大作として貴重な存在である。 なお、本寺は中世、西大寺を中心とする真言律の寺であったことが知られるが、康俊の遺品を伝える永興、竜田の両寺ともかつては西大寺末であり、本丈六像は、九州の西大寺系寺院の造像に康俊が深い関わりを有したことを新たに証する作例としても注目されよう。